第24話 パインの失踪


 黒海を北上した船がモルダビアの港に着くと、安兵衛達一行はラウラの館に招待される。館は地中海から黒海まで、広範囲に点在していたのだった。

 安兵衛とミネリマーフはラウラと夕食のテーブルに着くと、部屋の所々で灯されるロウソクが荘厳な室内をほのかに照らしている。食事の前にはワインが供された。召使が安兵衛のグラスにも注ぐ。ミネリマーフはハレムで飲んだ事が何度かあるのだが、安兵衛は初めてで戸惑っていた。

 ラウラがグラスを持ちあげた。


「ヤスべ様とミネリマーフ様がいらして頂いたことに感謝致します」


 ミネリマーフも笑みを浮かべてグラスを持ち上げているので、安兵衛も同じようにした。その後ふたりが飲むのを見る。


 ――これは拙者も飲まなくては――


 確かあの方の部屋で飲んだ紅茶というものに色が似ている。だがこれには砂糖とミルクは入れないのだと解釈して、とにかく思い切って飲んでみる事にする。紅茶とは違う始めて味わうものであるが、努めて冷静を装い、全てを飲み干した。


「むはっ!」


 何じゃこれは、のどが焼け、顔が一気に熱くなってくる。


 ―― まさか、毒! ――


 安兵衛の動揺をよそに、共に飲んだはずのふたりはにこやかに会話を続けている。

 どうやら毒ではないようだな……

 さらにその後、食卓に運ばれて来る料理の数々には圧倒されたが、給仕からワインを注がれるごとに責任を感じて飲み干してしまう。その内、酔いが回ってくるという事態を始めて経験する。料理の横に置かれた櫛のようなもので肉を刺し、小刀で切っている間も、ミネリマーフたちの会話が遠くに聞こえていた。

 ところがやがて、なんと身体が自然に揺らいでくるではないか。

 これはひょっとして酒に酔うと言う事なのか、それとも錯覚かと思ったその時、


「ヤスべ様、お料理はお気に召して頂けましたでしょうか?」

「……はっ、え……、はい」

「どうぞもっとお飲みになって下さい」

「はっ、あいや、……はい」


 安兵衛のグラスには更なるワインが注がれた。ワインに酔っているという事態が把握出来ていない。適量という事も分からないまま、また飲み干してしまった。

 その後もラウラさんから声を掛けられ、返事をするのだが、何を話しているのか、もう上の空だった。

 そして帰る時が来た。

 椅子の背とテーブルを手で押さえ、やっと立ち上がると、まるでふわふわと雲の上を行くようではないか。とうとうミネリマーフとラウラさんに、両脇を支えられて歩き始める始末。

 この醜態!

 安兵衛一生の不覚であったが、どうしようもなかった。もしここで暴漢に襲われでもしたら、あっけなく切り殺されてしまっただろう。




 安兵衛達の住まいは、コンスタンチノープルでの事情を聞いたラウラさんが手配してくれた。黒海を見下ろす丘に建つ、なかなかの館であった。


「ラウラさん、こんなにして頂いて有難うございます」


 礼を言う安兵衛とミネリマーフにラウラは「私たち家族にして頂いた恩は、一生忘れません」とほほ笑む。そして、時々安兵衛の顔を見つめるラウラ。その信じられないくらいに整う綺麗な横顔を目にした安兵衛は、何度もドギマギしてしまうのだった。


「ラウラさんは本当にお綺麗な方ですね」

「…………」


 ふたりだけになると、そう言いながら安兵衛の顔を見るミネリマーフにも、何故かドキッとしてしまった。







 ムラト4世が死去したという情報は、やがて日本にも伝わった。その後オスマン帝国は混乱しているという。


「殿、イングランドより機関銃の話で御座います」

「また来たか」


 秀矩の家臣が声を掛けて来た。幸村は既に隠居して此処には居ない。


「この度はクロムウエル様からの要請で御座います」

「クロムウエル様から?」

「はい」


 結局オスマン帝国に送るはずだった機関銃と弾丸は、クロムウエル宛に送る事になった。仲介はパインが行う予定だ。







 安兵衛達がモルダビアに来てから暫くして、ラウラが館にやって来た。

「これはラウラさん」と、一通りの挨拶が終わると、ラウラはビジネスの話を始めた。


「ヤスべ様、日本との貿易の手助けをしては頂けませんか?」


 中東でイスラムの国がアジアからの香辛料交易ルートを握っている状況では、海に出てアフリカを回ってインドに行くしかないとヨーロッパでは考えられていた。大航海時代では、最初アフリカを回って行くルートが開拓され、さらに大西洋を西に進み続ければ、やがてインドにたどり着くのではと考える冒険者が現れる。ヴァスコ・ダ・ガマはヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ達した最初のポルトガル人である。クリストファー・コロンブスの生きた当時はすでに地球球体説は一般に信じられ始めていたが、東方見聞録にある黄金の国・ジパングに惹かれていた彼はここに西廻りでアジアに向かう計画に希望を見出した。地球が球体であれば、西に進めば東端にたどりつくと。ではあるが、当時まだまだ一般の人々にとって世界は平面に描かれたものであって、西の外れにある大西洋からさらに西に進み続ける事は、迷信深い船乗り達にとっては受け入れがたい航海であった。だがそれをコロンブスは成し遂げたのだ。

 ラウラの説明では、スペインとポルトガルが大西洋経由での航路を開拓した今、ベネチアも遅れをとってはならないと考えているのだという。ヴェネツィアは国際貿易の主流から外れてしまうかもしれないと、危機感を感じ始めている。だからアフリカを回り、日本と交易を始めてアジアに活路を開きたいというのだった。


