第23話 コンスタンチノープルを脱出する


 先の戦から3年後、ムラト4世は再び号令を発した。

 第2次ムガール侵攻である。

 今回の目標は赤い城と呼ばれているデリー城だ。前回攻略したラホール城から約4百キロほど南に下った、現在のニューデリーだ。ムガールは相当なダメージを負ったのか、この3年間は制圧されたラホール城にも反撃して来なかった。

 コンスタンチノープルから出陣の日、安兵衛を見送るミネリマーフの足元には、幼い娘も立っていた。

 オスマン軍の陣容は、前にも増して充実している。


「ヤスべ」

「はい」

「この戦で、一気に片を付けるぞ」


 ムラト4世は上機嫌だった。日本からは新しい機関銃と弾丸が送られて来ている。オスマン軍の優位は明かだと思われたのだ。

 ついにオスマン帝国軍はデリー城に近づいたのだが、ムガール軍は城に立てこもったまま、出てこようとしない。城壁を相手には、さすがの機関銃も出番が無く、大砲を城壁の一点に集中して猛砲撃を加えた。

 ムガール軍も城壁の上から砲撃して来るのだが、狭い場所であまり多くの大砲は置けない。オスマン軍の砲撃の方が圧倒的な量だ。終日の砲撃で、ついに城壁が突破され、後はいつもの惨劇が待っている。

 だが、ここでもムガール皇帝アウラングゼーブを取り逃がした。そしてムラト4世の下に、ムガール軍はここから2百キロ南のファテープル・シークリーという都市近郊に軍を集結させ、最後の決戦を図っているという情報がもたらされた。


 ムラト4世がすぐ軍を再編させ進軍を命じると、ムガール軍も必死の抵抗を試みた。数では帝国の全軍が集結したムガールの方が勝っているかもしれない。騎兵と象兵の全てが投入され、オスマン軍対ムガール軍の歴史に残る大決戦になった。

 ムガール側も機関銃の威力を知って、その対策を講じてきた。密集陣形を止め、広範囲からの攻撃に徹した。出来るだけ機関銃の被害を少なくしようとするのだが、やはりその射程距離はとんでもなく長かった。オスマン軍に到達する前に騎兵や象兵などは倒されてしまう。

 両帝国軍の戦いも、ここで勝敗が決した。ムガールの敗残兵が逃げ込んだ20キロほど東に位置する最後の城、アーグラ城塞も落ちた。ムガールの先帝シャー・ジャハーンは、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めるこのアーグラ城に幽閉されていた。長女のジャハーナーラー・ベーグムは親身になって世話をし続けていたが、オスマン軍によって救出される。

 インドの地はオスマンの土地と風土も違い、人心を得る事も、統治も難しいとムラト4世は感じ始めている。ならば幽閉されていた先の皇帝を助けて、民衆の支持を得る道が有るではないかと考えていたのだ。直接統治ではなく、先の皇帝を支持する間接的な統治の方が良いのではと。


 執拗に抵抗を続けていたムガール皇帝アウラングゼーブは、ここでついに捕らえられた。ムラト4世の前まで引きずられ、数人の副官と共に突き出される。


「…………」

「…………」


 長い戦いの末に勝者が敗者達を見下ろしている図である。アウラングゼーブは下を向いたまま無言であった。だがムラト4世は振り返ると手を伸ばす。そして太刀持ちが差し出す剣を無言で引き抜くところを見たアウラングゼーブの顔色が変わった。


「――――!」


 左右から取り押さえられていた副官達の首が、その場で次々と切り落とされる。

 そして最後にひとり残ったアウラングゼーブは、先帝を幽閉していた塔から二度に渡って投げられると、頭蓋骨を割られて死亡。その後は首が切断され、城壁に晒された。

 だが、ここまで順調に侵攻して来たかに見えたオスマン軍に、突然暗雲が忍び寄って来た。ムラト4世がアーグラ城塞攻防中に肝硬変を発祥したのだ。冬になると症状が悪化したが、一進一退の状況でも飲酒を止めなかった。


「ヤスべ」

「はい」


 ムラト4世は床に横たわったまま、安兵衛に話し掛けた。


「次の皇位を決めなくてはならないのだ」

「…………」


 ついにやって来た死の床で、皇位をクリミア・ハン国の者に継がせようと安兵衛に話した。実行されたらオスマン朝が断絶してしまう。オスマン家の後は、チンギスハンの血を引くクリミア・ハン家が継ぐ、という事だ。

 ムラト4世には皇子も兄弟も居なかった。兄弟は後継者争いを警戒し、片端から処刑してしまっていたのだ。だから広大な帝国の統治者大ハーンの地位は、チンギスハンの血を引く一族の優れた者が着くべきだと考えていたのだ。しかし、それはムラト4世にとって苦渋の決断だっただろう。

