【改訂版】その2 剣豪とタイムマシンとカレーライスと
@erawan
第1話 剣豪安兵衛の娘ユキ
1588年の夏は、結翔(ゆいと)が時の支配者トキの手を借りて秀吉の嫡男鶴松に転生する2年前である。同じその年、地球の裏側では、スペインの無敵艦隊はイングランド艦隊に大敗を喫し、スペイン本国に帰還できた軍艦と武装商船は半数にまで減っていた。死傷者が2万人におよんだこの敗北は、世界に植民地を有しており、ある領土で太陽が沈んでいても別の場所では出ているという、太陽の沈まぬ国と呼ばれたスペイン帝国衰退の予兆となった。
当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題などで悪化しており、さらにイングランド私掠船によるスペイン船への海賊行為などの横行に苛立ったスペイン王フェリペ2世が、イングランド侵攻を決意した結果だった。
国王の特許を得て敵国の船を攻撃し捕獲する権利を認められた一種の海賊船は、いわば海の傭兵であり、16から17世紀にカリブ海などで多く出没していた。イングランド、フランス、オランダ、スペインと各国の私掠船がひしめいていたのだ。だが中には統制がきかず、同盟国や母国籍の船まで襲う者や、本物の海賊に転身する者まで現れている。この私掠船に対抗して頭角を現してきたのが、イングランドの海賊ウイリアム・ハックを味方に引き入れた、安兵衛の娘ユキの率いる商船団であった。ユキはやがて17世紀の海運王と呼ばれ、ラウラ財団の総帥となるのだが、事件はそのユキがまだベネチア商人の娘ラウラの養子になってしばらくの頃に起こった。
黒海の北西に位置するモルダヴィア公国がスラヴ人、ハンガリー人、タタール人など様々な民族の支配を経て、ルーマニア人により建国されたのは14世紀の中頃である。ユキの育った17世紀はオスマン帝国に従属している。
そのオスマン帝国が東ローマ帝国、いや南イタリアをかろうじて抑えている程度で、ローマ帝国とは呼べないない状態のビザンツ帝国を滅ぼすと、大航海時代の幕開けである。ヨーロッパ商人はインド航路でコショウ、ナツメグなどの香辛料を求め、砂糖は三角貿易(奴隷貿易)で入手する。アフリカに毛織物や銃砲類を陸揚げし、その見返りに黒人奴隷をアメリカ新大陸に連行転売した。新大陸アメリカや西に向かってインド洋に至る航路の発見は、世界の交易に変化をもたらしたのだ。ラクダで砂漠を延々と運び、さらに東西の世界を結んでいたコンスタンチノープルに至る陸上輸送量の減少は、中東の交易権を支配していたオスマン帝国衰退の遠因ともなったのである。
オランダは交易の富で経済大国となり、フランスでは宮廷文化が栄える。そしてイギリス革命、次はフランス革命が起こり、ナショナリズムが高揚してナポレオン・ボナパルトはナポレオン戦争を起こした。
そんな時代背景の序盤である。青く波静かな黒海を見下ろす丘の中腹に、交易商人ラウラ・アレクシアの館が建っている。淡いピンク色の花が咲き誇るバラ園に囲まれ、敷地の木立は適度な影を落とし、見え隠れする遊歩道に沿う赤い花はブーゲンビリアである。冬には葉を落としてしまうが、夏になると色鮮やかな庭園となる。邸内に入ると、大きなパティオが広がり、壁には宗教画や彫刻が飾られ荘厳な雰囲気を醸し出している。この館は各部屋から黒海が見渡せた。
「おば様、準備が整いました」
「ユキ、今度の航海は長くなるわね……」
「また心配なさっていらっしゃるのですか?」
「…………」
日本からやって来た安兵衛がオスマン帝国皇帝ムラト4世の側近であった頃、ラウラは海賊の手から弟を救い出してもらった事がある。その恩義からオスマン帝国存亡の危機に際しては、進退窮まった安兵衛の逃亡を手助けしている。
ラウラは改めてユキの着る羽織袴姿を眺めた。もう慣れっこになっているのだが……
