第5話 雑草の名を覚えていますか (5)

 たましいの色がみえる人と出会ったことがある。

 もっとも、それが実際に「たましい」の色だったのかは知らない。どうやって、どんなふうに、どれくらいの濃さでみえるのか、そういうことを彼女からは何も聞いたことがない。彼女は、二者面談で露骨に黙りこくる本瀬もとせとの間の、重たい溝を埋めるための雑談としてその話題を選び、そして失敗していた。だからそんな見出しのような部分しか覚えていない。いわゆるオーラというか、人の雰囲気や人間性を色で認識できる人だったのかもしれない。でも少なくとも、彼女はそれを「たましい」と呼んでいて、その人――中学校の担任教員だった――と本瀬は仲がよかったわけではないけれど、むしろ当時の本瀬は疎ましく思っていたけれど、最近はよくその人のことを思い出す。

 ――別に、今更考えたってどうにもならないんだけど。

 当時、本瀬はその人のことを「ねえ」と呼んでいた。もちろん名前でもあだ名でもない。ただの呼びかけだ。本瀬はその先生を名前で呼んだことが一度もない。名前を知らなかったわけではないけれど、穴の空いた風船のように歯の隙間から垂れ流す「面倒くさい」「だるい」「どうでもいい」の代わりに、担任の名前を口から出すことがなんとなくできなかった。

 あのひとは、幽霊のたましいの色だってわかるのだろうか?

 もっと話聞いとけばよかったな、とスマートフォンの画面をスクロールしながら頬の内側を噛んだ。メッセージアプリにはいくつもの幽霊の目撃情報が寄せられていて、その全てに「Thank you!」と本を抱えたまま気だるそうに眠るネコのスタンプが返されている。

 あかねたちはこれらの場所を全て回ったのだろうか? 結局、本瀬は一度も猫村ねこむらに会っていないし、どこまで活動が進んでいるのかもよく知らない。本瀬がやったのは学校の幽霊を簡単に調べたことくらいで、それもどれくらい役に立っているのかは見当もつかない。話を聞く限り猫村が探しているのは特定の幽霊なのだろうし、学校で語り継がれる霊たちがどのように活動を後押しするのだろう?

 そろそろ茜から情報共有のメッセージが来る頃だろうな、と時計を見たところで、タイミングよく通知が鳴った。

――今日の放課後、空いてる? 情報共有したい

「空いてる」「そっち行くわ」と短く二件返信を打つと、「ありがとう」とひとこと返ってくる。お菓子でもあっただろうか、と鞄を探っていると何かの気配が身体を覆った。

しおり

 ぱきんとした声と一緒に人差し指で机をこつこつと叩かれて、顔を上げる。はつらつとした笑みと一緒に弾ける「おはよ」に、同じような「おはよ」を返すと相手の女の子は本瀬の机の腕を乗せて膝立ちになった。

「なにしてるの?」

「幽霊について考えてた」

「あっ昨日の?」

「うん」

 この少女は、本瀬が昨日クラスメートや別のクラスの生徒を巻き込んで幽霊の噂を集めていたことを知っている。それどころか、自分はわからないからと何人か友人を紹介してくれた。とても親切な人だ、と本瀬は思う。私は全然そういうのわからないからなー、と短い髪に手を差し込む彼女は、若葉わかばという名にふさわしい、生き生きとした爽やかな表情で首を傾げる。

「幽霊、探してるの?」

「うーん? まぁ、そんな感じかも。でも俺霊感とかないし。昔たましいの色がみえる人が知り合いにいてさ、その人だったら簡単にみつかったんかなーって思ってる、今」

「たましいの色? 共感覚みたいなこと?」

 共感覚、という言葉を知らない。本瀬はさぁ、と首を振る。

「どういう名前かは知らないけど、でもそういう人がいたんだよ。中学の先生だからもう話すのとかも出来ないんだけど」

 ふぅん? ときらきらした瞳で若葉が口角を上げた。席が窓際だからか、大きな目が光の粒子を吸収して瞳孔まで美しく透き通っている。向かい合う本瀬とほとんど同じものを映しているのに、若葉の瞳はその虹彩を通すだけで全てを浄化しているみたいだ。この色は何色というのだろう? 目が合うたびにそんなことを考えてしまうけれど、未だに答えは出ない。

