第2話 雑草の名を覚えていますか (2)

「その幽霊が、魔女に隠されたものだと?」

 次の日、猫村ねこむらさんと合流する前に顧問への活動報告のために僕は職員室をたずねた。彼女は活動を部員に一任していて、手助けが必要な場面以外で僕たちと活動を共にすることはない。でも僕たちがいつでも先生を頼れるように、彼女は活動が終わるまでは必ず職員室にいる。

 一通り事情を話した後、湯のみを両手で包みながら、ハスキーで落ち着いた声の女性がこちらを見上げる。薄い唇の端は上がっていて、口調はまるでこちらを試しているかのようだ。その強い目に思わず視線を横に流してしまったけれど、受験生向けの現代文の解き方だとか、漫画仕立ての竹取物語に混じって、会議のスケジュールや良い教師になるためのテキストなんかが目に入ってくる。そちらもそちらで見てはいけないような気がして、結局目の前の顧問と目を合わせた。

「はい」

「そうか、まぁ好きにするといい」

「あまり、教師らしくない台詞ですね」

 ギッとチープな椅子の背もたれに背を預け、湯のみに口をつけた先生は眉を上げた。

「普通の教師なら何と言うんだ?」

 そう言われるとなかなか思いつかない。先生は散乱しているいくつかの書類の中から一枚を手に取り、ざっと指で内容を追ったあと「水城みずき」と印字された名前の横に雑なマルをつけた。

あかね、ひとつ聞きたいんだが」

「なんでしょうか?」

「君は、その幽霊が無事見つかって、彼女たちが再会できると思うか?」

 数秒、言葉に詰まる。

「……正直に言うと、わかりません。幽霊というものへの認識が、彼女と僕で全く同じとも思えませんし」

 先生が頷く。そうだな、と小声でつぶやいたような気がした。

「でも少なくとも、彼女は友人と突然繋がりが途絶えた状態です。友人がどんな存在であれ、それは悲しいことだと思います」

 そして、悲しいことは避けた方がいい。別れは悲しい方がいいけれど、この悲しさは間違っている。もし仮に、このまま一度も会えない存在なのだとしても、きっと正しいさよならの言い方がある。そして、再会した友人への最初の言葉も、再会できない友人への最後の言葉も、ひとりで探すのはきっと心細い。

「もちろん再会できるのが一番で、理想です。そうなったらいいと思っています。でもきっと重要なのはそこではなくて、彼女が笑えることなんだとも思います」

 水城先生はそうか、と頷いた。それから引き出しからティーパックの小さな袋を取り出して指先でぴりとひらく。何のこだわりか、彼女は紅茶もコーヒーも湯のみで飲む。

「それでいい。ひとつの物語にもハッピーエンドはいくつもあるものだよ。それを知っているならとりあえず心配はいらない。くれぐれも危険はないように」

 紅茶を淹れるからそろそろ帰れ、と先生は立ち上がって伸びをした。

「今のは先生っぽい台詞でした」

「普通の教師らしかっただろう?」

 普通かはわかりませんが、と僕は笑う。普通かはわからないが、僕はこの先生を信頼している。


 ***


 茜が水城のところに行っている間、やなぎはひとり、第一校舎の三階と四階を繋ぐ階段の踊り場に立っていた。茜と柳が通う高校は、二つにわかれた校舎が渡り廊下で繋がっていて、一、二年生の教室と大部分の特別教室が第一校舎に、三年生の教室と職員室が第二校舎に入っている。一年生の教室は最上階の四階に割り当てられていて、帰宅する一年生は必ずこの階段を降りることになる。ホームルームが早く終わった柳は、そこで猫村を待っていた。本当は第一校舎の一階にある学生食堂で待ち合わせをしていたのだが、ひとりで四人掛けのテーブルを独占するのも寂しい。

 四階まで上り切ってもよかったのだけれど、踊り場のはめ殺し窓から見える空が好きだというそれだけの理由で、踊り場に立っていた。

 窓の向こうは晴れていたけれど、厚そうなガラスを隔てた空は少しだけ彩度が下がっている。まるごとの天球に紙やすりをかけっぱなしにしたような、粗末な優しさのようなものを纏っていた。突き抜けるような青空よりも、柳はこちらの方が好ましく思う。あまりにも純度の高くて明るすぎる空は、降り注いでくる光が鋭すぎてなんだか傷ついてしまう。

 でもやはり、どちらの空も幽霊には似合わない気がした。幽霊には強い日差しよりも夕焼けの方が似合うし、夕焼けよりも月明かりの方が似合う。

 ホームルームが遅れているのか、なかなか猫村は来ない。すでに、大部分の一年生は柳の背後を騒々しく駆け抜けていった。人の波が去った階段は静かで、柳は両手を握る。人を待つのは緊張するから苦手だ。時の流れが周囲から逸脱しているような感覚になる。心臓から伸びる太い血管がきゅっと収縮しているような気がして、落ち着かない。

