第1章 雑草の名を覚えていますか
第1話 雑草の名を覚えていますか (1)
高校から駅までを走るスクールバスは、春休み期間の今はほとんど人が乗っていない。人の体温が欠けたバスは、少しだけ広くなる分、寂しさもゆったりと横たわっている。車窓の向こう側では、街の汚れを洗い落としていくような穏やかな雨が降っていて、隣の座席にはひとりの女の子が座っていた。
「桜、もう散っちゃうかな」
いつの間にか窓の外に顔を向けていた柳が小さな声で言う。柳の声は女の子にしては少し低い。落ち着いていて、放られたぬいぐるみを抱き起こすときと同じ温かさをしている。彼女につられて外を見ると、世界の善意をかき集めて具現化したような桜の花びらは、雨に打たれて頼りなく萎んでいた。でも花を叩き落とすには、雨はやや柔らかい降り方だ。
「どうだろう、もしかしたら、雨の方も手加減してるかもね」
「手加減?」
「花が落ちないように、ただ花びらを洗ってるだけかもしれない」
まだきっと、誰も写真を撮っていない。桜だって人に見せるために咲いているわけではないだろうけれど、桜のない入学式は少し、寂しい。
柳は声を立てずに笑った。彼女はいつも静かに笑う。スケッチブックに、淡い水彩絵の具が落ちてじんわり広がるような、そういう種類の笑みだ。
バスが揺れる。
「もうすぐ学校が始まるね」
「そうだね」
その声は嬉しそうにも、不安そうにも聞こえる。でもそれを尋ねる前にバスは停まってドアが開いた。閉じられていた空間はひらかれて、僕は諦めて席を立つ。
ステップを降り歩き始めたところで、ポケットのスマホがメールの受信を知らせた。
「
立ち止まった僕に、数歩先を行って振り返った柳が、袖を引くように僕の名を口にする。
そのメールは、僕個人のアドレスではなく、数人の同級生と共有しているアドレスに届いていた。部活で使っているものだ。送信者のアドレスに見覚えはない。高校で生徒それぞれに割り当てられているものではなく、個人的なアドレスで送られてきている。状況を理解したのか、彼女もスマホを取り出し、恐らくメールボックスをひらく。
「依頼が来たよ」
早いね、と柳が呟き、僕は頷いた首の角度のまま文面に目を走らせる。確かに、早い。まだ、始業式も迎えていない。それでもまあ、僕たちのやることはいつでも同じだ。
「じゃあ、また明日」
彼女が、ぱっきりと輪郭のある声で言う。雨でぼやけた空気のなかでも、柳の声はまっすぐ届く。
「うん。また明日」
その言い方が、単なる挨拶ではなく約束みたいで、その実体のない何かを握り合っている感覚が僕は好きだ。
***
「幽霊を探しているんです」
と血の巡りを止めるかのように抑えた声でひとりの少女が口にした。窓の外に満ちる暖かな陽気と同じものがこの部室には閉じ込められているはずだけれど、少女の唇はわずかに震え、華奢な肩は寒さに耐えるときと同じように上がったまま固まっている。それが移ったのか、柳も身体をこわばらせて手を膝の上で握っていた。
狭い部室に、長机がひとつと椅子が四脚。僕と柳が隣り合って座り、向かい側に少女が座っている。互いに手を伸ばしあえばやっと繋げるくらいの距離があるけれど、彼女の緊張はこちらの身体の芯まで届くようだった。
「幽霊、ですか」
彼女は瞬きをしながら小さく頷く。腹の前で組んだ手を強く握ったのが上下する肩から伝わる。僕はため息に聞こえないように注意して息を吐き出した。この何かに怯えたような女の子が、およそ一週間前に僕たちへメールを送ってきた張本人だった。名前は
彼女からは、ただ「探してほしい人がいる」とだけ告げられていた。
「それが、あなたの『魔女に隠されたもの』ということですか?」
何度口にしても現実味のない台詞だ。果たしてこの言葉が、相手にとってどれほどリアルな響きを持っているのか見当もつかない。今まで何度もこの表現を使ってきたけれど、未だしっくりこなくてむずがゆい。少女の瞳は僕のそれをひと呼吸ぶんほどの間みつめ、肺を潰すように空気と言葉を吐き出す。
「隠されたものという言い方には抵抗があります、幽霊はモノではありません」
「それは申し訳ありません、配慮が足りませんでした」
猫村さんは僕の謝罪に対して反射のように身を縮め、すみませんと目を伏せた。居心地が悪そうにネクタイの結び目を指先で触る。ノットが大きくて、少しバランスが悪い。ネクタイを結ぶのに慣れていないのだろう。
「論点は、そこではありませんよね。確かに、幽霊は私の隠されたものです。いなくなった幽霊を探していただきたいんです」
柳が隣でゆうれい、と唇だけで呟く。戸惑っているのだろう、幽霊を探す依頼が来たのは初めてだ。
「できますか?」
猫村さんは、本当にネコのような警戒心を孕ませた固い表情で僕たちに問うた。
僕はできるだけ控えめに、安心させるために微笑む。毎回、依頼を受けるときは笑みを浮かべるのさえ怖い。笑顔だって暴力になることがある。
「必ず見つけられるという約束はできません。ですが、協力することならできると思います」
ふ、と柳が息を吐いた。それがどんな感情なのかはわからなかったが、ため息には聞こえなかったことに少し安心する。とはいえ、これが簡単な探し物とも思えない。消えた幽霊を、どう探せばよいのだろう?