「なんかいいなぁそういうの。友達とか自分のたましいの色どんなのかすごい知りたい、聞いたことある?」

「ないなー……あんまり本気にしなかったんだよね、意味わからんーって」

「えーそうなの? じゃあ想像しがいがあるね、次に会ったときに答え合わせ出来るじゃん」

 若葉は、中学時代の担任とまた再会すると確信しているかのようにそんなことを言った。地元の公立校だよ、と口を尖らせる本瀬に眉を上げる。

「それが?」

「異動があるってこと、もういないよ」

「そんなの関係ないと思うけどなぁ。縁があればまた会うよ、そう決まってるらしいし」

「誰が決めたの」

「人生の先輩方」

「なにそれ」

 若葉が目を細め、唇の隙間から白い歯がのぞいた。柔らかい笑い声はふくらんだカーテンに似ている。案外、若葉が言うとそうなんじゃないかという気がする。

「なんか楽しそうだね」

「そうかな? あぁ昨日観たテレビが面白かった、ちょっと難しめのクイズ番組」

「どんな問題?」

 えぇ、と彼女は思いがけないところで指名されたときと同じような表情で頭を掻いた。

「そういうのってさ、そのときは勉強になるなーって観てるんだけど、次の日には忘れちゃうんだよね」

 勉強になってないじゃん、と本瀬が頬杖をつくと同時に、若葉が身を乗り出す。

「あっ漢字で『縦』って書いて、『ほしいまま』って読むんだって」

「縦?」

「うん、あと線香花火ってパチパチしてる段階ごとに名前が違うとか」

 蕾、牡丹、松葉、柳、散り菊、と指を折って自慢げに唇の端を吊り上げる若葉に、思わずふはっと本瀬は角の取れた息を零した。

「よく覚えてるね」

「なんか綺麗だなと思って。しかも人生になぞらえてるんだって、さすがだよね」

「誰が?」

「人生の先輩方」

「さっきからそれしか言ってないじゃん」

 なははと朗らかに笑い、のんびりあくびをしたところで予鈴が鳴って、彼女が「よいしょ」と立ち上がった。

「幽霊、きっとみつかるよ」

「そう願ってる」

 大丈夫だよ、と彼女は蝶々のように手を振って自分の席に戻っていった。ゆっくりとカーテンがふくらみ、白い布からあふれた風を頬に浴びる。原っぱを転がったときと同じ匂いがしたような気がして、ふんわりとあくびが出た。どこかで猫村を待っている幽霊も、この風を感じられていたらいいなと本瀬は思う。


***


 風で生き物のようにはためく髪を押さえながら、望星もとせは不思議そうに声をあげた。

「つぶちゃんが探してるもの? 知ってるけど、つぶちゃんは茜たちに話してるんじゃないの?」

 半端にひらいた窓に寄りかかる望星と、机に座った僕と本瀬、そしてきちんと椅子に腰かけたやなぎは放課後の開放的な空気を持て余していた。風が舞い込むから、いっそう僕らの停滞が際立ってなんとなくそわそわする。

