第2話 タタールの傭兵軍団
ラウラが犠牲になった暴徒の襲撃から、時は少し遡る。
モルダビア公国の北方にベンダーという街があり、そこからはどこまでも限りない草原が見渡せる。
遠くで馬のいななきが聞こえた。続いて地鳴りがすると、やがて大海原のような平原を騎乗した男達が駆けて来る。馬上の戦士は皆皮の甲冑を身にまとい、小さな円形盾と共に手綱を持ち、剣を腰に着け弓を背にしている者も居る。その数は約4百騎ほど。全員黒々とした髭と髪を風になびかせて、馬を己の手足のごとく操り疾走して来る。
ユーラシア大陸の内陸部には広大なモンゴル高原が横たわっている。ここでの遊牧生活では、馬に乗れないと生活していく事が出来ない。幼くして馬に乗り、矢を放って獲物を獲る。騎馬兵はこの地で生まれべくして生まれた兵士達だ。
モルダビアを支配していたこともあるタタール人は、シベリアから東ヨーロッパにかけて居住していたテュルク系諸民族だという。タタルという語源は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)が、モンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称してそう呼んだところからきている。
史実では13世紀から17世紀において、多様なタタール族がポーランド・リトアニア共和国に移住や難民となって居住した。ポーランド王は、勇猛果敢な戦士として知られていたタタール人を好んだからである。
北アジアのモンゴル高原と東ヨーロッパにかけて活動したタタルと自称する者達は、モンゴル部族に従いヨーロッパ遠征に従軍して、彼の地の人々にその勇猛ぶりを恐れられた。しかしそのモンゴル帝国が滅亡すると、侵略の遠征地でもあったモルダビア公国付近に残り住み着いたタタール部族がいる。アルチ、チャガン、ドタウト、アルクイの4氏族で、そのアルクイの末裔で今は自ら騎馬軍団を組織して傭兵となり、各地で荒稼ぎしている者が隊長バルクであった。
副将として側に従っている若い男は、日に焼けた肌を惜しげもなく晒す剣の達人クイナ、もうひとりは古参らしい渋い顔つきの賢人タリウトである。付き従う軍団の皆はぜい肉のかけらも無い身体をしている。
早朝だ、焚き火で炙った肉をナイフで削ぐ。朝はそれだけを腹に入れて皆馬に乗る。騎乗して見える景色は、地上を歩いていては分からない別世界である。歩くよりも馬上の方が居心地の良い男達であった。
「タリウト!」
そう叫びながらいきなり馬を走らせたのはクイナだ。剣を抜き、身体を大きく馬上からずらすと、タリウトの側を駆け抜けながら大地の草を鮮やかに払ってみせた。手綱を引き戻って来るクイナに、タリウトは突然の出来事に興奮する自分の馬を抑えると、首を振りながら笑い言った。
「クイナ、お前も副将ではないか。もう少し大人になったらどうだ」
クイナは白い歯を見せ笑った。この男が剣を抜けば軍団で敵う者は誰一人居ない、天才的なシャムシール(中近東によく見られる、わずかに曲がった片刃の半月刀)の使い手であった。同じ副将のタリウトは歴戦の勇者ではあるが、既に初老だ。若さをもて遊ぶ若者には、やれやれといった顔を見せ苦笑してつぶやくしかない。
「まったく」
バルク達傭兵はモルダビア郊外の街ベンダーの周囲にそれぞれ居を構えて、普段は狩猟などをして日々の糧を得ている。中には酒場の用心棒をしている者もいる。だが一たび傭兵の声が掛かれば、皆剣を携えて隊長バルクの元に駆けつける仲間達なのだ。
