第4話 「私がそのユキです」


 ここは古都ベンダーの郊外である。


「クイナ、タリウト、出陣だぞ」


 ラウラ家の商隊を何度か護衛した翌年の初夏だった。モルダビア公から突然の出陣命令がきたのだ。


「ロシア軍が侵攻して来たらしい」


 ロシアの目的はオスマン帝国を黒海から駆逐して、南の不凍港を掌握する事である。バルク達とモルダビア軍はオスマン軍と共にロシアに立ち向かわなくてはならない。モルダビア公国はロシア軍の進行経路上に位置しているのだ。


「タリウト、すぐ兵を集めろ。全軍だ」

「はっ」


 モルダビア公の出陣命令はアルチ、チャガン、ドタウト、アルクイと全てのタタール氏族に出された。

 バルクはアルクイの全兵力4百騎を召集して出陣する。召集されたタタール騎馬兵の総数は1千5百騎前後となる。そして当面の敵はロシアのコサック兵だと分かった。


 有名なコサックも初期の頃は周辺国家に依存しない独立した遊牧民族の盗賊であった。ウクライナ人、南ロシア人やタタール人などの様々な部族からはみ出した者が、集団を組織して半遊牧生活を送り、狩猟や時に略奪行為を行って生計を立てていたのである。16世紀後半にはポーランド・リトアニア共和国に属するようになるが、やがてロシア帝国のコサック軍となる。現在の南東部ウクライナと南西部ロシアに当たるドン川の流域を中心に勢力圏を持った。

 一方この頃のオスマン帝国は既に衰退期にあり、モルダビアを支援する兵力もあまり多くは無い。それでもモルダビアとオスマン、さらに小国ではあるがクリミア・ハン国など周辺諸国の連合軍戦力は5万から7万前後である。ロシア軍の兵力はまだ良く分かっていない。

 クリミア・ハン国は現在のクリミア半島にあった国である。15世紀中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国された。ハージー・ギレイの先祖は、チンギス・ハーンの長男ジョチの13男であるトカ・テムルに遡る。そのジョチの末裔が支配した広大な草原、ジョチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の集団が、後にタタールと呼ばれる人々となる。


 バルクの騎馬軍団がコサックの騎馬兵と激突したのは、モルダビア公国領内のプルート川河岸においてである。ロシア軍は初夏にもかかわらず猛暑となった戦地の行軍で、ぬかるんでしまった大地がロシア軍を苦しめ、兵士の士気は低いとの情報が入っている。しかしそれでもコサックの戦意は侮れない。

 現在の港湾都市オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイという集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってその跡地に要塞が建設された。

 ロシア軍は当初その要塞に侵攻しようとしたが、オスマン軍に包囲されてしまい、大宰相バルタジ・メフメトによって先遣隊が破られた。

 しかし、この方面軍のコサック騎兵連隊は本隊と分かれて迂回、ロシア全軍の右翼に布陣していた。そしてプルート川近郊に置かれていたオスマン軍の食糧貯蔵庫を急襲占拠した。さらにロシア軍本隊はオスマン帝国軍に集中砲火を浴びせて多大な損害を与えつつある。


「タリウト、敵の右翼にコサックだ」

「奴らまだ気づいてないでしょう」


 そう言ったタリウトの横でクイナは早くも剣を抜く。

 寡兵で有力な敵を討つには奇襲しかない。こちらは4百騎で木立の先に見えるかぎり、ほぼ倍のコサック騎兵だ。ここは大半の敵兵が馬を降りている瞬間を狙う。食糧貯蔵庫を奪取して気が緩んでいるのだろう。中には早くも盗み出した酒を飲んでいる奴らもいる。


「何をしている。昼間から酒を飲むやつがあるか!」


 前線にやって来たコサックの司令官ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイの第一声である。クリミア・ハン国、オスマン帝国の軍勢と度々戦った英雄であり、史実でも多数のウクライナ民謡・物語に登場している。

 ペトローは酒瓶を取り上げると投げ捨て、


「剣をとれ。馬に乗るんだ!」


 だがそれは一足遅かった。

 バルクの号令が響いたのだ。



「掛かれ、皆殺しだ!」


 後はバルクの口癖、「戦場でやる事はただ一つ。殺せ、殺せ、殺せだ」

 4百騎のタタール騎馬軍団が剣を抜き、地鳴りをさせて駆け出す。

 殺戮は半刻ほど続いて終わると、コサックの半数が切り倒されていた。





「撤退だと!」


 バルクの元にオスマン軍撤退の知らせが届いた。


 ロシア軍別働隊に補給路を抑えられた為、要塞奪回の積極的な意志もないオスマン軍は早くも撤退を決意したという。さらに戦争準備が必ずしも充分ではなかったオスマン帝国の将軍たちは、士気も統制もとれていなかった。ロシア軍本隊はオスマン軍を易々と撃破したのだった。

 当初ロシア軍に連勝して華々しい戦果を期待したオスマン軍だが、それはかなわなかった。プルート川を越えて撤退し、ロシア軍はこれを追撃して撃破した。オスマン帝国にとって決定的な打撃となった。

 そしてバルクの元に更なる情報がもたらされた。共闘していたオスマン軍に去られて孤立したモルダビア軍が、クリミアでロシア軍に包囲され全滅の危機に瀕しているという。モルダビア軍はこの頃友好な関係だったクリミア・ハン国の要塞に逃げ込んで、同国の軍と共にロシア軍に対して抵抗を続いていたのである。