ユキは常にこの服装を好んで着ていた、父安兵衛から教えてもらった服装である。袴は両脚に仕切りがある馬乗袴でスカートにも見えるしズボンのようでもある。スカートでは船に乗って作業は出来ない。そうかといって全く男の服装をするのも抵抗がある。この羽織袴は新しい機能的な風俗と言えるから好都合であった。
また中世ヨーロッパでは女性が髪を見せるのはふしだらでみっともないとされていたため、女性のほぼ全員が頭巾のようなものをかぶって髪の毛を隠していた。特に既婚者の女性の頭髪は夫である男性のみが見ることが出来たのだ。近代以降の一般人はガーゼ(ベール)を身に着けるようになり、やがて髪を隠さなくなった。だが伝統を重んじる人々の間ではやはり女性は髪を人前で晒すものでは無いという考えが強い。だがユキはそんな事には頓着しなかった。髪を隠さず自由になびかせる自分が、男達から好奇の目で見られている事も意に介さなかったのだ。自分も父安兵衛と同じ思いであった。何故自然な髪を隠す必要があるのだと。父の話では、日本の女性が湯あみをした後の髪は綺麗で自然なのだと聞いている。隠す方が不自然ではないかと。
ちなみにオスマン帝国はイスラムであるのだが、女性が髪を隠す習慣はほとんどなかった。高貴な女性がお忍びで街に出るときなどに、スカーフをかぶる程度であった。そのオスマン帝国のムラト4世が、側近にまで上り詰めていた安兵衛に紹介した女性がユキの母親ミネリマーフであり、モルダビア公国の貴族の家系に連なる女性であった。そして安兵衛との間に生まれた娘は雪のように肌が白く、ユキと名が付けられていた。
ユキの母親ミネリマーフの瞳は、珍しいアースアイであったと伝えられている。世界には、青、茶、漆黒、緑の眼と、さまざまな色の眼を持つ人々が存在するが、中でも最も美しい言われている虹色の眼がアースアイであるという。青い眼に細かな緑やブラウンなどの要素が混ざった色で、地球のように見えるというところから後世ではこの名がついた。大きく鮮やかな瞳の中に繊細な景色を閉じ込めているような瞳である。ユキはその母親の遺伝子をそっくり受け継いでいた。
だが、その安兵衛の死後すぐに養子として迎えたユキを見つめるラウラは心配でならないのだ。
ベネチア商人の娘ラウラはユキに全ての知識を与え育ててきた。もう一人前の交易商ではあるが、冒険心に富む活発なその性格は、ラウラを心配させるには十分すぎるものがあった。
「ユキ、何度も言うようだけど、貴女が直接行く事は――」
「おば様、もう決めた事です。父の生まれ故郷にまで行くと言うのではありませんよ」
「それでも……」
ユキは振り返ると、召使に言った。
「お湯を入れて」
「分かりました」
今準備を進めている航海では、モルダビアを出て地中海交易をしながら、さらに大西洋を目指す。出航の前夜も、ラウラに準備がほぼ終わった事を報告したユキは、普段と変わりなく湯あみを始める。召使たちが運ぶ湯に入り、石鹸で丁寧に髪と身体を洗った。石鹸は12世紀ごろに、地中海沿岸のオリーブ油と海藻灰を原料として作られている。この石鹸は扱いやすく、不快な臭いも無いのでベネチアでも盛んに作られ輸出されていた。
「船に乗ったらこんな湯あみはもう出来ないわね」
湯あみを終え、召使の手を借り浅い湯舟から立ち上がったユキの身体は、使用されるほのかな香料の香りが漂っている。フランス貴族などは、石鹸にラベンダー、ローズ、ジャスミンの香料を用いている。父安兵衛の影響から、湯に浸かり身体を洗う事はユキの大事な日課となっていた。その湯上りの湯に好きな香料を垂らしているのだ。
中世ヨーロッパの夫人たちは男と同じで、めったに身体も髪も洗わない。フランスなどでは、肌が水から悪い物を吸ってしまうなどと、とんでもない事が信じられていた。その為、水が肌に触れる事を極端に怖がっていたらしい。そこで使われたのが香水だった。
ユキの場合、そんな不潔な身体の匂いをごまかすために使用するのとは違う。綺麗に洗った身体に付ける香水は、良い効果のある使い方だと知っていた。
食卓でラウラと向かい合うユキがワインのグラスを置く。召使が新たに注ごうとするのをユキの手が止めた。重厚な内装の部屋を幾つものローソクの灯りがほのかに照らしている。
