第49話 後ろからいきなり王妃様が現れた
その後、1756年5月17日グレートブリテン王国・イギリスはフランス王国・フランスに宣戦布告した。それに対してナポレオンはイギリス上陸を計画し、ドーバー海峡に面したブローニュに18万の兵力を集結させる。
これに対してイギリスはオーストリア、ロシアなどを引き込んで対仏大同盟を結成した。
再び王妃さまより手紙が来た。
「ユイトさんから伺った歩兵の移動スピードを上げる件なんですが、将軍たちに話してみました。でも結果は散々でした。女性の私が何を言い出すのだといった感じで、まったく聞き入れてもらえません。私が男だったら武器を手にして出陣するのですが、歯がゆいかぎりです」
さらに王妃さまから戦況を知らせる続報が届いた。
手紙によると、その後オーストリアはバイエルンへ侵攻したようだ。海でフランスと戦うイギリス軍を支援する意味合いもある。だがナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍を降伏させ、ウィーンへ入って来た。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。これを追うナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣したようだと書いてある。
「アウステルリッツだって!」
「どうしたの?」
手紙を読んで突然声を出したおれに結菜さんがびっくりした。アウステルリッツはチェコの東部に位置する平坦な土地である。
「アウステルリッツではオーストリア軍がナポレオンの罠にはまる」
「えっ」
そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っている。ナポレオンはこれらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があると考え、罠を仕掛けてくるのだ。
おれはすぐユミさんに頼んで王妃さまに手紙を送ってもらった。
「王妃さま、オーストリア軍の事ですが、アウステルリッツの戦いではナポレオンの罠にはまる事の無いようにする必要が有ります。せっかく取った重要な丘から、あえて敵軍が撤退するような事でもあれば、それは罠です」
史実ではアウステルリッツの戦いで、ナポレオンの誘いにまんまとはめられたオーストリア軍は惨敗している。それを王妃さまに知らせようとしたのだ。
トラファルガーの海戦ではイギリスに大敗したが、陸上での勝利は続き、フランス軍はウィーンを占領して大量の火器と、更にドナウ川に架かる橋を無傷で手に入れた。
ここで、ナポレオンは連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。
約5万3千人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣している。対する連合軍の兵力は8万9千人で、数では圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られているだろう。
だが、連合軍は気づいていなかった。他のフランス軍部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンの駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。するとフランス軍の兵力は7万を超え、数的にはなんとか劣勢を補うことができる。
そこでナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた。戦闘を避けたがっているという弱気の演出だ。休戦の話が出るとナポレオンは非常に乗り気な態度を示して見せたのだった。
「王妃さま、ナポレオンは周到な罠を仕掛けています。フランス軍がせっかく確保した戦略上の重要な丘をむざむざ手放すような事はあり得ません。それは罠以外のなにものでもないのです。さらにナポレオンの見せる弱気そうなな演出が、連合軍側の判断を鈍らせているはずです」
「ユイトさん有難うございます。伺った話をすぐ前線の将軍に手紙で伝えました。結果はまだ分かりません」
ナポレオンは戦略上重要な丘からの撤退を指示した。さらに退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍は戦わずしてこのプラツェン高地を占拠することになる。高地と言われているが実際はなだらかな丘である。
翌日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出た。それは次の段階の策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、この様子に連合軍側はフランス軍の弱さの証拠を得たと確信した。
策略は成功した。ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持、慎重な意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠にまんまと嵌る事となった。
「ユイトさん、フランス軍の撤退した高地は連合軍が確保したようです」
「王妃さま、その丘はあくまで死守しなければなりません。特に敵に目立った弱点が見えるようなら、それが罠の可能性もあります。うかつに誘われて攻撃に出ると、罠にはまる恐れが有ります」
連合軍の主力が動けばこの戦は勝てると、ナポレオンは側近に洩らしている。
満を持してロシア・オーストリア連合軍約8万5千はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。