 ただ、たったひとり、忘れられたような弟イブラヒムがまだ残っていた。


 そしてムラト4世は後継者を決めないまま突然死去。オスマン軍は皇帝の死を伏してコンスタンチノープルに帰還した。

 その後イブラヒムは即位するが、宮廷内の皇帝殺害の陰謀による恐怖から、玉座を全く嬉しく思っていなかった。兄達が次々に殺されていく中、長期間宮殿の鳥籠と呼ばれる部屋に幽閉されていた経験が、彼の精神をむしばんでいた。やがて神経衰弱の余り気まぐれで淫乱な皇帝となって、暇つぶしに庶民を殺したり、宝石をプールに投げ込んでは、ハレムの女たちが拾い合う様を眺めたり、1日に数十人の女と性行為に及んだりした。その為「狂人イブラヒム」とまで言われるようになった。


 

 安兵衛は館で侍女を遠ざけ、ミネリマーフとふたりだけになると話し出した。


「ミネリマーフさん」

「はい」

「もう宮廷に私の居る場所は有りません」

「…………」


 ムラト4世が崩御された後、安兵衛は体調不良を理由に、館に閉じこもってしまっている。その後宮廷にはいかがわしい祈祷師などが出入りし、そうした人物が政府の高官にまで上りつめる。実質的には皇帝イブラヒムの母親であるキョセムが宮廷を取り仕切っていた。

 やがて苦言を呈した大宰相がキョセムによって処刑される。軍事的にも行政的にも能力のない、取り巻きが増えていく。その連中が安易に始めたクレタ島包囲は、ヴェネチアの報復を招いてしまう。ダーダネルス海峡はヴェネチア海軍に封鎖され、コンスタンチノープルを二分しているボスポラス海峡の制海権さえ奪われかねない状況になる。最も重要な海峡の自由な航行権を奪われてしまう事態に、コンスタンチノープルは苦境に立たされた。


「ヤスべ様」

「はい」


 ミネリマーフが安兵衛に思いを打ち明けた。


「モルダビアに参りませんか?」

「モルダビアに?」


 ミネリマーフはオスマン帝国を離れ、ふたりでモルダビア公国に行こうと言うのだった。現在のモルドバである。コンスタンチノープルからは陸路でブルガリア、ルーマニアを抜ける、約6百キロほどの距離だ。


 やがて軍団への課税を試みた新大宰相に対し、イェニチェリが蜂起する。イブラヒムは廃位させられて、大宰相ともどもキヨセムも殺される事態に発展。帝国の首都コンスタンチノープルは混乱の極みに達した。もはや前の皇帝の側近ヤスべの事など、誰も気にしていなかった。完全に忘れ去られた存在になっていたのだ。


「ミネリマーフさん、モルダビアに行きましょう」


 ミネリマーフと安兵衛のふたりが持つ宝石や金貨などを合わせれば、モルダビアでも当分の間暮らしていけるだろう。すぐに侍女と召使に話すと、私たちも連れて行って欲しいと頼まれた。


「分かりました。連れて行きましょう。それからあなた方はもう奴隷では無いのですから、下を向いて話をしないで下さい」


 オスマン帝国で奴隷は主人の顔を見てはいけないとされている。話をする時も下を向いたまましなければいけないのだ。

 すぐに馬車を用意して出立したが、ここで問題が起きた。帝国の内乱が原因で、国境付近の治安が悪くなっているらしい。さらにオスマンに従属していた各都市で反乱が相次ぎ、女性連れでの6百キロの陸路は危険だと考えられる。


「私は船を探してきます」


 黒海を船でモルダビアまで直接行けば、陸路ほどの危険は無いだろう。

 安兵衛はすぐ港でモルダビアまで行く交易船を探したのだが、適当な船が見つからない。時期が悪すぎる。不審者とみなされ、乗船はどの船からも敬遠されてしまった。仕方なく見つかるまではと、港の安宿に泊まり、乗せてくれる船を見つける事にした。

 何日も探し続けていたある日、


「旦那」

「ん?」

「旦那に会いたいと言う男が来てますぜ」


 宿の使用人が声を掛けて来た。

 会ってみると、


「ヤスべ様ですね」

「…………」


 安兵衛は用心した。めったな事はないと思うが、今は自分ひとりではない。妻と幼い娘まで連れている。面倒事は避けたいのだ。


「モルダビアに行く船なら御座います」

「…………」


 男の物腰は丁寧であったが、安兵衛はまだ用心していた。安兵衛がモルダビアに向かう船を探しているという話を、男は港で聞いたというのだ。男が何故安兵衛の名を知っているのか気になったが、スルタンの側近であったヤスべの名はそれなりに知られているのか。男の素振りに怪しい処はないと直感したし、これ以上待っても船は見つからないかもしれない。最後の機会だろう。安兵衛は乗る事にして、侍女たちを含め皆を呼んだ。

 船は3本マストの一際大きなキャラック船で、乗り込むと先ほどの男が声を掛けて来た。


「ヤスべ様、こちらに」


 男が後部のキャビンに案内をするというではないか。そこは船主や船長などの居住空間だ。いぶかる安兵衛は、どうぞお入り下さいと促され入ったのだが、


「――――!」

「ヤスべ様、お久しぶりで御座います」


 そう言ってにこやかに立っていたのは、


「ラウラさん」


 ヴェネツィア商人の娘、ラウラ・アレクシアだった。

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