第7話 バレアヌ家からの攻撃


 コンスタンチノープルの港では、入荷される食糧がとんでもない高値を付けていた。何しろダルダネス海峡をヴェネツィア海軍が封鎖しているから、地中海からの交易船が入って来れない。行き来出来るのは黒海と陸路の交易だけだ。地中海からの交易船が入れないだけで、コンスタンチノープルでの物流の量は激減する。特に食糧は日々必要としているから、無ければ飢えてしまう。しかも帝国内の食糧自給は戦火でままならず、陸路での補給も滞りがちで、食料や日用品の価格は何処までも高騰して行く。

 ユキの船が食糧を積んで来たとの情報は、あっという間に広まり、港は集まって来た仲買の業者達でごった返した。


「もう無いよ」

「何でもいい、金ならいくらでも出す、売ってくれ」

「だから野菜はもう無いんだって!」


 食糧だけでは無かった。運んで来た日用品は何でも、もうユキの言い値でどんどん売れて行く。すぐ全てを売り切ってしまった。特に薪や石炭はとんでもない値段になった。イギリスで石炭が家庭用、工業用の燃料として広く一般的に使用されるようになったのは16世紀中頃以降であると言われている。石炭は古代から燃える石として知られ、ギリシアやローマ、中国などで鍛冶に用いられた記録がある。

 船は水だけを積み込み、またワラキアにとんぼ返りだ。


 ワラキアはモルダビアよりも航海の日にちが数日少なく済む。早ければ2日、遅くても3日で着く。生鮮野菜を腐らせずに送り届ける事の出来るぎりぎりの距離だった。

 港に着くとそこに保管してあった残りの荷を積み込み、再びコンスタンチノープルに向かう。ピストン輸送だ。カンタクジノ家の夫人には、次の食糧や薪、石炭等物資の確保をお願いしてある。ワラキアは戦火に晒されていないので、貴族同士のいざこざがあるだけで、経済は安定している。食糧や物資の調達にはさほど問題は無い。

 ただ宿敵のバレアヌ家が妨害して来ないか、それだけが心配だった。


 再びコンスタンチノープルに来たユキの船には前回同様、仲買人が群がって来た。この日も即売り切ると、すぐワラキアに取って返す。そこには既に新たな食糧や物資が運び込まれているといった具合だ。夫人が先頭に立ってワラキア全土から全てを仕入れ、軍団が港まで護送する。そんなルートが出来上がっていたのだった。だが、やはりユキの船がそのように交易を独占している事を良しとしない者が現れる。


「おかしいじゃないか」

「何であの船だけなんだ」


 交易の商売敵だ。モルダビアが政情不安の為、業者は必然的にワラキアに集まって来る。当然ワラキアの物価は高くなる。次々と仲買人がワラキアの市場に入り、食糧でも何でも買い始めたのだ。

 さらにユキの船が交易を独占していると、帝国に告げ口をする者まで現れた。

 港の行政官は不満を受け混乱を回避しようと、交易船の出航を届け出制から平等な許可制に変えると発表した。ところがその許可が問題で逆効果、更なる厄介な事態を引き起こす。すぐには許可が下りないのだ。何日も待たされる。書類の不備だのなんだのと。


「いい加減にしてくれ」

「一体いつまで待たせるつもりだ!」

「どうなってるんだ。食い物が腐っちまうじゃないか」


 港の仲買業者や船主からは、不満の声が噴出した。特に生鮮野菜は鮮度が命だ。船積したまま何日も置いておいたら売り物にならなくなってしまう。強引に出航しようとした船は役人によって抑留された。ところが、ここですんなり港を出て行く船があるではないか。それがユキの船だと皆が気づいた。マストには日本刀の上にブーゲンビリアをあしらった旗が風になびいている。そんなユキの船だけに許可が早く出るのか。もちろんどこが平等なんだ、何故だといぶかる者も居たのだが。


