第30話 朝練の変更と厨房見学

 朝の離宮の庭は瑞々しい空気に満ちている。

 時々かすかな鳥のさえずりが聞こえてきて、空を見上げれば今日もいい天気になりそうで気分がいい。


 今朝もわたしのジョギングに付き合うためにクランツがやって来た。

 朝早くからこうして律義に付き合ってくれる彼に、わたしは昨日から考えていたお願いごとを伝える。

 わたしが頼んで始めたジョギングだけれど、この時間を護身術の訓練に充ててもらいたいのだ。

 昨日教わった護身術を早く身につけたいわたしは、少しでも空き時間があれば練習していこうと考えている。

 一人でできるものは自主練すればいいが、相手がいないと練習できないものはクランツに付き合ってもらうしかないし、とっさの時でもちゃんと身体が動くようにするにはひたすら反復練習をするしかない。


 クランツはわたしのお願いを快諾した上で、いい心掛けだと褒めてくれた。

 クランツが褒めてくれるなんて珍しいなぁ。

 気を良くしたわたしは昨日の件であれからまた思いついたことを質問しようと思い立ち、護身時の反撃として男性の急所である股間を蹴るのはダメだろうかと尋ねたら、ものすごい勢いでたしなめられてしまった。



「最悪です! 獣人族と竜人族相手なら確実に愛撫と受け取られますよ!? 自らの意思でそこに触れてきたんだから自分を求めているはずだと、激痛に苛まれようが構わずに迫って来るに違いありません」



 獣人族と竜人族にとっては股間キックも愛撫になるのか……。

 異文化の谷の深さとその隔たりに、わたしは思わず遠い目をしてしまう。



「ブルーノ将軍が魔族男性に不用意に触れるなと言っていたでしょう? 護身だろうが反撃だろうが、とにかく自分から相手に触れないこと。それを大前提と考えるように、いいですね!?」



 クランツにガミガミと叱られながら、根本的にボディタッチはすべてNGなんだとわたしは胸に刻んだ。

 それにしてはブルーノや魔王はわたしにデコピンしたり頭を撫でたりと結構触れている気もするが、あれはきっと子供扱いの延長なんだろう。

 すんなりとそう考えてしまう程度に合法ロリ扱いに慣れて来た自分が怖い。

 アラサー女子としての自覚がどんどん薄れていっている気がして、非常に居たたまれない。


 それはともかく、こんな爽やかな早朝に何てことを聞いてしまったのかと非常に申し訳ない気持ちになった。

 わたしが丁重に詫びると、クランツは今の質問と昨日の質問のことは他言無用だと念を押した上で、疑問をそのまま放置するよりはいい、これからもわからないことがあればすぐ聞くようにと言ってくれた。


