第52話 国民証付与の儀式
ふっと目が覚めて、視界の右下隅にある時刻表示を見た。
8時か。
アラームはかけていなかったが、前の晩に一人飲み会をした割には早く目覚めたようだ。
仰向けになり、バーチャルなウィンドウを操作しステータス画面を開く。
二日酔いの文字はない。
うん、良かった。クランツに叱られずに済む。
昨日までと変わらず所持金以外の数値は表示されていないが、最初は表示されてなかった所持金の数値がアイテムを購入した途端に表示されるようになったということが実際にあったため、念のため毎朝チェックを続けている。
ステータスが見れなくても日常生活で困ることなどないけれど、イスフェルトからの逃亡時に苦労したことを思えばやはりHPやMPの最大量は知っておきたい。
魔術や魔法を有効に使うには魔力の残量を正確に把握していることが必須だ。
そうでなければどの魔術や魔法を使うのがベストか判断できないと、先日の実験施設での実技で身に沁みたばかりだし。
ステータス画面に変化がないことを確認するとわたしはウィンドウを閉じ、ベッドの上でのんびりストレッチをしてから起き上がった。
今日は朝練も講義もお茶の稽古も休み。
久しぶりに完全な休日だ。
顔を洗い、寝間着からシネーラに着替えたところでファンヌに起床を知らせる伝言を飛ばす。
ささっとメイクを済ませ、寝室と居室をざっと整え終わる頃には朝食をカートに載せたファンヌがやって来た。
「おはよう、スミレ。晩酌と朝寝坊は堪能できたかしら」
「おはよう、ファンヌ。めちゃくちゃ堪能したよ~。ありがとう」
「夕食後のお茶のお稽古も休みでいいのよね?」
「うん。せっかくクランツが気を遣ってくれたんだし、今日は大人しく完全休養日にしようかと思って」
それがいいと言ってにこやかに給仕をするファンヌとおしゃべりをしながら朝食をとる。
このあとの予定が何もないと思うとすごく気が楽だ。
この二週間あまり、毎日慌ただしかったからなぁ。
もちろん今日一日を無為に過ごすつもりなんてないけれど、休養モードでゆったりしながら何をしようかな。
そんなことを考えつつ、のんびりした気分で食後のお茶をおいしくいただいていたら、風の精霊がスティーグの伝言を運んできた。
《おはよう、スミレさん。今日の午後の予定はどうなっていますか?》
「おはようございます。今日はお休みをいただいたので一日空いてますよ」
《それでは午後にお邪魔します。国民証を付与しますので楽しみにしていてくださいねぇ》
《はいッ! お待ちしています!!》
いつもアポなしでふらりと訪れるスティーグ――なのに何故か毎回わたしの手が空いているタイミングで現れる――が予定を聞いてくるなんて珍しいなと思ったら公務だった!
しかもガチなヤツ!!
待ちに待った国民証がついにもらえるらしい。
嬉しさのあまり、わたしは思わず両手を挙げてやった~ッ!と叫んでしまった。
「まあ! おめでとう、スミレ。いよいよ正式に魔族国の一員になるのね。わたしも嬉しいわ!」
「ありがとう、ファンヌ! 本当に嬉しいよ。ようやく皆と本物の仲間になれるんだね……」
「……馬鹿ね。もうとっくにでしょ?」
ファンヌに指先で頬をプニッとつつかれつつ、軽く睨まれた。
うはっファンヌさんそれ殺傷力高いです萌え死ぬううぅ。
ああ。でも、本当に嬉しい。
「ねえ、国民証付与の儀式にはわたしも立ち会っていいかしら。スミレの門出だもの、ぜひとも一緒に祝いたいわ」
「儀式? えっ、何か特別なことでもするの?」
国民証という名称から、マイナンバーカードや免許証やパスポートを発行する時のようにただ受け取るだけでいいと勝手に思っていたけれど、儀式なら何か特別な作法があったりしないだろうか。
心配になって尋ねたら、ファンヌが国民証付与の儀式について説明してくれた。
国民証の付与は魔族が生まれた時に行われる儀式で、とてもおめでたいものらしい。
大抵は生まれて一日経ち、母子ともに落ち着いたところで行われるそうだ。
魔族の出産が部族の里で行われるのはもちろん相互扶助の一環ではあるが、この儀式を安全かつ迅速に執り行うためでもあるらしい。
儀式の内容としては部族長の手により国民証の魔術具を左手首に装着されるというもので、普通は赤ん坊に対して行われるものだからわたしはされるがままで良いと聞きホッとする。
どうやら気楽に臨んでも大丈夫そうだ。
仕事の手が空いているなら親族や知人友人はこぞって参加するそうなので、ファンヌにはぜひ参加して欲しいと伝える。
クランツも誘おうと言ってファンヌがメッセージを飛ばしたら、参加を承諾する返事が届くのと同時にクランツが部屋へ現れ、おめでとうと祝ってくれた。
クランツにもスティーグから連絡がいったそうで、儀式の参加者について尋ねたところ魔王とカシュパルとスティーグの三人が来ると回答を得たそうだ。
残念ながらレイグラーフとブルーノは仕事があって来られないと聞いて、わたしはかなりしょんぼりしてしまった。
わたしが魔族国の一員として受け入れてもらえるのは間違いなくあの二人の指導あってのことだから、国民証を付与される姿をぜひとも見て欲しかったけれど仕事なら仕方がないか……。
二日間つきっきりで実験施設での実技に付き合ってもらっていたからいろんな用事が貯まっているだろうし、我儘を言うわけにはいかない。
儀式が終わったらメッセージを飛ばして、お礼かたがた報告しよう。
昼食を済ませ、食器類を下げに一旦退室したファンヌが戻ってきて一緒に待機していると、クランツが魔王らを先導して部屋へ入って来た。
魔王と側近の二人もお祝いの言葉をくれて、しばし歓談する。
皆がわたしの儀式を自分のことのように喜んでいてくれるのが本当に嬉しい。
国民証付与の儀式が始まり、わたしは魔王と向かい合う位置に立つように促された。
魔王がわたしの左手をすくい上げるようにして取る。
そして、スティーグが掲げ持つ蓋の開いた飾り箱から魔王が腕輪を取り出し、わたしの手の甲の上に乗せて
光の中に魔術陣が浮かんだと思ったらすっと輪が大きくなり、
自分でも散々魔術や魔法を使っておいて何だけど、目の前で起こった現象がファンタジーすぎて夢でも見ているのかと思ってしまう。
魔王がわたしの左手を持ち上げ、腕輪を確認するようにじっくりと見る。
何も問題なかったのかこくりと一つ頷き、わたしの目を見て「新しき魔族の子に精霊の加護を」と言ってわたしの前髪をかき上げると、目を閉じながら魔王の顔が近づいてきた。
――――えっ?
