第48話 王妃様からメールが来た
結菜さんがおれに声を掛けて来たその時間は、暑い日差しがこれでもかとアパートの外を支配して冷房も用をなさない。そうかといって部屋を逃げ出すわけにもいかない。
「結翔さん、昼の食事は何にする?」
おれのパートナーである結菜さんが冷蔵庫の取っ手を握ると、けだるく声を掛けてきた。
「そうだな、昨日のカレーが残ってるよね」
「それでいいか」
おれも結菜さんもただの甘党で、はっきり言って食通ではない。結局この日も冷蔵庫から残り物を出して済ませてしまう。そして食後のコーヒーを飲みドーナツを食べながら、何気なくパソコンを見ていた結菜さんが突然興奮しだした。
「結翔さん!」
「なに?」
「ちょっとこれを見て」
彼女がそんな声を上げるのは、本当にすごい事が起きたのか、それとも通販サイトでバーゲンの掘り出し物が見つかったのかのどちらかだ。
「なんなの?」
「これよ」
パソコンのディスプレーに映し出されていたのは、ユミさんからのメールだった。そのメールには王妃さまからの手紙が添付してあった。もちろんこの時点でフランスの王朝は倒れてしまっている。王妃ではなくなったのだが、おれと結菜さんの間では今でも彼女は王妃さまなのだ。
「えっ、なんて言って来たんだろう」
「じゃあ読んでみるわね」
結菜さんに、王妃さまからの手紙を訳してもらう。
「親愛なるユイナさんユイトさん、お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか。おふたりと過ごしたあの部屋での出来事や、ショッピングの光景が夢のように思い出されます。出来ればまたいつかあのような夢を見たいと願っています。
でも現実は大変な事態になっているこちらの様子を話さなくてはなりません。
と言うのも、フランス、ロシアに次ぐ規模の陸軍大国となっているオーストリアにとっても、現在のヨーロッパは予断を許さない状況なのです。
昨年我が国はイギリス、プロイセン、スペインなどと、フランスに対抗すべく同盟を結びました。入手した情報でフランスは、ライン方面からと北イタリア方面から我が国を包囲攻略する作戦のようです。
イタリア方面軍の司令官に任命されたのがナポレオン・ボナパルトだとか。
彼はこれまで最前線でフランス軍と対峙してきたサルデーニャ王国を、わずか1か月で降伏させてしまい、我が軍の拠点マントヴァを4万6千の軍で包囲してしまいました。
ですから、あっ、今将軍たちがいらしたので、詳しくお話を伺おうと思います。
ではまたお手紙を書きますね。
マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリッシュ」
おれはその手紙の内容を知ると、すぐ思い至った。
「この王妃さまが言っている戦争って、あの有名なナポレオン戦争のことだよね」
「そうなの?」
「うん、確かナポレオンが全ヨーロッパを相手に侵略戦争を始める最初のやつだよ」
「全ヨーロッパを相手にするって、ナポレオンはそんなに強かったの?」
「ああ、めちゃくちゃ強かったらしい」
「…………」
結菜さんは動かしていた口を止めると、ドーナツをゴクリと飲み込み聞いてきた。
「でも王妃さまがフランス革命では助かって、歴史が変わってしまったのでは?」
「だとすると、この先はどうなるか分からない」
「…………」
「歴史は変わっても、ナポレオンの強さは変わらないだろうし」
「…………」
マントヴァの要塞は、およそ1万4千人のオーストリア軍兵と3百門の大砲で守られていた。ナポレオンは周辺都市から砲兵装備を徴発して、包囲に必要な2百門近い大砲を揃え、4万6千の兵力を配置した。
その後ユミさんからのメールで戦況が分かってきた。
要塞救援のオーストリア軍がフランス軍を攻撃して激しい戦いが始まったのだが、当初はフランス軍にとって不利に推移した。しかしオーストリア軍の陣形は、起伏の多い地形を十分考慮した陣形には見えなかった。
この事に気づいたナポレオンは、よく連携された断続的な攻撃を仕掛けたようだ。ナポレオンの能力とフランス軍の早い行軍速度によって、オーストリア軍は集結前に各個撃破されてしまう。そしてフランス軍の砲により竜騎兵が一掃されると恐慌状態に陥り、さらに断続的なフランス軍歩兵の攻撃を受け潰走。数千人が捕虜となり、死者はそれを上回ってしまう。