 確かに城下町へ移った後に大失敗をやらかすより、わたしの機密を共有している身内相手に恥を晒す方が遥かにマシだと思う。

 ここでは遠慮は美徳ではないのだから、お言葉に甘えさせてもらおう。

 きっととても多くの気苦労を掛けてしまっているだろうに、そう言ってくれるクランツにわたしは心からの感謝を伝えた。



 気持ちを切り替えて練習を開始し、基本用護身術の動きをクランツとゆっくりと一つずつ確認していく。

 腕を掴まれた時の動きの練習は、全方位から双方の腕を掴まれることを想定しなければならないのでパターンが多い。

 それを瞬時に判断して体が即座に動くようになるにはどれくらいの時間がかかるんだろう。


 そう考えると途方に暮れそうになるが、ブルーノの説明は理論的だったから頭できちんと考えれば正解はわかるので、まずはそれを頭に叩き込むことにした。

 それが頭に入ると、前後左右のパターン、左右の腕のパターンもスッと呑み込めて徐々に判断が速くなってくる。

 それに伴って、体の動きも何だかある種のダンスのように感じ始めた。

 ダンスの振り付けやステップだと思えば、妙な肩の力も抜けて動きやすくなったような気がする。


 動きが良くなってきたとクランツに言われ、少し自信がついた。

 このまま頑張って毎日続けていけばきっとものにできる。

 続いて背後から抱きつかれた時の動きも確認し、朝食の時間まで練習した。

 こちらはまだまだぎこちない。

 朝食の最中も食べながらイメージトレーニングをしてみたが、あまり効果を感じなかったのでやめた。

 消化に悪そうだしね。




 朝食中の会話でわたしが洗浄の魔術を習ったと知ったファンヌに、誰かに振る舞われて飲食をした後に食器を洗うマナーがあると教わった。

 料理や飲み物がおいしかった、ごちそうさまという意思表示になるそうで、不満がある場合は洗わない。

 食べ切れずに残した場合は洗わなくてもいい。

 これまで一度も食器を洗ったことがなかったわたしは血の気が引いたが、ファンヌが洗浄して厨房へ戻してくれていたと聞いて心底ホッとした。

 城でお茶や食事をした際はスティーグが対応していてくれたらしい。



「料理を作った人や振る舞ってくれた人に失礼をせずに済んでよかったよ~。ありがとう、ファンヌ」


「どういたしまして。スミレはいつもおいしそうに食べていたから、洗っておいても問題ないだろうと思って」



 ファンヌにそう言われて、わたしは深く頷いた。

 元の世界とは比べものにならないくらい単調なメニューではあるものの、基本的に好き嫌いはしない派なので何でもおいしくいただいている。

 ネトゲの世界だと考えればメニュー数に限りがあって当然だろうし、不満がある分はいずれ自炊で対応していけばいい。

 ただ、ご飯が一度も食卓に登場していないので、もしかしたらこの世界に米はないのかもしれない。

 わたしはご飯派なので、それがかなり気がかりだ。


 食事を終えると、ごちそうさまの気持ちを込めて食器を魔術で洗浄する。

 何だか魔族社会の一員になったような気がして、とても嬉しい気持ちになった。




 朝食が終わると、今日は下働きの女性たちが昼食の支度をするのを見学しつつ、調理関連の魔術具の使い方を教えてもらえるそうで、ファンヌに案内されて離宮の厨房へと移動する。

 少し距離をおいて護衛しているクランツの姿を見て昨日のブルーノの講義を思い出し、移動中に『生体感知』をして周囲の状況を確認しながら歩いてみた。

 これも練習になるだろうから、普段からやっていくことにしよう。


 離宮の厨房は広く、大きな鍋や広い調理台が目に入って来た。離宮でパーティーを開くこともあるのだろう。

 ヨーロッパの古い農家にありそうな薪ストーブから煙突を取り除いたようなオーブンがあり、上に鍋を置いて煮炊きができるようになっている。

 オーグレーン荘のキッチンにも同じようなオーブンがあったが、設備が古いわけではなくこれが標準仕様のようだ。


 これまで出されて来た食事から推測していたとおり魔族社会の料理はオーブン料理や煮込み料理が主流のようで、目に入る調理器具は寸胴鍋かダッチオーブンのような鍋で、オーブンで使うプレートが深さ違いで何種類かあった。

