第9話 ユキさんには手を出すな


 館は3階構造になっているようだ。ゲストルームは2階にあり、階段を上がって行く。踊り場を過ぎて3階に達すると、


「奴の部屋は何処だ?」


 だが、部屋が分かったとしても踏み込むわけにもいかない。

 その時、


「キャーー」


 下から悲鳴が、


「あれは?」

「まずい、ユキさん!」


 3人が階段を一気に駆け下りると、そこから逃げて行こうとする影がある。


「待て!」


 クイナが剣を抜いた。

 だがその動きは素早く、クイナの前から消えてしまう。


「ユキさん」

「大丈夫ですか?」


 ユキがドアを開け、顔を出した。


「今の悲鳴は何?」

「えっ?」

「ユキさんでは無かったのですか?」

「私ではありません」


 戻って来たクイナが、


「取り逃がしました。まるで羽が生えているように身軽な奴でした。ただ……」

「ただ?」

「振り返った時、わずかに見せたあの顔は……」


 クイナが一瞬見た横顔は、執事のようだったと言うのだ。


「皆さんあれをご覧になられましたか?」


 4人が振り返ると、シェルバン・カンタクジノ氏が3階から降りて来る。


「もう皆さんには全てをお話ししなければならないでしょう」


 全員がサロンに移動して、シェルバン・カンタクジノ氏が重い口を開き話し始めた。


「あの者は……」


 だが、シェルバン氏が話し出したその時、


「危ない!」


 クイナがシェルバン氏を突き飛ばした。

 壁際に立っている甲冑が倒れてきたのだ。


「何者!」


 バルクが叫んだ。

 3人が剣を抜く。

 何かがそこに居る。

 ユキとシェルバン・カンタクジノ氏、そしてバルク達3人の周囲に得体の知れないものの気配があった。だが、


「剣を捨てろ」

「――――!」


 3人が振り向き見たものは、別人のようになったシェルバン・カンタクジノに羽交い絞めにされたユキだった。ユキの喉元には光るナイフが突きつけられている。


「ユキさん」

「分かった。剣を捨てる。ユキさんには手を出すな」


 バルクが剣を床に落とすと、他のふたりも剣を捨てた。

 その隙にシェルバン・カンタクジノは後ろのドアを開け、身をひるがえしてユキと共に姿を消した。


「くそ!」


 3人が剣を拾い後を追う。


「裏庭です」


 そう言って現れたのは執事ではないか。


「お前は」


 執事が案内すると言うのだ。


「この野郎」


 クイナが剣を突き出すと、


「まて!」


 タリウトがクイナを止めた。剣を突き付けられた執事が、


「訳は後で話します。奴は裏庭から逃げるようです」


 そう言った執事の案内で裏庭に急ぐ。


「クイナーー、タリウトーー」


 バルクがふたりに指先で左右を指示する。

 シェルバン・カンタクジノを3方から追う。ユキを無理やり連れては逃げきれない。壁際に追い詰めたシェルバン・カンタクジノに、ジリジリと近づいて行く。

 だがその時、意外な事が起こった。

 ユキを羽交締めにしていたシェルバンが、ばったり倒れたのだ。

 そして、


「何だ!」


 背後のツタの前を上がる影のようなものが、上階に消えた。

 一瞬の出来事だった。


「ユキさん」

「大丈夫でしたか?」


 幸いユキに怪我は無かった。気を失っているシェルバン・カンタクジノ氏は3階の部屋に寝かせて、再び全員がサロンに集まった。

 執事が話し出す。


「旦那様は」

「儂の霊を取れ、我を救えばこの身をお前にやろう」

「そう仰ったようなのです」


 ユキ達の前で執事は、シェルバン・カンタクジノ氏に起きた出来事を話し出した。


「それは有る戦での事、敵に追い詰められ、首を取られる寸前で発した言葉のようです。なんと旦那様は脳裏に浮かんだ悪魔と取り引きをしてしまったのでした」

「…………」

「旦那様はその後の記憶が無く、気が付いた時は、戦場にひとり取り残されていたのだそうです」


 それ以来、シェルバン・カンタクジノ氏が別人のようになってしまう夜が出現するのだという。


「あれは悪魔のような魔物に違いありません。人間の生き血を吸おうと、旦那様の身体にたびたび入って来るようになりました。ただそれも夜の内だけで、昼間は来れないのです」