「探すために、いくつか質問をさせてください」
口角を意識してあげたまま話を進める。どちらかというと、質問をするのは苦手だ。人の中身を覗き込むようなこともしたくないし、知ることの不可逆性にも抵抗がある。でも、そういってもいられない。聞き上手な部員は、サボっているのか到着が遅れている。
「幽霊というのは、あなたの知り合いですか?」
「友達です。仲は良かったと思います、私たちはずっと一緒にいました」
「髪型や服装、顔立ちや背格好などの特徴を言葉にできますか?」
「……難しいです、女の子だったのは確かで、スカートを履いていました。身長や体型は私と同じくらいでした」
スカートを履いた、女の子の幽霊。いくつかイメージが思い浮かぶけれど、怪談や都市伝説に影響を受けすぎていてどれもしっくりこなかった。猫村さんと同じような姿なら、年齢も中高生くらいなのだろうか。視界の端で、柳が鍵つきのノートの一ページにペンを走らせるのが見える。依頼を受けたときに内容をメモするためのノートだ。
「彼女の名前は?」
「私は
松葉さん。和風で上品な名前だ。素敵な名前ですね、と言う僕に、猫村さんは微笑もうとして失敗した、というように表情をこわばらせた。
「彼女がいなくなったのはいつですか?」
「十日前くらい……入学する少し前です。いつものように部屋で雑談をしていたら、急に『高校で待ってるね』と彼女が言ったんです」
猫村さんは、自分の時間をたいてい自室で過ごす。きょうだいがいないため、こぢんまりとした部屋で課題を片付けたり読書にふけったりする。ずっと前から同じ生活だ。そしてひとりきりの部屋が広く、寒く感じるようになるころ、ふと顔を上げると幽霊の女の子が部屋に座っていて、「やっほう」と言って笑う。それからふたりは他愛のない話で盛り上がる。学校で掃除をしない男子のこと、パートリーダーの指示を全く聞かない女子のグループのこと、なかなか上がらない成績のこと。そんなことを話して、猫村さんはベッドに入り彼女とおやすみを言い合う。そして朝が来る。
日中も、ふと自分を取り巻く世界に風穴があいたような肌寒さを感じる瞬間があって、そういうときには必ず彼女がいる。そして「やっほう」と言って笑う。そんな毎日だった。出会った日なんて思い出せないほど、それが当たり前だった。
でもその日は違った。
その日、猫村さんは彼女が現れるのを待っていた。もうすぐ始まる高校生活への希望を彼女に話したくて、真新しい制服の掛かった部屋で彼女を待っていた。しかし「やっほう」の声は聞こえない。不安になり始めたころ、彼女はやっと現れた。そして言った。「高校で待ってるね」と。
高校で待っていると一方的に告げたあと、その女の子の幽霊は猫村さんの前から姿を消した。それからは一度も現れておらず、高校に入学してからもふたりは一度も再会していない。
猫村さんが言うには、彼女がそこまで長い間姿を見せなかったことはないらしい。
「今まで、あの子は私が会いたいと思うといつも私のところに現れてくれてたんです」
「常に見えるわけではないんですか?」
柳がノートから顔を上げ、意外そうな口ぶりで尋ねる。確かに、一般的な幽霊とは少し印象が異なる。常にうっすらとした姿でこの世に留まり浮かんでいるのが典型的なイメージだ。会いたいときに現れる、というのも意外な感じがする。
「えっと」
猫村さんは言い淀んだ。前歯で下唇をかみ、こちらを見ていた視線が泳ぐ。腹の前で組んでいた手を組みなおして身体をよじった。
「普段は見えないんです。でも、意識すると見えるし、言葉も交わせるんです。おかしいですか?」
「いえ、何もおかしいことはありませんよ。すみません、僕らには知識がないんです」
息を深く吐き出す代わりに、僕はゆっくりと瞬きをした。イメージと違ったところで僕は幽霊を見たことがないから、とりあえずそれで納得するしかない。フィクションの力で定着した幽霊の姿が正しいわけでもないだろう。
「彼女がいそうな場所に、心当たりはありますか?」
「ありません」
「彼女の好きなものや好きな場所は知っていますか? それか、生前の記憶などで思い入れのあるものとか」
「……いえ……わかりません」
猫村さんが、呆然とした表情で首を振った。ついその表情のわけに想像を巡らせかけて、やめた。どんな憶測をしようとそれがよい結論に至るとも思えなかったし、一方的にこちらの想像を重ねるのも当然、よくない。初対面ならなおさらだ。
僕はありがとうございます、と微笑んだ。とりあえず、幽霊についての情報はこの程度でよいだろう。他にも知っておきたいことはある、例えば猫村さんとの関係性や、猫村さん自身のことについてなんかは。でも、それは後からでもいい。