マントヴァは開城となって、オーストリアは停戦を申し入れ、屈辱的な条約を結ばされたのだった。
ユミさんから再びメールが有り、王妃さまの手紙が届けられた。
内容は、戦いに参加した将軍たちの共通する意見は、ナポレオンが異常に強いというもの。王妃さまはオーストリア軍の将軍たちが劣っているとは思いたくはないが、どうもその報告を聞いていると歯切れが悪いと感じたようだ。
そこで、是非ともおれや結菜さんの意見を聞きたいというのだった。
ただおれ達は未来を知っているのだが、王妃さまが何処までそれを認識しているのかは分からない。多分漠然と、特別な知識を持っているのだろうといったところか。
しかしその知識とても、歴史は変わってきているから、下手な事は言えない。
結菜さんも同じ意見だった。
先の戦でフランスはオーストリアに手痛い敗北を味合わせたが、ナポレオンの野望はこんなものではないだろう。全ヨーロッパを視野に、何度でも出陣して来るに違いない。
「結菜さん、ナポレオンの弱点は何だと思う?」
「えっ」
王妃さまから手紙で聞かれて、おれは何とか答えを出そうと歴史の資料を読み漁ったのだが、これだという答えが見いだせずにいた。
「弱点がなかなか見つからないんだ」
「じゃあ強みは?」
「彼の強みは機動力にあるんじゃないかな。兵士達のやる気の問題も関わっている」
「…………」
ナポレオン戦争以前のヨーロッパの諸国は、傭兵を主体とした軍隊を有していた。だがフランス革命を経て創設された軍は、共和国を防衛しようという意識に燃え、一般国民からなる国民軍へと変質していた。革命後は強い愛国心から、自分達の国の為に戦おうという気運に満ちていたのだ。彼らは傭兵の集まりでもなく逃亡のおそれも低い。強い団結心があったため、兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることが可能だった。他のヨーロッパ諸国のように、国王の命令で戦争に行かされるという感じでは無くなっていたのだ。フランスは国民軍となったことで徴兵により軍隊の規模は拡大した。これは当時フランスの人口が他の国と比べ非常に多かったことも優位に働いた。
「後はやっぱりナポレオン個人の能力が大きいな」
「例えば?」
「パリの陸軍士官学校では砲兵科に入っていたんだ。伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなくてね」
「…………」
ナポレオンの活躍したこの時代、歩兵がやる四角く密集した方陣は、四方八方の敵に銃を構える陣形だ。これには側面が無い為、騎兵での攻撃は極めて困難だが、密集しているから砲撃に弱い。砲弾がダイレクトに当たれば一発で壊滅するか、散らばった歩兵は騎兵の餌食になる。
だがおれはまだ気が付いていなかった。新しいこの時代は火器の能力が異常に進化しており、おれの知っている知識は明かに時代遅れとなっていたのだ。
「彼は大砲を駆使する戦術の可能性を、いち早く見出していたんじゃないかな」
「この時代の大砲はまだ黎明期ね」
「そうだよ。花形の騎兵は今の時代で言えばミサイルやステルス戦闘機だけど、そこに登場して来るサイバー攻撃みたいなものだ」
騎兵がまだまだ主役と思われていた時代だ。だが砲兵科出身のナポレオンは大砲を十二分に活躍させる事を考えた。さらに彼は歩兵にも注目した。この時代歩兵の歩くスピードはさほど重要ではなかった。移動命令を出したら、後は到着するまで何もしない。着いたら着いたで、今度は腹ごしらえをして次の戦闘に備えるといった具合だった。
ナポレオンはそこを変えた。徹底的に歩兵の移動スピードを速めたのだ。
敵の2倍のスピードで移動をすれば、チャンスは2倍になると指揮官には説明して急がせた。
おれは王妃さまに宛てた手紙でその事を知らせた。
「王妃さま、敵はスピードを重視しています。対抗するにはこちらも軍の移動スピードを上げる必要が有ります。それでもやっとナポレオンとは対等なスタートラインに立てるわけです」
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