 フライパンのような調理器具は見当たらない。

 目玉焼きはダッチオーブンの蓋をひっくり返して使っているんだろうか。



 下働きの女性たちが昼食の仕込みをしているのを見ながら、ファンヌがあれこれと指を差してはその名称を教えてくれる。

 幸いなことに調理器具も食材も元の世界と同じ名称だったので混乱しなくて済みそうだ。

 ネトゲ仕様の設定担当者は通貨と女性用衣装のネーミングにネタを仕込んだところで力尽きたんだな、きっと。

 奇天烈な食材もなさそうでホッとする。


 調味料はそこそこ豊富なようで塩、砂糖、酢に蜂蜜や香辛料、ハーブ類もある。

 醤油やソースはないが、意外なことにマヨネーズはあった。

 気になっていた穀物は麦オンリーで、粉状に挽いてパンかピザにして食す。

 あとはシンプルなケーキなどの焼き菓子くらいで、そう言えばパスタなどの麺類を食卓で見掛けていない。

 そして、やはり米はなさそうで、地味にショックを受ける。

 うう、今後はご飯なしの生活を送らなければならないのか……。

 アイテム購入機能の食料品の欄に『実績未解除』が結構あるから、その中にご飯もののアイテムがあることを切に祈る。


 野菜はサラダかスープ、もしくはローストか蒸し料理で、茹でると言う調理法はなさそうに見える。

 さり気なく聞いてみたら、どうやら茹でるのは水を無駄にする行為と捉えられているようだった。

 このあたりは精霊の存在が身近な異世界らしい感覚だろうか。

 麺類がないなら特に茹でたいものも思い浮かばないし、自炊するなら野菜は茹でずに蒸すことにしよう。


 オーブンなどの魔術具の使い方も一つずつ教えてもらったが、特に使い方が難しいということはない。

 基本的に魔術具というのは魔力を流して起動すれば組み込まれた魔術陣に従って作業をしてくれるため、セットしてピッとスタートボタンを押す家電と同じような感覚だ。


 生活用の魔術具も見慣れて来たので教えてもらい始めた頃のような新鮮さは減りつつあるが、ごみ処理の魔術具にはちょっと感動した。

 ごみの処理は専用の魔術具の中に入れて起動すればいつの間にかなくなる。

 それが何と生ごみや紙くずだけでなく、ガラスや金属製のものでも処理できるというから驚きだ。

 きっと、土の精霊だけじゃなく4つのエレメンタル全部が協力し合って分解するんだろうなぁ……。

 マジですごい。



 講義の時にそんな話をしたらレイグラーフはにこにこしながら聞いていた。

 そして、ごみはなくなったのではなく適切な状態まで分解されると魔法陣で自動転送して回収され、再利用されたり肥料になったりしていると教えてくれた。

 これも魔素や精霊を大切にする精神の表れなんだろう。


 厨房見学の話をした流れで、着火の魔術や照明の魔術などの生活で用いる基本的な魔術をいろいろと教えてもらう。

 いつものように精霊を呼び出そうとしたら、レイグラーフに生活魔術程度には必要ないと止められた。

 メッセージの魔術以外では威力や精度が必要な魔術の時だけ呼び出せばいいそうで、しかも呪文の詠唱とは違って精霊は声に出さなくても心の中で呼び掛ければ呼び出せるらしい。


 呪文を詠唱して魔術を使うことにも随分と慣れてきて、ネトゲ仕様で起動していた時よりも魔術を使っているという実感が伴ってきた気がする。

 ネトゲ仕様で起動すればどの魔術も簡単に使えるけれど、魔族社会に適応するためにも実際に呪文を詠唱して魔術を使ってみるのは大事なことだなと思った。



「これだけ覚えれば魔族社会で不便なく暮らせますよ」


「でも、まだ一人前とは言えないでしょう? あっ、そうだ。悲鳴を上げる練習で使うので、音漏れ防止の沈黙の魔術も教えてください!」



 それから、護身術の訓練で研究院の実験施設を使わせてもらうという話から、攻撃系や補助系の魔術も一度試してみたいので機会を設けて欲しいとお願いした。

 それに、いざという時のために回復の魔術を使えるようになりたいからこれも練習しておきたい。

 魔法や魔術に関しては勝手に一人で練習したりしない方がいいと思い、要望だけ伝えて、あとは保護者たちの判断に従うつもりだ。

 レイグラーフが調整すると言ってくれたので大人しく待っておこう。



 明日、明後日の講義がレイグラーフの都合でお休みとなった。

 一人暮らしと雑貨屋開業の許可をもらって以来、予定が何も入っていないのは久しぶりだ。


 さて。二日間、何をしようかな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る