「分かりました、拙者で出来る事でしたら、お手伝い致しましょう」

「有難う御座います」


 安兵衛はさっそく秀矩様に宛てた手紙を書く。

 その手紙はベネチアの交易船で日本に運ばれた。


 





「殿、安兵衛様から手紙が届いております」

「なに、安兵衛殿から」


 もちろん安兵衛が書いた手紙を読んだ秀矩に異存など無い。すぐに手紙を運んで来たベネチアの交易船との取引が始まった。

 ベネチアは地中海貿易に専念している間も、宿敵ジェノヴァとの戦い、ビザンチン帝国との確執、度重なる大国オスマンとの争いなど、戦いに明け暮れていた。日本で積み込まれた新式火縄銃から、機関銃や弾丸は高値で売れるだろう。また船からはベネチアグラスなどが陸揚げされた。


「仁吉殿、また機関銃が売れますよ」

「分かりました」


 と秀矩様に答えながらも、仁吉は頭を抱えていた。これ以上どうしたら機関銃の生産を高めることが出来るのだ。すでに生産限度いっぱいの稼働率を維持しているというのに。

 だがオスマン帝国のムラト4世が死去されたとあっては、もうオスマンに気を使う必要はない。結局イングランドのクロムウエル宛で輸出する事になっていた機関銃の量を減らし、ベネチアにも回す事にした。

 新式火縄銃をまねて生産し始めていたイングランドだが、さすがに機関銃は仁吉の努力が有ってか、なかなか真似出来ないようだ。だからいまだに輸入に頼っている。無理に増産する事はない。数が少ない方が高値になるではないか。太郎兵衛様も納得していらっしゃる。仁吉はそう開き直る事にした。

 そのイングランドではクロムウエルは内戦で勝利し、ベネチアもやがて軍の勢力が盛り返す事になる。機関銃のせいかどうかは分からない。




 さらに歳月が流れ、ここは仁吉の住んでいた屋敷である。


「これは何でしょう?」


 弟子たちが仁吉の日記や残された遺品を整理していると、設計図らしいものが見つかった。


「砲弾か?」

「それにしては随分細長いじゃないか」


 細い弾丸のような物の後ろに、火薬が何段にも詰まった構造の絵図だ。

 説明書きでは、火薬は順に燃焼して、砲弾自身が遠距離に到達するまで飛び続けるとなっている。但し、あらぬ方角に飛んで行ってしまうので、羽を付けなくてはならないと但し書きが添えられている。

 死ぬまで新しい武器の開発に意欲を燃やし続けた仁吉であったようだ。それは正にミサイルの原型であった。




「佐助さん、留学の人選は佐助さんの言う通りにしました」


 女子と男子が5人づつ、10名が選考に選ばれた。最年長で12歳、ほとんど10歳前後の者たちだ。

 そのあまりにも幼い年齢を危惧する声が当然出たが、


「この子たちはこの先何年掛かるか分からない留学の旅に出るのです」

「…………」

「10年経てば20歳ではないですか」

「…………」


 佐助の声に皆黙ってしまう。ジョン万次郎が日本を離れたのが14歳で帰国した時は24歳だった。

 10人はイングランドに向かう交易船で出立する事になった。

 その後も一年おきに留学は実行され、新たな者たちが旅立って行った。なんとしても日本の優秀な人材を確保するのだという、秀矩の強い意向だった。




 佐助の屋敷に秀矩が来ていた。

 庭からはうぐいすの鳴く声が聞こえて来る。歳月の流れは、若かった秀矩(勝家)にも当然及んでいた。


「佐助さん」

「はい」

「私ももう後を継ぐ者を決めなくてはなりません」

「…………」


 血のつながりなど関係ない、日本の為になる人材を登用したいのだが、なかなかいないのだった。もう猶予が無い、だからこそ多くの若者をイングランドに留学させているのだ。しかしやはり時間は掛かる。

 秀矩一代で出来る事ではない。幸村殿も既にこの世には居ない。だが、思いも掛けない出来事が起こったのは、そんな事を考え悩んでいる時だった。


「殿」

「どうした」

「パイン様が行方不明との事で御座います」

「なに!」


 イングランドとの仲介をしている貴重な人物だ。そのパインがもう何か月も行方が知れないという。シャムの自宅から、忽然と姿を消してしまったという話だった。パインに関してはいろいろな情報が錯綜していた。シャム政府や反政府勢力との抗争に巻き込まれたという話等がまことしやかに語られている。

 結局パインはそのまま二度と現れる事無く、人々の記憶から消えて行ってしまった。自宅には莫大な財産を残したままだった。




 秀矩はまた佐助の屋敷に居た。


「佐助さん」

「はい……」

「残念な事になりました」

「そうですね」


 何よりパインは佐助の良き話し相手でもあったのだ。特にふぁっしょんを語る上でなくてはならない人だった。「サスケ」ブランドの輸出もこれで頓挫する事になる。

 ただ佐助にとって頼もしいのは、学行の生徒たちが生き生きと活動を続けている事だ。もう佐助の助言が無くとも、自主的に前に進み始めている。


「秀矩様、思い悩む事はありません。あの子たちが後を継いでくれるではありませんか」

「そうですね」


 年月が経つというのは、若者が成長するという事だ。留学に行った生徒達も、頼もしくなって徐々に帰り始める。さらに全国から学行に集まって来る生徒は千人を優に超え、その数は年々増え続けている。秀矩や佐助の指示を待つまでもなく、現場では野心的な改革が進んで行く。女子学行や男子学行だけではない、ついには勉学に男女の区別をつけるのはおかしいとの声から、共学の授業も試験的に実行されたのだ。講師の顔ぶれは、既にパインの紹介でイングランドからやって来た者が多数いる。さらにオランダや、ベネチア、スペインやポルトガルの者までグローバルな陣容となっていた。

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