枯葉が落ち始め、毛皮をまといたくなる殊の外寒い日に、時のモルダヴィア公ディミエル・ファナリオカンテールは、プルート川沿いの領有権を巡る争いに決着を付けるべく出陣していた。歴代のモルダヴィア公は有力な貴族間の抗争に悩まされながらオスマン帝国と戦ってきたが、今ではその従属国になっている。火種となるルーマニア人貴族の勢力は残されていたのだ。もちろんこのもめ事もルーマニアの貴族達が絡んでいる。出陣要請はバルクにも来ているのだが、その知らせは同じタタールの氏族チャガンを通してだった。
「気に入らねえな。どういう事なんだ。なんでチャガンからなんだよ」
そういい、クイナはバルクの方を見た。出陣の要請が商売敵のチャガンを通して来たのが気に入らないのだ。
「まあそう言うな。戦さで手柄を立てればそれでいいではないか」
バルクはそう言いながら、今度はタリウトに、
「今回は大した戦闘ではないようだ。少人数でいいらしい」
「……では20騎程を集めて準備を」
「そうしてくれ」
大した戦闘ではないらしいと言うバルクの話しに、タリウトは何か言いたそうな顔をしたが、そのまま口をつぐんだ。しかし実はバルクも今回の要請には内心スッキリしないものを感じていた。タリウトも気がついているようだが、たしかにおかしい。大した戦闘ではないと言いながら、何故チャガンは俺たちに声を掛けて来たのか。チャガンの兵だけで足りるだろうに。わざわざ商売敵にも声を掛けて来たのは何故なのか。しかも少人数でいいとまで言っている。話しがチグハグだ。
「あんた達はここで待ち伏せしてくれ。この街道を敵が逃げて来るからな」
「…………」
チャガンの族長ブコビィはそれだけいい、さっさと馬を走らせて行ってしまう。
「あの野郎、いつからおれ達に命令するようなったんだ」
そう言ったのはクイナである。だが話を持って来たのは確かにチャガンだ。ここでウダウダ言っても始まらない。とにかく目立たないようにして待ち伏せするしかない。狩猟でもそうだが、獲物を待ち伏せしている間は火を炊く訳にはいかない。どんなに寒くともじっと我慢しているしかないのだ。
しかしいくら待っても敵は一向に逃げて来る気配が無い。
「タリウト、斥候を出せ」
「はっ」
直ぐに数人の者が馬に鞭を当てた。
斥候が行ってしまうと、また街道沿いの森に静寂が戻ってくる。鳥の鳴き声がたまにするだけの空間に、剣を携えた者達が息を潜め辺りを窺っている。
そのまま半刻ほど過ぎた、
「隊長、おかしな事になってます」
馬を飛ばして斥候が戻って来たのだが、
「戦闘はこの街道沿いとはかけ離れた場所で起こってます」
「何!」
いつまで待っても敵が現れない訳だ。
「くそ、行くぞ」
だがバルク達が駆けつけると、既に戦闘は終わっていた。その戦場跡は凄惨な状況でとても小規模な戦闘だったとは思えない。モルダビア公の側近がバルク達を指差している。そして少人数で、その上戦闘に遅参して来たバルク達を見るモルダヴィア公の視線は冷ややかなものがある。それでも幾らかの報酬は支払われる。この状況はバルク達にとって屈辱以外の何物でもない。逃げるようにしてその場を離れようとしたバルクやクイナの前にブコビィが現れ、わざとらしい大声を出す。
「なんだ、遅かったじゃないか。今頃のこのこと、何処に隠れて居たんだ」
タタールの傭兵にとって戦場での逃げ隠れは万死に値する最も恥ずべき行為だ。
「この野郎!」
今にも剣を抜きそうになっているクイナをバルクが必死になって止めた。
「よせ、モルダヴィア公の御前だ」
なすすべもなく去っていくバルク達を見送り、ブコビィは側に立つ仲間につぶやく。
「これで奴らの評価は地に落ちたな」
陰湿な薄笑いを浮かべるのだった。
「あのくそったれ野郎!」
クイナが未だに叫んでいる。
「見返してやれ」
隊長バルクの声だ。
「次の機会に奴の鼻を明かしてやればいいではないか」
戦場からの帰途で馬を降り休ませていた時だったが、
「ん?」
軍団が腰を下ろしている所は丘の中腹で、見晴らしの良い場所である。裾野は林になっていて細い街道が左右に伸びている。その時、皆の注意を引いたものがある。