「アジアの香辛料を扱えば確かに利益は出るでしょう。ですが、今からオランダやイングランドの既得権を崩すのは無理でしょうね」
「ユキ――」
「おば様、安心して下さい。だからと言ってすぐ私が日本に行こうと言うのではありません」
「…………」
確かにラウラ家では、イングランドなどに後れを取りつつあるベネチア交易の現状を打開しようと、何度か日本と交易をしているのだ。そのルートを確実なものにしようとする試みは理解出来る。
「日本は火器の先進国だと評判です。ヨーロッパも新大陸も火種は尽きないでしょから、火器の需要はあるはずです。ですが、今すぐ交渉に行く事を考えてはおりません」
「…………」
「その前にまだまだやる事が残っています。なにも心配いりませんよ。地中海はもう何度も行き来しているのですから」
だがラウラは心配だった。今回はアフリカの喜望峰を回りアジアに向かうほどの長い航路ではない。それでも黒海を出て地中海を横切り、オランダを目指すのは長くなる。
独身のラウラはユキを養子に迎えてから、商人としての基礎をみっちり教え込んで来た。正攻法だけでは無い、生き馬の目を抜くビジネス界で、敵を出し抜くあらゆる策を授けてきた。すでにラウラ家の後を継ぐのはユキだと決めていたのだ。そのユキに万一の事があったら……
ラウラ家の命運は他の商人達と同じで、常に航海の結果に掛かっていた。無事交易を終えて帰れば財を築け、海難事故や海賊に襲われて帰れなければ破産する。
16世紀から19世紀、特にヨーロッパ外洋での掠奪行為は公認のものさえあった。エリザベス女王が後ろ盾という、都合の良い海賊も居た背景がある。つまりこの時代の外洋航海となると、無事戻って来れるかは、一種の掛けともなる危険なものだったのだ。
ラウラ家の交易船パルパテチオ号の船べりに立つユキは、男の身なりのような羽織袴姿であった。17世紀の女性が男の服を着る事などあり得ないのだが、ユキはスカートで船になど乗れないと、いつもその服を着ていた。ちなみに19世紀のフランスでは女性がズボンを履くことを条例で禁止していたのだ。
出航を控えた船では、最後にユキの好きな野菜や果物と水を積み込んでいるところだ。
ユキは水夫頭に声を掛けた。
「マラト、水はもう運び終わったの?」
「まだあと10樽来ます」
「樽材は大丈夫、中抜きなんかしてないでしょうね」
「ユキ様、わしが眼を光らせているんです。そんな事は出来っこありません」
「分かったわ」
先のスペイン艦隊敗退の遠因に、樽材の大量確保が難しかったため生乾きの粗悪な板を使用することになり、イングランドへの遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになったと言われている。ユキはそれを心配しているのだ。新大陸への航路が発見されたりして交易が盛んになり、樽の需要はどんどん高まってきている。大量の樽材は乾燥に時間がかかり、需要が高まれば品薄で当然高価になる。値段の安い手抜きした生乾きの樽材を使えば、長い航海では水や食料に腐敗などの深刻な影響が出て来るのだ。水夫頭のマラトはユキが信頼している乗員のひとりである。
「野菜は?」
「野菜はもう全部運び終わりました」
父の安兵衛から教わった、くさやと言う独特の匂いや風味をもつ食品や、梅干しは帆船の長い航海で必需品となっていた。帆船時代の食事は、豆類、乾パン、塩漬けの肉や魚、乾燥ニンニクなどが中心だった。パルパテチオ号のような大型船では鶏や豚、牛、ヤギなどの家畜を船倉に積み込むことも出来た。だが航海が長引くと、たとえ大型船と言えども食事の内容は悲惨なものとなる。ネズミの肉や腐った水など、生き延びるためには何でも口に入れた。さらにビタミンCの欠乏で、船乗りたちを壊血病が襲う。倦怠感に始まり、歯茎からの出血、手足のむくみが起き、最後は衰弱死する。当時は野菜を積極的に食べるという食習慣も無かった。原因が分からなかったため、謎の病気として恐れられていた。