 ユキの様な若い女性の血が狙われると言う。


「ですからお客様がいらした夜などは、寝る事が出来ないのです」

「…………」


「1階から様子を伺っていたのですが、ドアの前に立っていたので、たまたま開けた炊事の者に驚かれてしまいました」

「それで、何故逃げた?」

「申し訳ありません。落ち着いて事情をお話しするべきでしたが、隠れて見ていたので気が動転してしまい、思わず逃げてしまいました」

「…………」






「奴は武器で襲って来る事が無い。人の生き血を吸うだけのコウモリみたいな魔物だ」


 バルク達は魔物は夜行性で、昼間は何処に潜んでいるのか分からないと理解した。


「厄介なのは、人に乗り移ってしまうと手出しが出来ない事だな」



 オスマン帝国軍と対立したワラキアの通称ドラキュラ公だが、最後は追い詰められ、手勢2百人のみとなって現在のブカレスト近郊で戦死する。切り落とされた首はオスマン帝国で晒されたが、ワラキアに残された遺体は、スナゴブ湖に浮かぶ小さな島に葬られる事になる。

 ワラキアのブカレストから30キロほど北の村に湖はある。その中ほどに浮かぶ島に修道院が建っている。ヴラド・ツェペシュの首の無い遺体を埋めた場所とされていて、祭壇の下に墓があるという。


 ユキはバルクら3人と湖にやって来た。

 漁師から小船を借り島に向かった。上陸すると中央付近に修道院が建っている。

 修道士の許可を得て中に入ると、内部は壁や天井を宗教画が埋めつくしている。祭壇の前に四角い蓋があり、持ち上げると地下室が現れた。

 降りて行くと棺があり、蓋を開ける。

 そこに首の無いミイラが有った。吸血鬼を仕留めるという杭を持って来ている。

 しかし何故か皆、此処に魔物は居ないと感じたのだが、念のため杭を打ち込んでみる。

 何も起こらず死者を冒涜してしまった。杭を丁寧に抜くと棺の蓋を閉じた。





「私が囮になりましょう。

「――――!」


 バルク達は驚愕した。


「ユキさん、本当ですか?」


 首は何処に有るのか分からない。後は魔物が現れるのを待つしか無いのだ。

 ユキとバルク達3人は館で待機する。軍団は呼ばない事にした。今回の相手は兵力が多ければ良いというものではない。

 いつもと同じ様に食事をして、シェルバン・カンタクジノ氏からワインを勧められた時だ、


「えっ」


 ユキがシェルバン氏と目を合わせた時、再び首筋にあの冷気を感じたのだ。

 既に魔物はシェルバン氏の身体に入っている!

 立ち上がったユキは右手で柄を握り左手で鯉口を切ると、ゆっくりと抜いてゆく。父から言われていた言葉を思い出す。


 ――龍神の力を得て創られたものだ。お前が強い意志でこの刀を振るえば、切れない相手などいない――


 刀を正眼に構えた。


「どうやら気付いたようだな」


 シェルバンも椅子をずらして立ち上がる。気配を感じたバルク達も部屋に入って来た。


「フフフ、お前達に儂が切れるか?」


 シェルバンが壁に飾られていた剣を手にして、攻撃して来るではないか。

 これはまずい事になった。4人は防戦一方で反撃する事が出来ない。シェルバン氏の身体を傷つける訳にはいかないのだ。それを分かっている魔物は、余裕で剣を振るって来る。シェルバンの剣が執拗に4人を襲うと、4人はなす術も無くジリジリと下がってしまう。