フランス軍は劣勢であり、またその布陣は右翼がなぜか手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力を二手に分け、プラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。
フランス軍右翼を守る第3軍団は高地から駆け下りて来たオーストリア軍の攻撃に耐え切れずに押されたかに見え、さらに多くの連合軍部隊が勝を確信し、フランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。
これがナポレオンの仕掛けた最後の罠だった。
ナポレオンは、主力なのに手薄になった連合軍の中央部に第4軍団を突入させる。守っていたロシア近衛軍団はフランス軍と激戦を繰り広げたが、ナポレオンの投入した新たな近衛隊によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したフランス軍は、他の軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃。夕刻までに、連合軍は1万を超える死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。
「ユイトさん、連合軍はナポレオンの罠にはまり完敗です。私の出した手紙も用を無さなったみたいなのです。ただ帰って来た将軍たちの間では、私がナポレオンの罠を予見していた事に驚いているようでした」
この頃プロイセンは中立的立場を取っていたが、ナポレオンの覇権が中部ドイツまで及ぶに至って、フランスへの宣戦に踏み切る。しかし、プロイセン軍は2倍の兵力をもって攻撃をかけるが撃退される。
さらにフランス軍はプロイセンの救援に来たロシア軍との戦いにも突入。
吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出しロシア軍は撃滅された。
ここにナポレオンのヨーロッパ全土に向けての快進撃が始まった。
「ユイトさん」
「ぎえっ!」
おれは気が小さいんだ。
このアパートは結菜さんとふたりだけで住んでいる。部屋には他に誰も居ないはずなのに、後ろからいきなり女性の声が掛かり、卒倒しそうになった。
「王妃さま」
いつの間にいらしたのか、そこに王妃さまが立っているではないか。
「ユイトさん、また負けたんです」
「あ、の……」
結菜さんの通訳で、オーストリアがまたフランスに大敗をしてしまったと知った。王妃さまは居ても立っても居られず、ユミさんに頼んでまた時空移転をしたという訳だった。
「ユイトさん、どうしたら良いんでしょう」
「あの、王妃さま、どうぞここにお座り下さい」
おれは王妃さまに椅子を勧めた。どうしたらと聞かれても、すぐには答えられない。
「王妃さま、何かお飲みになりますか?」
「ユイナさん、ありがとう」
結菜さんが紅茶を入れようとしたが、その間おれと王妃さまとの会話が途切れてしまうからと、代わって結菜さんにお相手をしてもらう事にした。
おれは紅茶を入れている間に、なんと返事をしようかと考えていたが、なかなかいい答えが浮かばない。
それはそうだろう、なにしろ相手は戦術の天才ナポレオンだ、簡単に勝てるわけがない。現に全ヨーロッパが束になって掛かってもかなわない男なのだ。それは歴史が証明している。
「結菜さん、これは難しいな」
紅茶を出しながら、結菜さんにはつい本音を漏らした。はっきり言ってオーストリアはフランスに、いやナポレオンには勝てない。おれは王妃さまに、ナポレオンの率いる軍がどんなに強いかを話したのだが、今それをこの方は身をもって知りつつあるのだ。
「あの、おなかが空いてないですか?」
この重い空気の中で突然そう聞いたおれを、結菜さんの目が非難するように見つめている。
「いや、今深刻な状況になっているのは、もちろん分かっているよ」
「…………」
「だけどどうしてもいい案が浮かんでこないんだ」
という訳で、とにかくここは腹ごしらえをして、ゆっくり考えようという事になった。
「お昼ご飯は何にしようか」
「回転ずしか牛丼はどうだろう」
「でも王妃さまはお魚がだめでしょう」
「そうか、じゃあ牛丼だな」
結局吉野家の牛丼を食べて頂く事にした。
「ゆいとさん向こうを向いて――」
「分かった」
おれは出かける前に着替えるふたりに対して、後ろ向きになる。またファッションショーが始まったのだ。
「こっちを向いていいわよ」
「イイ、ワ、ヨ」
王妃さまの表情が明るくなっている。少しずつだが日本の言葉も覚えたようだ。前回と同様で、洋服が何着も取り換えられ、なかなか決まらない。
ジーンズを履くと結菜さんが、
「しゃがんでみてください」
「…………」
マリーアントワネット王妃がジーンズでしゃがむ姿はちょっと見られないだろう。だがこれは無理だと仰る。体のラインが綺麗に出て良いと思ったのだが、どうしても窮屈に感じるのか、まあ仕方がない。
やはりゆったりとしたワンピースがお好みのようだ。最終的に王妃さまが選ばれた服は、シアーチェックティアードキャミワンピースだと結菜さんが説明しだす……
「ふんわりとしたルックスでナチュラルフェミニンなムードを漂わせるチュニックであり、シアーな素材に動きをプラスするチェック柄でオリジナリティのあるスタイリング。 さりげなくロマンティックな印象に導くティアードシルエットもポイントです。 デイリーユースにも、お出かけスタイルにも活躍する、マルチなアイテムなんです」
「…………」
もちろんスタイルがいいから、王妃様は何を着ても絵になっている。ベージュ色のロングタイプで身体をゆするとスカートの裾がひるがえるのを、何度も試してご満悦だった。
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