だがユキは安兵衛からかつお節の話も聞き手探りで作っている。三枚におろしたカツオを燻製にすれば似たようなものが出来るのではないかと。かつお節はミネラルやビタミン、アミノ酸が豊富なため、疲労回復から血行を良くして、また免疫力を高める成分セレンも多く含まれていると言われている。高タンパクで栄養バランスに優れている食材である。いつまでも腐る事はなく、何よりもビタミン不足から起こる壊血病を防ぐことが出来る。燻製となった後は半年以上を掛けて徹底的に水分を抜き、石のように固くなれば完成だ。薄く削って食する削り節は、燻製しか知らなかった者には想像も出来ないような食べ方であった。削り終わったかつお節を飴玉のように口に含む者もいる。ユキの野菜好きに合わせて、このかつお節は船乗りたちの健康を飛躍的に改良した。壊血病になる者が激減し、船乗りたちの体力がいつまでも温存できた事は武力に勝るものであった。
ユキがこの日出航しようとしている港はモルダビア公国の首都に有り、大貴族のモルダビア公が統治をしていたが、貴族間で紛争が絶えなかった。火種はくすぶり続け、ついにこの日、暴動に発展する。ルーマニア人貴族達がたきつけ扇動したものだった。
最後の水を積み込んでいたその時、ユキは船べりから見上げる丘の中腹に立ち上る煙を見た。
「おば様……」
すぐ船を降り、馬を急がせ丘に向かう。ユキの駆けて行く脇を、暴徒達が奇声を上げすり抜けて行く。館に着く頃には次第に嫌な予感がして来る。馬を飛び降り、館に駆け込むと、内部は暴徒に襲撃された後で、荒らされて足の踏み場もない。
「おば様!」
手遅れだった。広間に血を流し倒れているラウラを見つける。
「おば様!」
「ユキ……」
「おば様、しっかりして」
「ユキ、私は……もう助からない」
ユキはラウラを抱き寄せた。
「……いいかい、今から言う事をよくお聞き」
ユキの肩を掴んだラウラの手が血に染まっている。
「ここから北に向かうと……ベンダーという街が有るから、そこでバルクという男を探しなさい。きっと……お前の助けになって……くれる、はず……」
「おば様!」
今度は背後で召使の叫ぶ声、
「ユキ様、船が奪われました」
「えっ」
館のバルコニーから海を見ると、ラウラ家の交易船パルパテチオ号が港を出て行くではないか……
突然襲って来た騒動に、ユキは呆然としていた。
どれだけ時間が経ったのか。いつまで嘆いていても始まらない。召使に手伝わせてラウラの遺体を運び、父と母が眠る墓の傍に埋葬する。かろうじて難を逃れた召使達にいくばくかの給金を払うと、後にはユキひとりが残された。
書斎に入りドアを閉める。そこも手を付けられないほど乱暴に荒らされていた。引き倒されているマホガニーのチェストをどけ、壁の前に立つ。鹿の角や剣がいくつも壁面を飾っている。その角のひとつを右手で持ち、左手で剣の柄を握ると、内側に倒した。ゆっくり引くと壁の一部が開き、秘密の収納庫が現れた。どうやらここだけは無事だったようだ。中の扉を開くと、宝飾品はよけて金貨の入った袋を身に着ける。さらに、父安兵衛の形見である刀を取り出し腰に差す。
父から「この刀は、安綱という名工が、龍神の力を得て創ったと語り継がれているものだ」さらに「お前が強い意志でこの刀を振るえば、切れない相手はいない」と聞かされていた。そんな父から剣術の手ほどきを受けてはいたが、まさかこんな事で刀を腰に差す時が来るとは思わなかった。後は元通りに壁を戻して外に出た。
両頬に流れていた涙をぬぐうと、馬をなで、その首を抱き語り掛けた。
「チェス、私たちふたりだけになってしまった。残されたものは金貨一袋と、お父様の刀と、後はお前だけよ」
チェスと名付けていた馬が、首を曲げてユキを見た。
「チェス、連れて行って」
チェスはユキを乗せ、北を目指して駆け出す。街のいたるところが、煙の臭いに満ちていた。
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