 はぁ、とふぅ、の中間のような短い息を吐く。でも落ち着かないのは猫村を待っているからだけではないことに柳は気づいていた。

 未だに、これから幽霊を探すのだという実感がわかない。理解はしているのに、幽霊への恐怖も未知への期待のようなものもなくて、忘れ物をしている気持ちになる。まだ太陽が沈んでいないからだろうか、仮にここが心霊スポットだったとしても、きっと幽霊探しにふさわしい心もちにはなれない。あるいは猫村の話に登場した幽霊に、人間味がありすぎたからかもしれない。未知の概念を扱うのだから、色々な想定をして慎重に行動すべきだと理性は断言しているけれど、どうしても感情が彼女を独立させる。

 柳の感情が、幽霊をひとりの少女にしたがっている。

 なんとなく、違和感があるのだ。猫村の前から姿を消した松葉まつばを内包する集合の名前が「幽霊」であることに、少しだけズレを感じる。しかし、そのズレの正体を掴もうとすると突然ばらばらに砕け散って霧散する。例えば、幽霊に今の空は似合わないけれど、松葉には似合うような気がする。概念としての幽霊が必然的に持つ悲劇的な雰囲気を、松葉には感じない。その矛盾に唇を噛みたくなる。柳には霊感もなければ、霊感のある知り合いもいない。だからその存在がよくわからない。言葉で定義を理解するのは簡単だが、それは柳の定義する理解には足りない。それがもどかしい。知識がなければ何かを間違える。背景や、対象を含むより大きなものについて理解していなければ、個をきちんと理解することなんてできない。それはわかっているのに。

 本瀬もとせが言った「人間と幽霊も魂の種類が違うってだけ」というのは、こういう感覚のことを指して言っていたのだろうか?

「柳先輩?」

 聞き覚えのある声がして振り返ると、学生鞄を両手で下げた少女がこちらを見つめていた。猫村。なんでここに、と言いたい顔をしていた。昨日は気がつかなかったけれど、意外と背が低い。そして、表情の変化が乏しい印象があったが意外と素直なようだ。

「こんにちは」

「こんにちは。すみません、ホームルームが長引いてしまって」

 猫村は柳の膝あたりを見ながらぺこっと頭を下げる。緊張が抜けないのか、舌がもつれて「すみません」が「すません」に聞こえた。学級委員がなかなか決まらなくて、と続ける彼女の表情は幼く、猫というよりも追い詰められたねずみの方に似ている。

「いえ、私のクラスが早く終わったんです。ちょうど今、幽霊にいちばん似合う空と、松葉さんにいちばん似合う空について考えていました」

 猫村は、なるほど? と小さく首を傾げた。

「そのふたつは、別物ですか?」

「私は、別物だと思います」

 柳はそう答えながら、それは私の願望なのかもしれない、と思った。理性と感情が対立したとき、柳はまず感情を優先できる道を探す。そう、感情的に決めている。

 松葉さんには、どんな空が似合うと思いますか? と柳は尋ねる。猫村は、窓の外を眺めてうーんと唇で空気を潰した。唇を曲げながら何度か目を閉じる。その姿を柳は見つめていた。その瞼の裏にきっと松葉がいる。薄い皮膚に映し出された色んな色の空を背景にやっほう、と笑って、スカートがなびいて、

 ふと猫村は目を開けた。のっぺりと伸びる薄汚れた校舎の壁を見て、彼女はふ、と笑う。

「わかんないです、どれが特別似合うとか似合わないとかそういうのがなくて、なんとなく全部似合う気がします」

「なるほど」

 何も考えていなさそうに猫村は壁から柳に視線を移し、目を細めた。

「柳先輩は、白い空が似合いますね」

「白い空というのは、曇り空ですか?」

「いや、雲がなくても白い空ってありませんか? オフホワイトみたいな、落ち着いた白」

 確かにある。空の色は太陽光の散乱の具合によって決まる。大気中の水蒸気や塵埃の量が多ければ、全ての光が一様に散乱して空はくすんだ白色に見える。

「ミー散乱ですね。でも確かに、青すぎる空よりは好きです、白い空」

 柳は意識して微笑む。そのとき、鞄の外ポケットに入れていたスマホが震えた。確認すると、茜からのメッセージを伝える通知だった。

「茜くんからです。食堂にいるけど、どこにいるの? と」

 行きましょうか、とふたりで階段を降りる。たんたんたん、と上履きのゴムがつるりとした階段を叩く音が反響する。放課後の音だ。少し寂しいけれど、何かに守られている音だ。

「怒ってるでしょうか?」

「茜くんがですか?」

 こくんと猫村が頷く。私の依頼なのに待たせてしまって、と続ける表情は固く戻っている。

「彼はただ心配しているだけです。基本的に、彼は表情も声のトーンも変わらないんです」

 真顔か、笑顔か。茜は日常の中で表情を変えるとき、基本的にその二択しか持たない。柳は、茜が怒りを露わにしたところも涙を流したところも見たことがない。真顔すらすぐに思い浮かばない。ずっと穏やかな瞳で微笑んでいる姿が印象的だ。声だって、ずっと柔らかくて角がとれた声をしている。

