第31話 魔族社会の料理事情と調理実習
明日、明後日の二日間、レイグラーフの講義が休みとなったので、わたしはすかさずファンヌにメッセージを飛ばした。
厨房見学の時にそろそろ調理実習の予定を入れたいと言っていたからだ。
案の定、しばらくしてファンヌが調理実習の予定を知らせにやって来た。
「どちらの日もブイヨンを作る予定があるらしいから、実習するのにちょうどいいと思うわ。厨房を見学している時に、スミレはブイヨンを作ったことがないから習いたいと言っていたでしょう?」
ブイヨンとは洋風のだし汁のことで、煮込み料理やスープ、オーブン料理のローストにかけるソースなど幅広く使われるらしい。
元の世界の一人暮らしでも自炊していたのでだしの使い方は知っているけれど、市販のだしやスープの素しか使ったことがないんだよね……。
鰹節や昆布からだしを取ったのは家庭科の調理実習のみという体たらくで、一からスープストックの類を作った経験なんてない。
現代日本の便利な暮らしを享受してきた身には割とありがちなことだと思う。
幸いなことに、ファンヌの話によると城下町にはスープ屋という店があって、そこでブイヨンも買えるから自作必須というわけではないらしい。
それでも、念のため作り方だけは習っておこうと考えている。
「野菜のブイヨンは30分くらいでできるけれど、鶏と牛と魚のブイヨンは2、3時間かかるから、最初の処理とあく取りを途中までやって、その後は別の調理をしたらどうかという話よ」
「うん、わかった。ブイヨンは全種類参加させてもらうね。それ以外は料理によるけど、メニューはもう決まってるの?」
「明日のお昼がジャガイモのスープとキッシュというのは決まっているけれど、それ以降のメニューはまだ決まってないそうだから希望があれば頼めるわよ」
「わぁ、それならお肉系のローストと煮込み料理をお願いしたいなぁ。シチューも教わりたいし、あっそうだ、魚の捌き方も! 野菜を使う料理は何とかなると思うんだけど、丸ごとの肉や魚は扱ったことがなくて不安なんだよね……」
ルゥを使わずにシチューを作ったことなんてないし、ブイヨンをはじめとした調味料、それにハーブの使いどころも気になる。
それに、スーパーの精肉鮮魚コーナーのトレイに乗ったものしか使ったことがないわたしにとって、肉と魚の料理は不安が大きいのだ。
「肉も魚もお店で頼めばちゃんと処理してくれるわよ。それに一人分でしょう? 丸ごと使うなんてことないんじゃないかしら」
「んー、作り置きするものもあると思うから、ドンと買う時もあるかと思って。それに鶏は丸ごと調理できるようになっておいた方が良くない?」
「それはそうかもしれないけれど……。自炊する人の方が珍しいのだし、あまり気負わなくてもいいと思うわよ? 最初は外食したりお惣菜屋を便利に使ったりしたらいいじゃない」
魔族は部族の里で集団生活をする者が多く、食事は里内のあちこちにある食堂で賄われるため個人で作ることはあまりないらしい。
そのため、城下町でも職場に併設されている食堂で済ませたり、外食やテイクアウトを利用する者がほとんどだという。
自宅で調理をする理由の多くがパートナーと二人きりで過ごしたいというものであるためか、自炊すると言えばお熱いですなぁと生暖かい目で見られることもあるのだそうだ。
「えっ、じゃぁ自炊なんてしない方がいい? 誤解されたらどうしよう!?」
「大丈夫よ。スミレが城下町へ移る時はカシュパルが挨拶回りであちこち連れて歩くことになっているから、その時に近所の商店の人たちにはスミレが自炊することを説明すると思うわ」
ちなみにどういう説明をするのかとファンヌに尋ねたら、魔族の料理を知らないから覚えている最中だと話すのではないかとのことだった。
そう言えば悪く取る人なんてまずいないから安心するようにと言われて少しだけホッとしたが、それはすぐに別の衝撃に取って代わった。
「魔族社会では子供の頃から成人するまでの期間に部族の里の中で様々な仕事を体験するの。その中には当然食堂の仕事もあるから、魔族は性別を問わず誰でもひと通りは料理を作れるわ。未成年でもできることなら、人族とは言え大人のスミレができるようになっておきたいと考えるのは自然なことだもの。皆いろいろと教えてくれると思うわよ」
「……誰でも作れるの?」
「ええ、そうよ」
「魔王陛下やブルーノさんもブイヨン作れるの?」
「もちろん作れるわ」
「マジか……」
まさかの即答だった。
しかも、料理とはまったく縁がなさそうなブルーノですらブイヨンが作れるだなんて。
正直に言うと、覚えなければいけない料理も多いことだし、スープ屋でブイヨンが買えるなら作り方を覚えるだけで実際には作れなくてもいいかと少し思っていたのだが、とてもそんなことを言ってられなくなった。
作れないのと作らないのは大きく違う。
とりあえずは最低限の調理スキルを身につけないと、魔族社会では大人として胸を張れない気がする。
ブルーノや魔族のお子さんに負けたくないという気持ちが芽生えたわたしは、しかし、あらゆる職業を体験する未成年魔族は調理どころかほとんどの分野で最低限のスキルを身につけていると聞き、競う気力が霧散してしまった。
