第10話 安兵衛走る
ユキの父五島安兵衛は九州黒田藩の下級藩士であるのだが、なぜか薩摩藩の剣術、示現流の達人であった。刀を立てて頭の右手側に寄せ、左足を前に出す八相の構え。安兵衛はそれを更に高く構える。その構えから繰り出す豪剣は、兜をも断ち切ると言われている。
この安兵衛であるが、九州で秀矩の率いる豊臣軍に黒田藩が負けた際に、自刃した藩主黒田利則の仇を討とうと決意した。そして藩がお取り潰しとなった後、ひとり密かに機会を狙っていたのだ。
やがて船頭を装って秀矩に近づく機会を得たのだが、秀矩の立ち位置が瞬時に変わり、安兵衛の刃が空を切った。初めて目にする空間移転、信じられない出来事ではあった。しかし自らの不覚と刀を捨てると、逆に秀矩の家臣に取り立てられたという経緯がある。
ここで登場する秀矩とは時の旅人トキの手を借りて、現代から戦国時代に転生していたフリーターである。その後は安兵衛も秀矩と共に時を旅している。未だに信じられない出来事の数々であった。
あの未来からいらしたという方と出会い経験した数々の不思議な出来事は、全て仙人か噂に聞く天界人の仕業ではないか、安兵衛は今でもそのように理解している。つまりあの方は仙人なのだ。そうでなければ突然違う世界に行くなどという事は納得出来ない。
しかしその秀矩様は天界に帰られて、既にこの世界にはいらっしゃらない。
時代は変わり、今は太平の世である。武士の活躍する戦場はもう何処にも無い。だが未だ戦乱の余韻が抜け切らない者が多いから始末が悪い。城下を徘徊する力を持て余した者どもが、無闇に刀を抜いて人を切る有り様なのだ。誰と勘違いしているのか、人違いであると言っているのに、刀を抜いてしまう。血が騒いでいるとは、この連中の事を言うのである。
相手は5人、その内の3人は既に刀を構えている。
安兵衛もやむを得ず左手の親指で鯉口を切り右手で刀を静かに抜くと、一旦下ろした剣先を前にして左脚を引き正眼に構えた。
3人の内ふたりは左右に分かれ刀を構えている。
こんな場面では、3人が同時に刀を突き出せば勝てると思うだろうが、そうはしない。その様な行為は自らの非力を認めるに等しい。武士のプライドがそうはさせないのだ。刃を交える瞬間はあくまでも一対一でなければならない。
安兵衛が正眼に構えていると、正面の男は上段のままジリジリと間合いを詰めて来る。
刹那、男の右脚が出る。同時に安兵衛の右脚が引かれ、
「デアッー」
「ウグッ」
安兵衛の引かれた筈の右脚は再び前に出ていた。男が刀を振り下ろす間も無く、安兵衛の突き出した刃が男の胸を貫いていたのだ。その刀を抜きながら男を背に回転。斬り上げてふたり目を制し更に体を返すと、迫る3人目も袈裟がけで切った。3人の男達が倒れるのは同時であった。残ったふたりの男達は刀を抜くでもなく、茫然と立ち尽くしている。
だが次の瞬間、安兵衛は抜き身の刀を下げたまま駆け出した。視野の片隅に大勢の侍が走って来るのを見たからだ。安兵衛は何故襲われたのかよく分からないまま走り続けていた。恨まれるような事をした覚えはない。男達は他藩の上士のようでもあった。だが刀を抜いてしまった以上はやるか逃げるか、そのどちらかになる。
散々走ってやっと一息つく。なんとか逃げ切った。
見ると田んぼのあぜ道に来ている。安兵衛が立ち止まった足の先を、細長いものがするすると草むらに入って行く。膝を曲げて土手の背で刀の血糊を拭き取り鞘に納めようとする。しかしその安兵衛の顔が曇った。刀が鞘に収まらなくなっているではないか。見ると刀身が僅かに曲がっている。
未熟……
戦場で無数の敵と戦ったのならまだしも、たった3人を切っただけで刀身を曲げてしまうとは。しかしこれが秀矩様から頂いた刀ではなく良かった。安綱という名工が、龍神の力を得て創ったと語り継がれている刀を身に帯びてはいなかったのだ。
安兵衛は刀の先を土手に当て、刀身の中辺りを足で踏み反りを直すと鞘に収めた。
日本中を巻き込んだ戦国の世はすでに終わっている。フリーターであった結翔(ゆいと)は転生して秀矩となり徳川家を滅ぼした。だが現代に帰る結翔からその後の豊臣政権を継がされた毛利勝家は、何度もため息をついてしまう。
うぐいすの鳴き声が聞こえ始めているが、ミニ氷河期と言われるこの時代だ、朝晩の冷え込みは相当厳しい。
「幸村殿」
「はい」
大坂城の一室に静かな時が流れている。豊臣家を引継ぎ、未だ盤石ではない政権のかじ取りを始めた秀矩は、再び深いため息をついて目の前の老人に声を掛けた。小柄ではあるが、厳しい戦乱の世を生き抜いた男の顔がそこにあった。
「あの方ならどうなさったでしょうか?」
「…………」
あの方とは、未来からやって来た人物の事だ。鶴松に転生して豊臣政権の樹立に貢献したその働きは、この時代の者にとっては信じられない出来事の数々だった。
秀矩は幸村の顔を見ず、さらに言葉を続けた。
「こんな事になるのなら、もっと教えを乞うておくべきだったと悔やまれます」
