第3話 ブコビィの企み


 ラウラ・アレクシアが住まう館はモルダビアの港を見下ろす小高い丘の中腹に建てられており、明らかに裕福そうな貴族の館である。漆喰の白い壁は蔦が彩りを添えている。

 20人もの軍団は全員が一度に座れるほどの広いテーブルで、優雅なディナーとワインで歓待される。食卓には貴族など一部の人しか手に入れることが出来ないイチジクやデーツ、ナツメ、ビターオレンジ、ライムなどの輸入品が並んでいる。これらのフルーツをアーモンドミルクと一緒に食べる。上質な小麦粉を使ったパンも添えられ、もちろん牛肉から鶏肉、ヤギの肉まで大皿に山となって、背後には給仕の者たちが大勢控えている。だが食卓にはこの時代には珍しいフォークが提供されており、団員の皆が戸惑っている。


「これはなんだ?」

「ひょっとして肉を突き刺すものではないか」


 西ヨーロッパでフォークが導入されるまでは、ナイフで肉を切った後は手づかみで食べていた。16世紀当時、日本人が箸で食事していた一方で、ヨーロッパ人は手づかみで食事していたのである。

 イタリアでは14世紀にフォークが使われるようになった。その後は礼儀作法の一部に取り入れられると、商人や上流階級の間で一般的に使用されるようになった。一方、南欧以外のヨーロッパでは、なぜかフォークはなかなか浸透しなかった。イギリスで一般人がフォークを使うようになるのは、18世紀に入ってからである。


「バルクさん、今日は危ないところを助けて頂き、本当に有り難うございました」


 とラウラはワインのグラスを優雅に持ち上げた。





 ラウラ邸での接待を受けベンダーに戻っていたバルクの元に、程なくしてそのラウラから仕事の話が舞い込んできた。陸路で荷を運ぶからルーマニアまでの護衛を頼むという内容である。


 モルダビアの港には東の諸国から黒海を渡って様々な産物が入っている。そしてモルダビア公国は周辺国の中では一番物価が安い。だから合わせてルーマニアに物資を運べば相当な利益になる。もちろん無事に届けばの話である。これまで多くの商隊が盗賊の犠牲になっているのだ。

 オスマン帝国はアジアとヨーロッパの交易路を押さえている。だが黒海を自由に行き来出来るラウラの貿易船は、ヨーロッパ人の生活必需品であったアジアの胡椒など香料をオスマンと対等な立場で交易をしていた。

 ただしラウラにも悩みがあった。安全に陸路をルーマニアまで運ぶ事が出来ないでいるのだ。これまで何度も強奪されている。もちろん私兵を配備して送り出すのだが、計画はいつもそこで頓挫してしまう。

 盗賊の被害、それだけが悩みの種だった。



 荷馬車の長さは3メートルほどで、幅は約1メートル強。商隊の行く先は必ずしもいい道だけではない。時にはぬかるんだ道を避けて脇の森に入る事もある。この時代は道が狭いから、これ以上の幅では困難が予想される。荷を満載した2頭立ての馬車は全部で5台、それぞれに御者が2人ずつ乗り組んでいる。護衛するバルクの騎馬兵は前回と同じ20騎である。私兵を雇う代わりに頼まれたのだ。

 モルダビア公国の港からルーマニアまで、荷馬車は脇道に入る事態を考慮すると2百キロ前後を走破しなくてはならない。途中盗賊に襲われるなど、どんな困難が待ち構えているか分からない。状況次第では2百キロが3百キロにもなり得る。この時代乗合馬車のスピードは時速5から8キロ位だというが、重い荷を満載した馬車ではその半分も出ないだろう。すると一日中進めても20から30キロか。目的地までは10日以上も掛かる勘定である。


「行くぞ」


 隊長バルクの声で商隊が動き出す。先頭がバルクで中間がクイナ、しんがりの指揮を受け持つのがタリウトである。商隊の全長は百メートルにもなる。

 やがて雨が降りだし、道がぬかるんで思うように進めなくなってくる。


「皆んな馬を降りろ」


 隊長の命令で軍団は全員馬を降り、荷馬車を手で押しだす。だが雨は本降りとなって止む気配が無い。


「仕方がない、一旦休憩だ」


 馬車から馬を離して脇道の草をはませながら、人は林に避難する。それでも雨には濡れるから気休め程度にしかならない。


「ついでに何か腹に入れておけ」


 全員が携帯食を口にするが、軍団員は皆水と酒を革袋2つに入れ身につけている。そして雨除けの小天幕1つを携行し、あとは長い外套で夜に毛布代わりとなるものを持っている。つば広の帽子も必需品で、雨が首筋に入らないようにする。

 雨でなければ焚き火は火打ち石を使い起こす。携帯食は乾パンとチーズで、あとは木の実が重要だった。もちろん干し肉もだ。モンゴル騎馬民族の主食は干し肉と馬乳酒だったが、東ヨーロッパに住み着いた今ではワインも飲む。