農業に工芸、土木作業に縫製に書類仕事と、本当に何でもひと通り体験するそうで、その上で本人の希望や適性を踏まえて成人後の仕事を決めるのだという。
大半の部族は成人するのが80歳から100歳くらいというから、それだけ長い準備期間があればいろいろ体験できて当然かもしれない。
すごい職業体験制度だと感心するし、うらやましいような気もするけれど、長い年月を生きる彼らにとって一生の仕事を選択し決定することの重みはわたしの想像を超えているだろう。
何だかスケールの大きさに圧倒されてしまって、自分がひどくポンコツに思えて来た。
いや、実際魔族の人たちは相当博学で実技も経験しているのだから、それと比べたらわたしには太刀打ちできる知識も技能もないのは事実だ。
あるのは聖女の力とネトゲ仕様だけか。
自分の実力とは全然関係ないな……。
そう考えたら、少し気力が萎えてしまった。
だけど、元の世界でだって取り立てて能力が高かったわけでもなかったし、それでも職場で一定の評価を得られていたのは地道にこつこつと努力を続けたからだと思う。
結局、平凡なわたしは愚直に努力するしかないんだ。
居場所が日本から異世界になったところでそれは変わらない。
ファンヌに二日間たっぷり調理実習をしたいと下働きの女性たちに伝えてくれるようお願いする。
快諾したファンヌが去った後、夕食まで少しだけ時間があったのでクランツに頼んで訓練に付き合ってもらった。
しょんぼりしたところでわたしの能力や状況が変わるわけでもないんだから、今やれることを着実にやっていこう。
二日間に渡って行われた調理実習はとても充実した内容で、スープにシチュー、ローストに煮込み料理と何種類もの基本的なメニューに挑戦することができた。
幸いなことに大抵のものが自分が元々持っていた調理の知識の範疇だったこともあって、概ね何とかなったと思う。
多少手付きは危なっかしかったかもしれないが、どのメニューも自力で完成まで持って行けたのでホッとした。
作っている最中の会話などで、別の食材にした場合のアレンジ例や注意点などを教えてもらえたのもありがたい。
下働きの女性たちはこの実習のためにいろいろと考えてくれたようで、パンやピザ、それに簡単なケーキまで焼かせてもらえたのは嬉しかった。
ピザは生地から作らせてくれたし、パン屋でタネを買ってくれば自宅でも簡単にパンを焼けるからと、あらかじめ作ってあったタネを使ってパンも焼かせてくれたので、本当に最低限のものはひと通り作れるようになったと思う。
もし忘れたとしても動画を観れば確認できるし、調理実習をやらせてもらって本当に良かったなぁ。
わたしは下働きの女性たちに心からのお礼を伝え、二日間の調理実習を終えた。
自分で作った料理を夕食のメニューとして食べている時に、見学だけならいつでも予定を入れられるがどうしたいかとファンヌに尋ねられる。
「見ているだけでも材料や手順を覚えられるし、スミレは自炊にこだわりがあるようだから、もっと料理を覚えたいのなら頼んでみるわよ」
「ありがとう。でも基本的な魔族料理は押さえられたし、とりあえず調理はこのくらいで良しとしておくよ」
「あら、それはよかったわ。外食やテイクアウトはあまり気が進まないのかと思っていたの」
「ん……最初はそうだったけど、ファンヌの言うとおり便利に使っていくのもアリだなと思って」
実は、今回実際に調理に参加してみてわかったことがある。
どの料理も完成する時に一瞬光ってから既存のグラフィックに置き換わるのだ。
名前は違っても見た目は同じという料理アイテムが多いのはネトゲではよくあることなので、料理名と味が違っても見た目は同じという料理があっても今まではあまり気にしていなかった。
だけど、あんなに手間暇をかけて作った料理が他と同じ見た目に置き換わってしまうという現象はわたしのモチベーションをかなり下げた。
わたしの母は「見た目もご馳走」と言って盛り付けや彩りに気を配る人だったから、その影響下で育ったわたしにこのネトゲ仕様は結構つらいものがある。
最低限のものは作れると確認できたし、外食やテイクアウトで食事を済ませられるなら、今は調理以外のことを優先させたい。
ブルーノの護身術をしっかり身につけないといけないし、レイグラーフから借りている本も読まないといけないし、雑貨屋開業用のデータ作成や価格調査をまとめる作業もある。
まずは離宮にいる間にしなければいけないことからやらないと。
「料理の腕を磨くのは新生活に馴染んで余裕が出てからにするよ。その時はファンヌに教えてもらえたら嬉しいんだけど、頼めるかな」
「まぁッ!! ……そうね、それがいいわ。スミレはスケジュールを詰め込みすぎだもの、もう少しゆとりを持った方がいいと思っていたのよ。教えるのはもちろんかまわないわ、元々スミレの家には泊りがけで遊びに行くつもりだしその時に一緒に調理しましょ、わたしはどちらかと言うとお菓子作りの方が得意だけれどスミレが覚えたい料理があるなら何だって教えてあげるわッ!!」
「わぁ、心強いよー。ありがとうファンヌ!」
ファンヌの得意料理のレパートリーを聞きながら、二人で一緒に作った料理を囲む様子を想像する。
ふふふ、異世界で女子会か。
あ~、楽しみだなぁ。
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