「あの船が早く出る」

「あれに乗せようぜ」


 こうなるともう事情を詮索する事よりも、ユキの船に載せればとりあえず出荷出来ると、ここでも依頼が殺到して来た。港に居た軍団に「うちの荷物を運んでくれないか」と。だがユキは運ぶのではなく、買い取る事にした。運賃よりも向こうで高く売った方が同然利益が出る。売るのが嫌ならそれまでだ。仲買業者も鮮度が落ちてしまえば価値が無くなるのが分かっている、


「そんな只みたいな値で売れるかよ!」

「そう、嫌なら――」

「待て、分かった。売ろう」


 仕方なく売って来る業者が続出した。

 それでも中にはやっと許可が出て、コンスタンチノープルに着いた他の交易船もあった。だが、野菜などは腐ってしまい、ユキの船だけに注文が殺到、値段はさらに上がった。

 ワラキアでユキ達の所には、仕入する必要もなくなるほど食糧が集まって来る。さすがの巨大な交易船パルパテチオ号も甲板まで満載で、ユキの居室にまで置かせてくれと言って来た。



 1656年のダルダネスの戦いではヴェネツィア艦隊による海上封鎖を受け、物流が滞り物価が高騰し、首都のコンスタンティノープルは暴動と反乱の危険にさらされることになった。これは、オスマン帝国がレパントの海戦以来受けた最も重い海軍の敗北である。ヴェネツィア人が海峡を封鎖した結果、オスマンの補給路は効果的に遮断され、コンスタンティノープルは冬の間食糧不足に見舞われたのだ。

 ヴェネツィアとオスマン帝国は長くクレタ島の所有をめぐって戦争を続けていた経緯がある。ヴェネツィアはオスマン帝国軍への補給と援軍を遮断しようとし、オスマン帝国艦隊がコンスタンティノープル周辺の基地からエーゲ海に到達するために航海しなければならなかったダルダネレス海峡を封鎖したのだ。ダルダネス海峡を争奪する戦いでは、ヴェネツィア艦隊による海上封鎖で物価が高騰し、暴動と反乱の危機を収拾するのに、オスマン帝国は数年を要したのだった。

 そして戦争が終わり海上封鎖が解かれるまで、ワラキアとコンスタンチノープル間を限りなく往復した結果、パルパテチオ号でユキの船室は金貨銀貨を満載した箱が山積みとなってしまった。



 朝鮮戦争特需では、3年間に3千6百億円を上回る注文が日本企業に来たという。当時のGDP4兆円の3パーセントで、今に当てはめると年間16兆円というとてつもない金額となる試算もある。もちろん利益率次第だが、戦争特需というものは途方もない利益をもたらす。ロスチャイルドもそれで財を成した。





 だがある日、ワラキアの港で荷の積み込み作業を指示していたユキの所に、緊急の報告があった。


「ユキさん、夫人の館が襲われてます!」


 夫人の館がバレアヌ家から攻撃を受けているという。敵の攻撃は早朝から突然始まったと、放っていた偵察の者が馬を走らせ知らせて来たのだった。


「バルク、行くわよ!」


 船に積み掛けていた荷を放り出して、軍団は夫人の館に急行するべく馬に乗り鞭を入れた――

 今から急行して着くのは夕方になる。間に合ってくれればいいのだが……

 ユキの脳裏には、あのラウラ邸が暴徒に荒らされラウラ夫人が殺害された記憶がよみがえる。


 軍団は日が落ちる前に館に着いたが、敵はまだ銃撃中だった。館は石と漆喰造りで、頑丈なドアを備えている。窓も鉄の格子がはまっているから、立て籠っていれば、簡単には堕ちない。敵は鉄のドアを前に攻めあぐんでいた。


「行け!」


 もう作戦も何も無い。軍団全員が突撃して行く。ユキも刀を抜いて、何人か夢中で切る。刃が敵の身体にずるっと食い込む。返り血を浴び、なおも切り進んで行く。剣は片手で握るのに対して、刀は両手で持つ。ユキのようにひ弱な者でも両手なら扱えた。

