第8話 キャプテン・ハックとその仲間達
15世紀のヴェネツィアの人口が約10数万人とされている時、船の乗員は3万6千人という記録がある。3人にひとりは船乗りであり、この時代の航路依存度の高さが伺える。乗組員が百人を超える大型帆船から、数人規模の小型船まで数千もの大小の船が地中海を航行していたのだ。そして外洋まで航海できる大型帆船は数百隻と、陸路なら信号が居るほどの地中海は、正に世界の中心であった。
ユキは新たな帆船の建造に取り掛かっていた。スペインとポルトガル、さらにはイングランドにも建造を依頼していたのだ。コンスタンチノープルでの戦争特需で得た巨万の富を、惜しげもなくつぎ込んで次々と帆船を注文した。
「ヴェネツィアの商人の家系に連なる貴女がなぜ、西欧の造船所になど注文するのですか?」
「海運界をリードする地位は、もうヴェネツィアからオランダアやイングランドに移っています」
「…………」
「それに発見された新大陸を思えば、これからもっと沢山の船と情報が必要になるでしょう。ベネチアや地中海にこだわっていては駄目です」
船はいくら造っても造り過ぎる事は無いと言うのだ。
次にユキはオランダに海運会社を設立する為の準備を始めた。世界の海を制する都市はオランダである。ユキはそう理解していた。ヴェネツィアは地中海の奥に有り、モルダビア公国はそのさらに奥で黒海の北端に位置する。海に出て世界の国々と交易をするにはハンデが有りすぎると考えていたのだ。
だがオランダにやって来たユキは、新たな海運会社の設立よりも、既にある会社の権利を買収する方が手っ取り早いと判断する。交易に詳しい人材を確保する手間も省ける。すぐに豊富な財力に物を言わせてその権利を獲得すると、さらにイングランドの海運会社や造船所までもがユキの標的となった。
オランダの運河沿いを、ユキとバルク達3人が歩いている。
「ユキさん、オランダはさすが大国ですね」
「そうね」
17世紀はオランダの黄金時代である。貿易や科学、軍事から芸術までもが花開き、世界で最も優れた海運国、経済大国となる。広場にはオランダ・ルネサンス様式の優美な大邸宅、運河沿いには東インド会社で貿易をして成功した商人が建てたカナルハウスが並んで、北のヴェネツィアとも呼ばれている。一方アメリカ大陸はヨーロッパ人による植民地化が進んでいた時代であった。
ユキとバルクらがオランダの街を歩いていた時、広場で賑やかな光景を目にする。絞首台が何台も建てられているのだ。
「何かあるの?」
「明日大勢の悪党どもが首をくくられるのさ」
ユキから聞かれ、そこに居た得意顔の男がさらに言った。
「赤ひげのキャプテン・ハックもな」
「ハック?」
「なんだ、おめえ知らないのか。イングランドの有名な海賊だあな」
17世紀の中頃、イングランドの海賊ウィリアム・ハックと3百人の部下達は、捕獲したスペインの船を利用して他のスペイン船を次々と襲撃した。
だが彼らは意外に教養の高い海賊達だった。ハックを含む5人が、詳細な日誌を残していたりする。
大西洋から地中海の海を縦横無人に暴れまわった海賊キャプテン・ハックの名は当時ヨーロッパ中に知れ渡っていた。ジャマイカのポート・ロイアルを拠点にしていた海賊だが、フランスとイングランドは海賊を取り締まっていなかった。ライバル国スペイン領の港や船の財宝を奪い上納していたからだ。ジャマイカの総督もイングランドの後ろ盾を得ながら、大っぴらにスペインの船や港を襲撃していた。
いつの時代も海賊になる者は貧困のどん底にあって、富や冒険などを夢見る者達である。この時代の海賊は無法者ではあるが船長などは選挙で選ばれるなど守るべきルールはあった。ハックも仲間内では厳格な掟で秩序を保っていたが、得られた戦利品は皆に公平に分配している。だが船上の生活は過酷で20代で死ぬ事などはざらであり、つかまれば絞首刑が待っていた。しかしジャマイカでサトウキビの栽培が盛んになると、地域経済の安定が重要になってくる。イングランドは敵対するスペインと条約を結んだ。カリブでの港が荒らされる海賊行為を取り締まる方向で意見がまとまり、ハックは拠点を他に移さざるをえなくなった。そこで彼はインド洋に向かい、1カ月を超える航海を経て紅海にたどり着く。ここはアラブとインド人の交易ルートで、出会った交易船を襲撃して宝石や香辛料などの積み荷を奪うと想像を絶する価値の品々であった。新しい拠点はマダガスカルの東に位置する島で、大胆にも敵国オランダ領内ともいえる目と鼻の先の島である。そこからマラッカ海峡にも進出して東南アジアの海を荒らしまわった。ハック率いる海賊団は船の襲撃を続けて、スペインやオランダ領に多大な金銭的損失を与え、百隻を超える船を襲って積み荷を略奪し、多くの人を殺害した。