 その時クイナが動いた。シェルバンの剣を叩き落したのだ。


「くっ!」


 手首を掴んだ魔物が呻く。次の瞬間シェルバンの身体が崩れ落ちた。


「出たぞ」


 黒い影が舞い上がってサロンを回り始めると、クイナが前に出て来る。そのクイナをユキは手で制した。


「いえ、この魔物は私が目当てでしょう」

「ユキさん」

「離れていて下さい」


 クイナを退けてユキは刀を顔の横に引き寄せ、目をつぶった。手ほどきを受けていた示現流一撃必殺の剣法。再び脳裏に父の言葉が響く。


 ――龍神が力を貸すのだ。強い意志を持って成せ――


 構える業物は安綱作の名刀である。刀鍛冶としてすでに名声を得ていた安綱が、野心に燃える男から作刀の腕比べを挑まれた時の話が伝えられている。夜が明けぬうちに起き出した安綱が、凍てつく川で何度も冷水を頭から浴び祈ると龍神が姿を現し、「我、汝の願い聞きとどけたりーー」と、そして一塊の玉鋼が残されていたという話だ。

 閉じた瞼の裏側にさまざまな色が現れては変化して行き、やがて黒一色となる。そこに灰色の魔物が現れた。

 真っ赤な口を開け襲い掛かって来た!


「イエッーー」


 ユキが刀を振るうと刃は龍の化身となって魔物に襲い掛かり、見事に断ち切った。飛び散った血が直ぐに黒ずんで行き、ついには染みとなって消えてしまった。





 翌朝である、窓から館にまぶしい日が差している。


「ユキ殿、このご恩は忘れません」


 シェルバン氏は、「あの魔物が本当に死んだのかどうかは未だ分かりませんが……」そう言って、それでもユキ達4人を晴れやかに送り出した。

 この後エバァ夫人やユキの後援を得たシェルバン・カンタクジノ氏は、先のワラキア公の後を引き継ぎ、10数年に渡りワラキアを統治する。ユキは政商となりワラキアの交易を支配して、その発展に貢献する事になる。




 オランダやワラキアでの活動も一段落すると、ユキはやっとモルダビアに帰って来た。だが、館は荒れ果ていて見る影もなかった。元居た召使たちにも来てもらい、業者も呼んですぐ修復を始める。

 ところが、やっと修復が終わり、元通りの館に戻った頃、


「ここで何してる!」


 振り向くと、数人の男達がユキをにらんでいる。


「あなた方こそ、なんですかいきなり。ここは私の館ですよ」

「なんだと。ここはドラゴシュ様の館だ。知らねえのか」

「何処か他と勘違いしているのではないですか?」


 だが、男達は引き下がらなかった。ここはドラゴシュ様の館だと言い張り、


「とっとと出て行くんだな」

「怪我をしてからでは遅いぞ」


 傍に居た召使がそっとユキにささやいた。


「ドラゴシュの末裔だと自称している貴族の私兵です」


 ルーマニア人のドラゴシュ初代モルダヴィア公が在位していたのは、もう3世紀も前の事だから、怪しいものだ。ドラゴシュの家系は絶えたっていう事になっている。

 召使はさらに、


「この連中はたちが悪くて有名なんです。札付きの悪党どもですよ」

「さあ、どうすんだ。怪我したくないだろう。出て行くんなら今の内だぞ!」


 ユキは仕方ないわね、といった顔をした。


「では、後ろを御覧なさい」


 男達が振り向くと、そこにはいつの間に現れたのか、剣を携えた28人の傭兵が立っていた。






 黒海を見渡せる丘陵地に来ている。


「ユキさん」


 なだらかな丘で、傭兵のバルクがユキの後ろに立ち、横にはクイナとタリウトが控えている。


「ここがヤスベさんの墓なんですね」

「そうです」


 ユキはうなずきながら墓の前にひざまずき、そこに書かれた碑文を見つめた。


「TONO MATA UOAISIMASITANA YASUBE」


 父安兵衛により前もって書かれたその碑文の意味はユキには良く分からなかったが、長い年月を超えた意味合いの深い手紙であるらしかった。


「お父様……」

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