「うん、話は聞いてる。詳しくは話せないけど、どういう人かと、あと名前も」

「そう」

 いくら望星といっても話せないことはあるし、それは望星の方だって同じだ。言葉を選んでいると、先に彼女が口を開く。

松葉まつばちゃんは、まだ見つからない?」

 まだみつかってない、と僕が答える前に、本瀬が「松葉?」と口の先で呟いた。

「本瀬、どうかした?」

「あいや、悪い。なんでもない」

 何かを誤魔化すように顔の前で手を振りながら、「てかさ」と曖昧な笑みを浮かべながら望星に視線を投げる。

「猫村さんのことつぶちゃんって呼んでんだね。俺会ったことないんだけど、そんな小っちゃい子なの?」

 本瀬には今に至るまでの活動をざっと共有したけれど、実際に本瀬の前で望星が猫村さんの話をするのは初めてだ。望星はわずかに首を傾げ、んーと人差し指で頬を掻いた。

「まぁ部活全体でのあだ名だったからそれもあるにはあるのかもしれないけど、つぶちゃんってもともとはそういう意味じゃないよ」

「え、そうなの?」

 猫村さんは自身のあだ名を「背が低いから」だと言っていたはずだけれど。首をひねった僕に彼女が怪訝な表情を浮かべた。

「あの子はそういう解釈をしてるのかな? でも最初は違うよ。知ってるかもしれないけど、あの子、下の名前をつぼみっていうんだよ。だから最初は蕾ちゃんって呼んでて、それが言いにくいからつぼちゃんになって、それが音だけ浸透してつぶちゃんになった」

 まぁ、あだ名の由来なんて覚えてないものだよね、と涼しげな顔が肩をすくめる。

「彼女は、猫村蕾っていうんだ」

「そうだよ、知らなかった?」

 記憶を遡ってみたけれど、覚えがない。メールでも対面でも、彼女は確か苗字しか名乗らなかった。

「初耳だよ」

 でも確かに、望星が相手の身体的特徴をあだ名にするのは違和感がある。納得できる話ではあった。

「望星は、猫村さんになんて言って捜索部を紹介したの? 捜索部にだって、必ず松葉さんを見つけられるわけじゃないってわかってたでしょ」

「もちろん。わたしは、捜索部の活動理念が好きなんだ」

 活動理念、と柳が反芻した。

「活動理念は大げさなのかな、でもテーマみたいなものを信頼してるんだよ」

「というと?」

「つぶちゃんには、捜索部のことを失くしものを見つけてくれる部活とは言ってないよ。もし見つからなくても、失くしものをした空白を埋めてくれる部活と言った」

 僕はゆっくりと息を吐く。何かが輪郭を帯びる。猫村さんの、怯えた猫のような緊張感と、不安に揺れる目を思い出した。お腹の前で固く握っていた手が何を護ろうとしていたのか、少しだけ見えたような気がして口をつぐみそうになってしまう。

「わかった」

「うん。頼むよ」

 色の剥げた白い窓枠から望星が身体を離し、床に置いていた鞄を肩に掛けた。その「頼むよ」は、昨日のハイタッチのような軽さではなかった。手のひらを肩に置くような、体温と重さを感じる響きだった。

「じゃあ用事があるからまた」

「うん、また明日」

 風は止んでいた。音も形もない陽射しばかりが硬いガラスをものともせずに床に四角いひだまりを作っている。猫村さんがこの暖かさの中にいればいい。でも、頭に浮かぶのは彼女の小さな猫背と遠慮がちな細い息遣いばかりだ。

 望星の足音が聞こえなくなった静かな教室に、「あ」と本瀬の声が響いた。

「どうしたの?」

「あいや、ちょっと思い出しただけ。松葉と蕾って、どっかで聞いたワードな気がするなってずっと思ってて」

「それを思い出した?」

「うん、線香花火の話だったわ。友達が言ってたんだよな」

 ごめん急に、と話を流そうとする本瀬に、柳が「まって」と控えめな声を上げた。

「ん?」

「線香花火ってどういうこと?」

「んー、なんか線香花火の燃え方? の段階に名前がついてるって話だったと思う。最初が蕾で、次の方に松葉があって、あとなんだっけな、最後は菊だったかな」

「……これかな。蕾、牡丹、松葉、柳、散り菊?」

「あっそうそうそれ、調べるの早いね」

 なるほど。鮮明になりつつあった何かの輪郭がよりはっきりして、僕は唇だけで透明な言葉を呟いてみた。

 猫村さんが探しているのは、幽霊じゃない。

 確証はないけれど、でも松葉さんのたましいは、きっと猫村さんの希望でできている。

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そこに夕陽のかけらがある トーマ ケイ @KEI_Toma

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