「クイナ、タリウト、行くぞ」


 4百騎だったバルクの軍団も3百騎程に減っている。だがバルクとその部下たちの戦意は高かった。これは郷土を守る闘いだ。最後の一兵まで闘い抜く決意であると。


「隊長」


 そう声を掛けてきたのはタリウトだ。


「後を……」


 そこに現れた男はチャガンで、ブコビィの後リーダーとなっている者だった。あの決闘の直後、後ろからクイナを襲おうとしたブコビィの喉元に剣を突きつけた副官だ。


「バルク隊長、おれ達を指揮してくれ。あんた達と共に闘う」


 タタールの一氏族チャガンはこれまでの戦闘で手痛い打撃を被って兵が著しく減少しており、氏族間ではバルクの軍団が現在最大勢力となっている。さらにアルチとドタウトも共闘したいと申し出て来た。いずれも普段は商売敵の面々であるが、全ての氏族を合わせると千騎程になった。

 もちろん頼まれたからと言って「行くぞ」の一声で全軍団を動かす事は出来ない。族長達の顔を立てる必要がある。バルクは族長会議を開いたが、数万の敵にたった1千の騎馬では奇襲するしかないと当然の結論に至った。


「うちだけでやった方が遥かにいいんじゃないか」


 行軍中である。後ろをチラッと見たクイナはそういい、浮かぬ顔をしている。3百から一気に1千騎の軍団になって戸惑っているのか、いつもの調子では無い。

 たしかに身内だけの軍団から突然他の氏族と一緒になったのだ。やりにくく感じているのはバルクもクイナと同じであった。


「だがな、これは俺たちの事情だ。そんな事よりモルダビアの軍が窮地に追い込まれているんだ。何とかしないとな」


 そう言うバルク隊長の顔が曇ったその時、


「隊長、何を迷っているんですか。戦場でやる事はただ一つでしょう」


 そう強く言ったのはタリウトである。聞いたバルク隊長は豪快に笑いだした。


「ワッハッハッハツ、そうだ、殺せ、殺せ、殺せだ!」


 バルクは直ぐ馬を返すと、1千騎の軍団に向かい叫び始めた。


「野郎ども、敵はコサックだ。タタールの底力を見せてやれ。怖気付くんじゃないぞ!」


 聞いた軍団員が全員剣を抜くと、歓声を上げた。

 さらにバルク隊長の檄が飛ぶ。


「戦場でやる事はただ一つ。殺せ、殺せ、殺せだ!」


 そして1千騎のタタール騎馬軍団は一塊の稲妻となり丘を駆け下りて行った。




 小川に入って馬を休ませ、バルク達が剣の血糊を洗っていた時だ。戦況は予断を許さない状態が続いている。タタールの騎馬軍団による後方からの数度にわたる攻撃で、数に勝るロシア軍も防戦一方となるが、タタール側もかなりの被害を受ける。だがやがてロシア軍が向きを変えて攻勢に出てくると、バルクは一時撤退を決めて更なる奇襲攻勢のチャンスを窺っていた。


「なに、ロシア軍が撤退し始めただと、勝っている筈のロシア軍が何故撤退するのだ」


 新たに入った報告では、ロシア帝国で起こった内乱が広がっているようだと言う。それに対処するため軍が引き返さざるを得なくなったと言うのである。やがてバルクの軍団も解任され、ベンダーに戻った。






 草原を吹いてくる風が、季節の変わる事を知らせる頃である。酒場に入って来たバルク達を見ると、店の男が奥のテーブルを指さした。


「あの変な服を着た青白い顔の優男が、あんたを探してるって奴だ」


 ユキはやって来たベンダーという街で何人かに聞いたのだが、酒場に行ってみたらどうだと言われ、ここに入り、カウンターで「バルクという名の男は知らないか?」と聞いたのだった。


「その辺で暫く待ちな」


 店の者がそう言い顎をしゃくった。

 随分時間が経って、もう一度聞こうとした時、数人の男達がまっすぐユキの方に歩いて来る。


「バルクを探してるってのはお前か?」

「そうです」

「こいつ女みてえな野郎だな」


 そう言って、いかつい男が腰にこぶしを当て、羽織袴姿のユキをジロジロと見下ろしている。


「バルクに何の用があるんだ?」

「それは会って直接話します」


 するとひとりの男が前に出て来る、


「おれがバルクだ」

「貴方が」

「ああ、何の用だ?」


 そう言いながら椅子を引こうとした。


「椅子に座るが?」


 椅子の背に手を掛けた男がユキを見る。


「どうぞお座り下さい」


 それを聞き、すぐ男達がどよめいた。


「ははっ、聞いたか、どうぞお座り下さいだとよ!」

「よっ色男、貴族の生まれか?」


 3歳の子供でさえ気を使って言葉を選ぶ事もあるのに、この男にそんな配慮は無いようである。ユキはそんな男達の嬌声にも耳を貸さず、椅子を引いて腰掛けるバルクという男を見つめる。


「で、おれにどんな用があるんだ?」

「ラウラ・アレクシアという名をご存じですか?」

「ラウラ」

「はい」


 ユキの口からラウラという言葉が出ると、周囲の男達が笑うのを止めた。

 バルクだと名乗った男もユキを見つめる。


「あんたは一体誰なんだ?」

「ラウラさんと一緒に居た、ユキという者を知っていますか?」

「会った事は無いが、ヤスべとかいう日本人の子供だと聞いている」


 安兵衛は示現流剣道の達人であった。その安兵衛の所持していた日本刀をユキは腰から抜くとテーブルに置いた。


「私がそのユキです」

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