「あれは?」
見下ろす街道を馬車が何者かに追われて疾走しており、護衛らしき男達10人程が並走して敵を防いでいる。しかし追いつかれた者から順に切り倒されていく。その追っ手は護衛をする者の約3倍はいるだろう。
バルクが叫んだ。
「馬に乗れ!」
「クイーー」
そこまで言ったタリウトが振り向いた時、クイナは既に馬上で鞭を当てていた。先の屈辱を晴らすつもりなのか、一直線に丘を駆け下りていく。
「ウオーー!」
野獣のような叫び声と共にクイナの剣が横に払われる。それはカミナリの一撃にも等しかった。一気に3人が切り倒される。鞍から大きく身を乗り出して剣を振れば、伸びた剣先は2メートルも離れた馬上の敵を切る事が出来たのだ。追っ手は何が起こったのか分からないままに左右を見た。クイナは手綱を引くと、再び男達の中に切り込んで行く。
「クイナ、少しは残しておけよ」
やっと追いついたタリウトの声だ。だがその声も届いていないのか、クイナは悪魔のような形相で次々と追手の男達を切り刻んで止まる事を知らない。
突然新たな騎馬軍団に襲われた敵は狼狽え、ついに馬車の追撃を諦め撤退していった。クイナは馬を降り、地面に両手を付いて肩で息をしている。この短時間で一体何人切ったのか。
その後逃げていた馬車が見つかり、側に行くとドアが開いて妙齢な婦人が顔を出した。バルクが丁寧に声を掛けた。
「お怪我はありませんでしたか?」
「あの者達はもう……」
「大丈夫です。これでしばらくは襲って来ないでしょう」
安心したのか表情を和らげる婦人は青いドレスをつまむと、御者の用意したステップを降りようとする。バルクは手を差し伸べた。
ドン・キホーテは騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士が、自らを騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗って冒険の旅に出かけ、貴婦人と出会うなどの物語である。中世から連綿と続いてきた騎士道の精神は、傭兵バルクをして婦人に手を差し出させていた。騎士は自らの命を懸けて女性を守り抜く事が使命であり、その後の自己紹介は必須のマナーである。マナー違反は恥であるだけではなく、アウトローとして社会から追放されるほど犯してはならない事柄であった。
「ありがとうございます。貴方達は?」
「我々はタタールの傭兵軍で、戦闘からの帰りです」
婦人はモルダビアで貿易商を営むラウラ・アレクシアと名乗った。出先から館に帰る途中であったようだ。そしてあの追っ手達は夫人と対抗する者の手下ではないかと言う事であった。
この時代ヨーロッパでは、初対面の相手とは社交辞令に加えて互いに氏素性を名乗り合うのが常識であった。アウトローなどの無法者でない限り、特に分別ある者の礼儀であるとされていた。それをしなかったり、出来なかったりする事は不作法であるとされ顰蹙を買った。自ら発信する以外に情報元の乏しい時代だ。この様な場面では尚更だった。現代のプライバシー云々とは少し違う世界である。特になぜかフランスでその傾向が強い。別に怪しい者ではありませんと互いに表明し合う訳だ。
そしてそれ以上にマナーとしての自己紹介は中世ヨーロッパの終わり頃に確立され、特に欧米では現代に至るまでその作法が受け継がれている。
「お礼をしたいのですが。もしよろしければ今から私の館にいらっしゃいませんか?」
婦人の館は此処から東に少し走った、黒海に面した所だと言う。甘く薔薇の香るようなその申し出を断る理由など何も無い。バルクはもちろん喜んで承諾した。
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