「最後に一つだけ、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「実際に彼女がいたとしても、僕たちには彼女を認識できないかもしれません。一緒に探していただくことは可能ですか?」
猫村さんが、組んでいた手をほどく。ふっと肩の力が抜けて、彼女は初めて笑みを浮かべた。深い穴からふとあふれてきた湧き水のような、予期せぬ透明な笑みだった。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
なんだかオープニングというよりもエンディングにふさわしいような声音で、猫村さんは頭を下げた。
明日の放課後に再び会う約束をして猫村さんが部室を後にした数分後、ひとりの男子生徒が鼻歌を歌いながらがらりと扉を開けた。ちょうど教室の中心辺りで三人分の視線が交わり、柳が「
「今日は事情聴取の日だった?」
「ただの相談だよ、メールを見なかった?」
人聞きの悪い言い方をしないでほしい。どうしても詳しく聞こうとすると尋問のようになってしまうのは僕のひそかな悩みだ。
「そういえば見たけど忘れてた、ごめん」
彼がどさりと鞄を机に置き、さっきまで猫村さんが座っていた椅子に腰かけた。彼は何故かジャージを着ていて、そのジャージの胸元には
「なんで人のジャージ着てるの?」
「掃除してたら水を被ったんだよ。頼まれて調子乗って、水満タンのバケツを二個持ちしたのは流石にまずかったね」
意中の人でもいたの? と尋ねると彼はおどけたように肩をすくめた。
「自分のジャージは?」
「昨日友達に貸して、まだ戻ってきてない。わざわざ洗濯してくれてんだ」
相変わらずツイてない男だな、と思わず伸びをした。基本的に運というか、タイミングが悪いのだ。でも彼の表情はいつも明るい。
「で、今回の依頼内容は? 名前なんだっけ、あっ猫村さんだ、当たり?」
当たり当たり、と適当に答えると彼のまるい目が半月に似た形になる。そしてやったね、と言いながら鞄から小さな個包装のチョコレートを出してこちらに投げた。「なに?」と聞くと「おやつ、やるよ」とまた笑う。
「ありがとう」
安っぽい光を反射して光るそれをポケットにしまいながら彼と目を合わせた。僕は彼の瞳が好きだ。子どもが雑草の先に小さく綻んだ花を慈しむような、朗らかでフラットな光に満ちている。確かに彼の元にはほんの小さなトラブルが舞い込んできやすいけれど、それらは大抵、彼の親しみやすさと優しさ所以のものだ。
「今回の依頼は幽霊探しだよ、君に霊感はある?」
「無いな、よく憑いてるとは言われるんだけど」
「そう、じゃあ僕にも無いな」
本瀬と過ごしていて、幽霊と目が合った記憶はない。
「うーん、じゃあ結局見えるかどうかが問題な気が」
「……随分、あっさりしてるんだね」
雨漏りのひとしずく目のような、瞬きひとつ分の驚きを含んだ声音で柳がそう零した。本瀬がきょとんと柳を見つめる。彼女はノートをひらいたまま、疑念と尊敬が混じった複雑な視線を本瀬に向けていた。
「あっさり?」
「探すのは、人じゃなくて幽霊なんだよ」
そんなに簡単に見つけられるかな、と語尾がだんだん尻すぼみになっていく。柳は不安なのかもしれない、と僕は思った。彼女がこの部活に入部したのは僕や本瀬より随分と後で、まだ居場所と言えるほどこの部室に慣れてもいなければ僕らとは感覚も当たり前に違う。それを差し引いたとしても、当然のことだ。今まで触れることのなかった概念が突然近くに来て、そしてそれは後輩が大切にしている存在で。彼女の、声まで低く抑えるような慎重さはそのまま、猫村さんへの誠実さだ。
本瀬はうーんと唸りながらサリ、と長めの髪に手を差し込んだ。そのまま手櫛のように手を滑らせる動作は、頭の中から適切な言葉をさぐって、引き寄せているようにも見える。
「うん、確かに現実の人探しと幽霊探しは違うかもしれないけど」
そこまで言って、彼は首を振る。
「でもやっぱり俺からみたらそんなに変わらないよ。俺達日本人と外国人って『人種が違う』って言ったりすんじゃん。あっそれが良いとか悪いとかじゃなくてね、生物学的に。それみたいに、俺達人間と幽霊も魂の種類が違うってだけな気がする。『
これ伝わる? と本瀬がへらっとした幼い笑みを浮かべる。それに表情の硬さが吸い込まれるようにして、柳が呆気にとられたような表情になる。
彼の発言があまりにも本瀬らしくて、思わず笑った。
本瀬が幽霊にたじろくような男なら、まず彼がこの部室にいるはずがない。
僕たちが所属しているのは、生徒が『魔女に隠されたもの』を探す部活なのだ。
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