「悪さをしたら、キャプテン・ハックがさらいに来て、海賊にされるよ。言う事をきかなきゃ手足を縛られて海に投げまれるんだ。それでもいいのかい?」
どんな悪ガキもその脅しで静かになった。だがついに、スリランカのオランダ領コロンボ、史実では15世紀から19世紀まで続いたキャンディ王国で、極秘に上陸しているところを役人に見つかる。仲間が逮捕されたのを知ったハックが助けようと牢に潜り込んだが、待ち受けられており彼自身も捕らえられてしまったのだ。
数人の仲間と共にオランダ本国に移送されると、海賊行為で裁判にかけられて絞首刑と決まった。明日はその処刑がある日だった。
ユキはハックの話を聞き、その大西洋からインド洋、さらには東南アジアの海にまで触手を伸ばしていたという才能に興味を持った。
「タリウトさん、今すぐ裁判官を探しましょう」
この時代裁判官は刑の判決から執行まで、全ての権限を持っている。市庁舎に入り裁判官に面会を求めると、奥まった重厚な部屋に通された。
「なに、この儂を買収すると言うのか!」
古めかしい調度品があふれる執務室で、裁判官が声を荒げた。目の前のテーブルに金貨の袋を置かれたのだ。
「いえ、そうでは御座いません。裁判官様は公明正大で正義感溢れる方だとは常々受け賜わっております」
「…………」
「ただあのハックは有能な航海士で、その才能が惜しいのです」
ユキがさらに金貨の袋をふたつ上乗せすると、裁判官の目線がわずかに動いた。
「ここは裁判官様の恩情で、あの者の将来に道を開ける事が出来ればと……」
ユキはさらに袋をみっつ乗せる。
裁判官は急にユキの側に来ると、耳打ちをした。
「……実はな、儂もあの者の将来には期待しておったのだ。だが、判決は神聖なもので覆す訳にはいかん」
「…………」
「ただ、その……牢獄はこの建物の地下にあるんだが、ちょっとした問題があるんだ。牢番の奴がとんでもない酒飲みでな、今夜あたりもきっと酒を飲んでいるのではと……」
裁判官はユキの顔を見て勝手に頷いて見せ、離れて行く前に言った。
「まあ、明日は大勢やるからな、ひとりくらいならかまわんだろう」
裁判官は両手を伸ばすと、金貨の入った袋の山をずりっと自分の胸の前までずらした。
その夜、何故か鍵が掛けられていない裏のドアから侵入して、ユキ達が市庁舎の地下に降りたのだが、どこにも見張りの兵が居ない。牢番は確かに酔いつぶれている。その牢番の腰から鍵を取る。
「……ハック」
「どこだ?」
「何処にいる?」
「ここだ、なにか用か?」
この時代にヨーロッパで懲役刑というものは無かった。牢獄はあくまで判決から刑の執行までの罪人を一時的に拘束している場所に他ならなかったのだ。もちろん快適性などは二の次で環境は劣悪、逃げ出せなければそれでよかった。
いぶかしげにこちらを見る赤ひげハックは鎖で壁につながれている。
「仲間は何人いるの?」
「5人だ」
「クイナ、全員の鎖を解いて」
「分かりました」
足枷を次々と解き、ハックを仲間とも牢から救い出した。
「なぜおれ達を助ける?」
「貴方方の才能が惜しいのです」
「…………」
ユキはその気があるのなら、ワラキアの私の所に来なさいと言い、待機させてあった馬車で安全な所まで送り届け別れた。
翌年、ハックは部下3百人を引き連れ、ユキを訪ねてやって来た。
「あれを見ろ」
「海賊船だ!」
只ならぬ海賊船の入港に、オスマン帝国領のドブロジャの港、ここはワラキアの港でもあり騒動が起こる。穏やかな港に2隻の海賊船が悠々と入港してきたのだ。辺りは海賊船が襲撃してきたと大変な騒動になる。ところが冷静に見る者もいた。
「それにしても変だな。砲門が開いて無いじゃないか」
確かに船側の砲門の扉が開いていない。大砲を撃つ用意がされてないようである。この時代、港への襲撃では、まず大砲で敵を混乱させておいてから上陸するのが海賊のセオリーとなっている。
海賊船が現れて、なんと静かに接岸したとの報に接して、ユキは港に向かう。
岸壁では海賊船から下船した海賊達を、市民が遠巻きに恐る恐る眺めている。海賊達の中央に居るのはあの有名な赤ひげハックではないか。だがユキは迷わずハックの前まで歩いて行くと、
「決心してくれたの?」
「ユキさん、おれ達仲間は全員来ることに同意しました」
「分かったわ、あなた方の身分はこのユキが保証します」