状況を頭が理解する前に額に柔らかい感触がして、それが魔王のキスだとわかった途端、ボンッと頭が爆発したかと思うほど顔が熱くなった。
な、ななな何で魔王がわたしのおでこにキスとか!?
うひゃあああッ!!!!
思わず周囲に目をやると皆目を見開いていて驚きを隠していないが、側近の二人はすぐに苦笑いになった。
ファンヌは顔を赤くして両手を口元に当てているし、クランツは赤い顔で目をそらしている。
どうやら魔王のこの行為は魔族的にも普通ではないらしい。
「これでお前は正式に魔族国の民となった。魔族国はお前を歓迎する。これからもよろしく頼むぞ、スミレ」
心臓がばくばくいっているわたしに魔王は微笑すると、いつものようにわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
わたしは「ありがとうございます」と言うのが精いっぱいで気の利いた言葉を返すことができなかったが、儀式が済むと多忙な魔王はカシュパルだけを伴い早々に退室していった。
スティーグはわたしに国民証の魔術具に関して説明するために残るらしい。
くっ、もっとちゃんとお礼や今後の抱負を伝えたかったのに、ダメダメすぎる。
アラサーのくせにでこちゅーくらいで動揺するとは情けないと凹んでいると、クランツがスティーグとファンヌに尋ねるのが聞こえた。
「魔人族の儀式ではあれが普通なんですか?」
「う~ん、確かにあれが普通ではあるんですが、そう答えるとこの場合は語弊がある気がしますねぇ」
「そうよ、スティーグ。ルードが誤解されてしまうわ。クランツもスミレも聞いてちょうだい」
魔人族の里では国民証付与の儀式の最後に部族長から赤ん坊の額に祝福の接吻が贈られるのが慣例となっているそうだ。
だから、魔王本人はいつもどおりに儀式を行っただけなのだろう。
通常の場合、国民証付与の儀式というのは生まれたての赤ん坊にするものだから何の問題もないのだが、まさか大人のわたしに対して同じようにするとはスティーグもファンヌも思わなかったらしい。
魔王ルードヴィグの代ではこれまで他国からの亡命者はいなかったそうで、魔人族の赤ん坊以外への国民証付与が初だから起きてしまったハプニングということのようだ。
「やれやれ。レイが不参加で良かったかもしれません」
「くっくっく。いやぁ、忘れられない思い出になりそうですねぇ。スミレさん、本当におめでとう」
「ルードに他意はないからスミレは気にしないでね。まったくもう、ルードは早い段階で次期魔王に選出されて育ったせいか、どこかズレているのよ」
困ったことだと頬に片手をあて小首をかしげていたファンヌが、何かを思い出したかのような顔でパチンと両手を叩いた。
「そういえばスミレ、あの二人に報告するんじゃなかったの?」
「そうだった!」
わたしはレイグラーフとブルーノに今しがた国民証付与の儀式を受け正式に魔族国の一員となったことと、これまでの指導に対する感謝の言葉をメッセージの魔術で送った。
仕事中だからメモにしたけれど、想いがちゃんと伝わるといいなぁと考えていたら、すぐに風の精霊が返事を持って帰ってきた。
『おめでとう、スミレ。あなたに精霊の加護があるよう心から祈っていますよ』
『良かったな。おめでとう。お前の新しい門出に精霊の加護があるように』
精霊の加護というのは先程でこちゅーの直前に魔王も口にしていた言葉だ。
おそらく魔族間で使われる慣用句なんだろう。
今まで言われなかったことを考えると、今日の儀式を経て初めてこういう言葉を向けられる存在になったんだなぁと実感する。
初めて贈られた魔族向けの言葉。
二人からのこのメモはずっと大事に取っておこう。
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