 この時代に長い旅では良い道の有無は論外で、とにかく行けるのならばそれで充分だった。夜は毎晩木を切り倒し、馬を野獣や盗賊から守る垣根を作らねばならない。


「くそ、初っ端からこれかよ、ついてねえや」


 そう言ったのはクイナで、豪雨も夜半迄には上がったが、火を起こせず冷えた身体を温める事が出来ないからだ。




 ところがその夜、


「隊長」


 クイナに起こされた。


「早くも盗人どもです」


 怪しい者らが近づいて来ていると言うのだ。


「タリウトが皆を起こしてます」

「よし、10人は馬を押さえていろよ」残りはついて来い。クイナ、案内しろ」

「はい」


 バルク達は近づいて来る盗賊と商隊が休んでいる場所を横から傍観する位置にそっと移動した。

 たしかに物音を立てず次々と忍び寄って来る何者かが居る。これは見つけたクイナの手柄だ。

 ひとり、ふたり、……どうやら賊は9人のようだ。


「合図を待て、まだだぞ」


 そして賊が剣を抜こうとしたその時、


「今だ、掛かれ!」


 不意を突かれたのは賊の方だった。寝ているはずの兵士も剣を抜いて掛かって来るではないか。左右から迫られ、逃げる間もなくふたりが切り倒され、残りは闇に消えて行った。


 だが倒れている賊を見ていたタリウトが、


「隊長、こいつの顔は……」


 タリウトがバルクを見上げる。


「なに、ブコビィの手下だと!」


 見覚えのある顔だと言う。


「タリウト、皆を集めろ」


 御者も集まると、


「計画変更だ」


 商隊は今から直ぐに引き返すと告げた。盗賊がブコビィだとなると話は違ってくる。こちらの人数が分かってしまった以上、このまま進めば奴は必ず大規模な攻撃を仕掛けて来るだろう。そうなれば積み荷を略奪されるだけどころか、商隊の全滅もあり得る。


「タリウト、部下を5人連れてベンダーに至急戻れ。援軍を手配するんだ。20、いやあと30騎程度なら直ぐに来れるだろう」

「分かりました」

「幸い未だ出発して1日しか経っていない。商隊が直ぐに戻れば明日中には合流出来るはずだ。積み荷はなんとしても守る」


 翌日の夕刻タリウトの引き連れて来た援軍とは無事に合流出来た。

 商隊は一旦ラウラの元に戻り、事情を説明して暫く出発を遅らせてもらう事にした。




「行くぞ」


 バルクは50騎ほどに増えた軍団を従えてブコビィの本拠地に向かう。


「やるんですか」


 クイナがいい、バルクを見つめた。


「そうだ、ブコビィの奴を吊るしてやる」


 バルクは馬に鞭を入れた。

 それはまさに奇襲だった。敵が集合する前に個別撃破するのは、戦術の基本である。


「ブコビィは何処だ」


 突然の軍団来襲に、対抗出来ないブコビィの手下達が逃げ惑っている。剣を突きつけられて聞かれた男はブコビィの居場所を知らないようだ。


「止めろ、雑魚は放っておけ」


 そういい、男を切ろうとする部下をバルクは止めた。なるべくタタールの仲間を手に掛けたくはない。

 姿の見えないブコビィを追って軍団はさらに他の場所を探す。しかし周囲の居住地を片っ端から回ったがブコビィの行方が分からない。

 その時、


「ブコビィだ」


 二手に分かれて捜索していたタリウトがやって来て声を上げる。ブコビィは数人の部下を連れて家屋から出て来るところであった。

 バルクの声が響く。


「ブコビィ!」


 ブコビィは「フン」と小さくつぶやくと、抜いた剣をダラリと下ろして歩いて来る。

 バルクが話しを続ける。


「タタールがいつの間に盗人になった」

「なに、盗人だと。何の事か分からんな」

「とぼけるな。おまえの手下が商隊を襲ったんだ」

「おい、誰か商隊を襲った者は居るか?」


 ブコビィに聞かれた周囲の者は皆沈黙している。


「誰も知らないとよ」


 ブコビィはうそぶき、ニヤリと笑った。


「やってないなのなら何故剣を抜く」

「そっちが先に抜いてきただろうが!」


 ブコビィは罵声と共に周囲の軍団を舐め回す。バルクが馬を降りると、クイナもすぐ降り側にやって来た。


「隊長、こいつは俺にやらせてくれ」


 クイナはそういい剣を抜いた。それを見たブコビィは鼻で笑う。


「ほう、若造、勇気があるじゃないか。俺とやり合う気か?」


 タタールの男達は決闘を盾無しで戦う。ただし目的は相手を殺す事ではない。片方が負けを認めればそれで終わりとなる。タタール同士で無駄な殺し合いはしない。時には相手の剣技を讃え、負けた者が握手を求めて来る事もある。


 軍団が周囲を取り囲む中、ふたりは対峙する。クイナが無言で間合いを詰め始めると、ブコビィはゆっくり横に移動を始めた。余裕がそうさせるのか剣はまだダラリと横に下げたままである。

 だが2度3度と互いの剣が振られて激しい火花が散ると、ブコビィのにやついていた表情が変わった。その顔に浮かぶのは明らかな殺意。一旦離れた両者は睨み合ったままジリジリとまた横に移動しだす。そして再び火花が散った直後だった。体をひるがえしてブコビィの脇をすり抜け回転したクイナ、拳が返され剣が振り向きざま肉を切った。


「ウッ!」


 ブコビィは肩を深く切られてよろめいている。その既に戦意を喪失したように見えるブコビィを背に、クイナが剣を下ろして離れて行こうとした時だった、


「クイナ!」


 バルクの声で振り向くクイナの目に映ったのは、のど元に剣を突き付けた側近から声を掛けられるブコビィであった。


「このような勇者を後ろから襲う卑怯者など、タタールには居ないはず」


 重症を負ったブコビィであったが、離れて行こうとするクイナを後ろから襲おうとしていたのだった。


「…………!」


 肩を押さえるブコビィは無言で離れて行った。





「出発だ」


 バルクの声で再び商隊が動き出す。30騎の援軍は帰り、元通りの20騎で商隊を護送する事になった。大雨の影響で水かさの増した川を渡る事が出来ないと言う情報があり、伸び伸びになっていたものである。

 荷馬車に乗り組んでいた御者の半数はラウラの指示を受けた商人で、ルーマニアの卸売り市場に着くと持ち込んだ東方の香辛料などを売り捌く。帰りは西側諸国の物産を買ってアジアに流すのだった。

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