「もう2度とこの時代には来れないだろうと、仰っておられました」
「うん」
不思議なその人物は未来から来て、秀吉の嫡男鶴松に転生し、元服後改名して秀矩と名乗った。
その秀矩様に見いだされて家臣となったのが毛利勝家だ。豊臣政権の経済ブレーン太郎兵衛の元で、一時南蛮貿易の修行を指示されていた。だが一たび九州で戦が起きると、再び刀を腰に帯びて活躍している。
そして今から1年前、その勝家の身に驚愕する出来事が起きる。突然大阪城に呼び出され、「儂の跡を継げ」と、秀矩様に転生させられてしまったのだ。
だから今は殿様と呼ばれる身分にあるのだが、いまだに幸村と呼び捨てにすることが出来ないでいる。
毛利勝家、父は毛利勝永で、関ヶ原で共に戦い敗れた。慶長19年に豊臣秀頼に招かれた父・勝永に従い大坂城に入城。大坂冬の陣・夏の陣では天王寺・岡山の戦いで奮戦したが、大坂城落城時に自刃、享年15歳であった。
「これからは殿がしっかり政権を担わなくてはなりません。きっとあの方は未来から見ていらっしゃる事でしょう」
鶴松の時代から秀矩の家臣となっている幸村は、遠くを見つめるようにして言った。
秀矩(勝家)はお茶を一口飲むと、話題を変えた。
「私はオスマン帝国の復活に手を貸そうと考えています」
「あの滅びた帝国をで御座いますか?」
「そうです」
前に座る幸村が怪訝な顔をして、秀矩の顔を見た。
一度は滅びたかに見えたオスマン帝国だが、亡命中のスルタンがコンスタンティノープルを遠くに見つめ、復活の機会を狙っているという噂があった。
(このあたりの話は史実と違っていますが、ご了承下さい)
「また何故そのようなお考えを……」
「これからの世は日本の中だけを見ていては、世界の動きに遅れてしまうと思われます」
この時代、イングランド王国は新式火縄銃の威力を駆って、世界制覇を達成しつつあった。その先兵たるクロムウエルは、最後の遠征地日本から帰国したばかりだ。だがクロムウエルを祖国で待っていたのは、イングランド王ジェームス1世との対立だった。その後議会派が結成されるなどの混乱に乗じて、イングランドに制圧されていたヨーロッパ各国が一斉に反旗をひるがえした。
そうした事情からイングランドはアジアにまで軍を割り振れなくなってしまう。結果東アジアではそれまでに獲得した領土を清王朝から狭められてしまい、南部の一隅と香港島を残すのみとなってしまう。
東西の王朝は興亡の歴史を繰り返している。日本がこれから大きく羽ばたくには、同盟を結ぶ相手を慎重に選ぶ必要があると、秀矩は考えていた。
オスマン帝国の滅亡は、怠惰な皇帝のオンパレードが原因のひとつだとも言われている。だが、その滅び行くさまを見つめていた一族の中から、きっと有能な者が現れ、失敗を糧に新たな帝国を復活させるに違いない。秀矩はそう考え、そんなスルタンを探し出そうと言うのだった。
「日本の内政は太郎兵衛殿に任せます。それだけの実力を備えている方でしょう」
「…………」
大阪屈指の豪商だった大矢太郎兵衛は秀矩にコメ騒動をきっかけに見いだされ、今では豊臣政権の重要な経済ブレーンとなっている。未来から来た人物の傍に居てその影響をしっかり受けていたのだ。
「ところでパイン殿は今もアジアに居るのですか?」
「はい、そのようです」
「では、私の考えを伝えて、噂が本当ならスルタンの居場所を探すよう連絡して下さい」
イングランドの元海軍士官だったパインも、未来から来た人物の影響を受けているひとりだ。今は商人となりアジアで活躍しているが、豊臣政権とは深い繋がりを持ち続けている。
「それから一度日本に来るように言って下さい。折り入って話が有ります」
「分かりました」
秀矩は言葉を続けた。
「それから幸村殿」
「はい」
「これからの日本はもっと人材が必要です。イングランドに有能な若者を留学させる事が出来ないか調べて下さい」
「分かりました」
この時代、東南アジアには多くの日本人が傭兵などの目的で進出して、アユタヤには日本人村まで出来ている。傭兵や目先の交易だけではなく、日本の将来の為には多くの若者をイングランドに留学させる事は、ぜひとも必要だと考えるのだった。
「それから大阪に全国より若者を集めましょう。志のある者は侍でも町人、百姓でも構いません。だれもが教育を受けられるようにしたいと思うのです」
「…………」
「城下に寺子屋より何倍も大きな規模の学習処をたくさん建て、日本中から若者を集めるよう手配して下さい」
人材を育て、さらにその者らを郷里に返して子弟育成に当たらせると言うのだ。
「分かりました」
「太郎兵衛殿にも協力をお願いしましょう。神社仏閣などより学習処を全国に建てるのです。度重なる飢饉等の問題も、考える人材が多ければ解決出来る可能性が高まります」
「かしこまりました」
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