明日の命の保障もない海賊稼業から足を洗い、まっとうな交易船の乗組員になれるとあって、皆が希望して来たのだった。実はユキの口添えで、全員ワラキア公の後ろ盾を得て、身分を保証される事を聞かされていたのだ。
新たに開設したアジア航路の船団は日本を目指すのだが、全てを信頼してハックに任せる事にした。大西洋からインド洋、さらには南アジアの海を知り尽くしているハックの本領発揮できる舞台である。
ユキは次々と船を造り、さらに船員も増やして17世紀の海運王と言われるようになる。但し、洋上では相手が政府の許可を得た掠奪だろうとただの海賊だろうと、奪われてしまえばそれまでだ。何の保証も無い交易船で、防衛する手段はただひとつ、武装するしかない。掠奪には反撃で応ずるのだ、ユキはそう考えた。
「ハック」
「はい」
「交易船を武装するのよ」
「…………」
しかし、大砲や砲弾、火薬などを大量に乗せてはスペースの点で交易船の意味が無くなる。万が一の時に備えるとはいえ、積み込む荷が少なくなるのは避けたい。
そこで機関銃を乗せる事にした。日本から輸入した最新の機関銃は、その凄まじい破壊力が既に分かっている。オスマン帝国で大活躍した連発出来る銃で、日本の仁吉が開発したものだ。今ではイングランドやヴェネツィアにも輸出され始めている。
その銃を甲板でも比較的高い位置、船首と船尾楼の上に2基づつ計四基備えて、カバーを掛けて隠す。交易船の側面には大砲を撃つ開口部が無いから、海賊にとっては無害な船だと思うはず。油断して近づいてきたら機関銃の出番である。海賊は無駄に大砲を撃つ必要もなく、舩ごと奪うつもりなら停船命令を出して近づいて来るだろう。船に横付けされて、掠奪だと分かった瞬間に機関銃で上から相手甲板を攻撃、後は剣を持って乗り込めばいい。その時こそキャプテン・ハックとその部下の出番だ。
さらに交易船は必ず3隻から4隻で共に行動する事とした。抑止力を考えると、1隻だけでは掠奪の餌食になりやすい。
「ハック」
「はい」
「部下に機関銃の扱い方をマスターさせておいて」
「分かりました」
赤ひげのハックは不敵に笑った。
山城に通じる道は、一面に木の葉が舞っている。日は既に落ちようとしていた。ひんやりとした山道を馬車で登った先の城が、シェルバン・カンタクジノ氏の館である。招待を受けていたユキはバルク、クイナ、タリウトの3人と共に館の中に入った。
「よくいらっしゃいました、シェルバン様がお待ちかねで御座います」
執事が慇懃な仕草で4人を出迎え、「お食事のご用意が整っております」とユキを案内する。だが、バルク達3人が後に続こうとするのを止められた。
「旦那様は、ユキ様おひとりとの食事をお望みで御座います」
「分かったわ」
ユキは3人に目で合図をすると、ひとりで部屋に入って行った。バルク達は別室で待たされる事になる。
「気分悪いぞ、なんか嫌な感じだぜ」
「たしかに前もそうだったが、シェルバンって奴は何となく気に食わねえな」
「お前もそう思うか?」
「ああ」
3人の一致した意見だった。
「エヴァさんの紹介でさえなけりゃあんな奴とは……」
やがて3人の待つ部屋にも、食事とワインが供されたが、
「おい、用心しろよ」
「酒も飲むんじゃない」
「分かった」
シェルバン氏と向かい合い食事をしているユキは、何故か違和感を感じていた。以前にエヴァ夫人と共に会ったシェルバン氏とは、どことなく違う雰囲気を感じるのだ。あの首筋に感じた冷たいものも無い。
食事も終わり、打ち解けた話をしようとしたらしいシェルバン氏が、
「ユキ殿、実は……」
「ご主人様」
現れた執事が、何やらシェルバン・カンタクジノ氏にささやいた。
「ユキ様、お仲間がお待ちで御座います」
「…………?」
執事に促されて、バルク達の待つ部屋に戻って来た。
「ユキさん何か変わった事でもありましたか?」
ユキの表情から察したのか、タリウトが聞いて来た。
「特には何も無かったわ。ただ……」
「皆様のお部屋は以前来て頂いた時と同じで御座います」
執事が再びユキ達を部屋に誘導した。
深夜になり、
「クイナ、起きてるか?」
バルクが部屋の前で軽くノックをすると、クイナがドアを開けた。
「帰って来たユキさんの表情が変だった。あの紳士野郎の正体を見届けてやる」
「…………」
「行くぞ」
「はい」
クイナも眠る事など出来なかったのだ。
「タリウトさんはどうします?」
「寝かせておこう」
「おれなら起きてるぞ」
振り向くとタリウトも剣を携えそこに居た。
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