 ――怒りは怖いものだと思うよ。

 と以前茜は言った。たまに、それを思い出す。

「仲がいいんですね」

「この部活は、普通の部活よりも多分、心の距離が近くなります」

「確かに、柳先輩と茜先輩が並んでると、双子みたいに見えますよ」

 ふたご。私にはもったいない言葉だ、と柳は思った。何が「確かに」なのだろう。双子というのは、心理的距離が近く見えるという意味だろうか、あるいは、単純に見た目が似ているからだろうか。

 茜と柳は容姿が似通っている。童顔の茜と、大人びた顔つきをした柳は近いところにいると言えるだろうし、茜は髪を顎のラインで切りそろえていて、男性にしては長髪だ。体格の違いも性差の域を超えないから、セミロングを下ろした柳と双子のように見えてもおかしくはない。

「それは、嬉しいです」

 何も考えずにそう言ったけれど、それが本音か嘘かは柳にもよくわからなかった。

 柳にとって茜は、近づけば近づくほど遠くなるタイプのうちのひとりだ。柳は彼を尊敬しているけれど、その感情が友人として距離を縮めるのかに懐疑的だった。

 ただなんとなく、彼にはどんな空も似合う。と柳はひとり考えながら階段を降りる。



「遅れてごめんね」

 と言った柳に、茜はすぐに首を振った。

「ううん、ただ少し心配しただけだよ。あとは、ひとりで四人掛けのテーブルを独占するのが少し寂しかったかな」

「本瀬くんは?」

「いないよ。今回は三人だ」

「そっか」

 彼の手元には文庫本が置いてあった。待っている間に読んでいたのだろう。本屋でもらえるタイプの薄いカバーがかけられていて、中身はわからない。

「お待たせしてすみません」

「全然、実は本を読んでいたらあっという間でした」

 ちょうど、主人公たちが夏休み初日に線香花火をやるシーンが終わったところです、と真剣なのか冗談なのかわからないトーンで茜が言う。猫村が線香花火、とぼんやり繰り返した。

「猫村さんは好きですか? 線香花火」

「好きです。多分、花火の中では一番」

「そうですか、なら、今年の夏にでもやりましょう」

 茜はそう言いながら、隣の椅子に置いていた鞄からクリアファイルをとり出し、一枚のプリントを抜き出して猫村の前に置いた。「なんですか?」と紙を覗き込んだ猫村は首を傾げたけれど、柳は知っていた。一度、同じ紙を今と同じように見せられたことがある。そのときの相手は茜ではなく、水城だったけれど。

「この活動のルール、だね」

「そう、僕たちはこれを守って活動しないといけない。部室のパソコンに入っていたデータを印刷してきました」

「でも部活に関しては校則がありますよね? それとは別に?」

「そうですね。でも、これはもっと細かい規則です。独自のルールではありますが、この高校の部活動全体に施行されているものとは矛盾しません」

 まぁ、ルールも三つしかないので簡単なものです、と茜はほのかに笑った。まず、校則では部活動は十九時まで活動可能だけれど、この部活では活動開始時刻から最大で一二〇分までしか活動できない。そして、活動内容を毎回水城に報告しなければならない。これは今のところ茜の仕事だ。最後は、この活動は最大で週に二回まで、土日平日は問わないが活動と活動の間は二日以上空けなければならない。

「一回につき二時間、週に二回までの活動を全て先生に報告する」

「そうです」

「これ、破るとどうなるんですか?」

 柳は茜を見た。柳も、この規則が守られなかったときにどうなるのかは知らない。

「特に、学校としての罰則はありません。このルールを決めたのは水城先生だと聞いているので、先生がもし活動停止を決めればそうなると思います。特になにも言われない可能性もなくはないけど、信用が下がるのは間違いないのでできれば避けたいところです」

 猫村は頷いた。柳も同感だ。そもそも、校則があるにもかかわらず新たなルールを作成したという時点で、そのルールは茜たちのためにある。それを破ることに基本的にメリットはない。茜も柳も、教師として水城を慕っている。

「おふたりは、このルールの意味を知ってるんですか?」

 柳はいえ、と首を振り、茜が曖昧に眉を下げて微笑んだ。

「先生に尋ねたことはありませんが、だいたい想像はつきます。予測の範囲内ではありますけど」

 なるほど、と柳はひとり心の中で呟いた。ルールの意味が漠然とでもわかっているのなら、その重要性も自然とわかるものだ。きっと、茜が守りたいと思うルールなのだろう。意味もわからないまま規則だから守る、というのは茜のイメージに合わない。

 猫村は詳しく聞きたそうな顔をしていたけれど、茜はそれに言及することなくスマホを見て、「よし」とその画面をこちらに見せた。手のひらの中で、数桁の数字がそれぞれ違う速さでさかさまにカウントされている。

「じゃあそろそろ本題にいきましょう。一二〇分はもう始まっています」

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