 館の外から攻めあぐんでいたのか、気が緩んでいたのか、突然後方から抜刀して来た軍団に、敵は銃を持ったままうろたえた。弾込めに時間を要するこの時代の銃だ。いきなり切りつけて来る刃を受け止めるのが精一杯で、何の役にも立たない。次々と刀の餌食になって行く。


「ユキさん、ユキさん」

「――――!」


 ユキの振り上げた刀に、相手が手を振って再び「ユキさん!」と叫んだ。目の前に居たのはクイナ。ユキはやっと我に返った。周囲に敵の死体が散乱していた。


「エヴァさんは?」


 そう言ったユキが見ると、館の門が開き、夫人が出て来た。


「ユキさん」

「エヴァさん、御無事でしたか」


 たまたま外に居た使用人が何人か被害を受けたが、他は館に立て籠って無事だった。数えてみると館の周囲には40人以上の斬死体が有った。死体は全てバレアヌ家まで軍団が送り届けた。ほとんどは私兵のようだが、何人かはバレアヌ家の者も混じっていると夫人が言っていた。

 軍団がバレアヌ家の前に着くと、館から出て来た若者が剣を抜こうとして、長老らしい者がそれを押し止めた。運ばれて来た死体の山を前にしたその者は、バルクを見て悲しげな表情を浮かべ「感謝する」と一言だけ言った。





 コンスタンティノープルでの交易で莫大な富を得たユキは、モルだビア公国にとどまらず、周辺国にもその名声は轟き、政商の地位を確立し始めていた。

 ユキはエヴァ夫人から、ぜひ合わせたい方が居ると言われ、カンタクジノ家と同族であるシェルバン・カンタクジノ氏の館に行く事になった。ユキとエヴァ夫人は馬車に乗り、バルク達傭兵軍団は護衛をして早朝に出立。その日の夕刻には着いたのだが、跳ね橋が降りている。ユキ達は荘厳な館に案内された。ただ、その館を見たユキは何か分からない違和感を感じた。何なのか……

 その館は深い森に囲まれた山の頂に有る城だった。


 西洋では古代から中世まで、人々は森を「異界」ととらえていた。安心して暮らせるのは切り開かれた町や村のみで、森は恐ろしい原始の世界だった。だから人々は森を非常に畏れていた。そこは人が暮らす世界ではない。どんな危険が起きるか分からず、一度足を踏み入れれば、生きて帰れる保証はない。鬱蒼たる森は死者の国への入口であるとも考えられていた。異界としての森、危険に満ちた森、そして異教の神々が住む森は人々にとっての敵であったのだ。

 こんな辺鄙な山城に……


 シェルバン・カンタクジノは、夕食の宴でユキを見た。隣に座るエヴァ夫人がユキに話し掛ける。


「私はシェルバン・カンタクジノ様を後援したいのです」

「…………」

「この方は将来のワラキア公にふさわしい方だと思っています」

「エヴァさんがそう仰るのでしたら……」


 現在のワラキア公はジョージ・デュカスで、王位を取り戻すために多額の負債を抱えていたのを既にユキが援助している。ユキは自身の吹っ切れない気持ちを抑えて、エヴァ夫人に同意した。

 シェルバン・カンタクジノはユキの優雅で品の有る仕草に魅了されたようだ。さらにエヴァ夫人と同様、自分を後援したいと言われ静かな笑顔で答えた。だが、そのシェルバン・カンタクジノと目を合わせた時、ほんの一瞬、ユキは首筋を冷気のようなものが流れるのを感じた。


 翌朝はバルク達と共に城から帰る支度を始める。静かな山城の森に朝日が当り、小鳥が鳴いている。


「エヴァさん、帰る前にシェルバン様にご挨拶をしたいのですが」

「シェルバン様は、用が有り今朝はお会い出来ず失礼しますとの事でした」

「…………」


 昨夜の内に城を発たれたとの事だった。

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