第26話 護身に関する心構え
今日はいよいよブルーノ特製の護身術を学ぶとあって、わたしは朝から気合いが入っている。
魔法を組み込んだわたし専用の護身方法を魔族軍将軍のブルーノがわざわざ考案してくれたのだ。どんなものか非常に興味があるし、彼の厚意に報いるためにもわたしはそれをきっちりと身につけなくてはいけない。
ジョギングの最中もそわそわしているわたしに対して、無駄に力まずリラックスするようにとクランツは言うが、テンションが上がってどうにも落ち着かない。
ジョギング後にシャワーを浴びて、いつもはそこでシネーラに着替えるのだけれど、今日は体を動かしやすい服装の方がいいだろうと再びバルボラとヴィヴィを身につけ、朝食を済ませる。
そんな風に張り切ってブルーノを迎えたのだが、クランツと共に部屋へ入って来たブルーノはわたしを見ると苦笑いしながらシネーラに着替えて来いと言った。
「体を動かすから動きやすい服装でって考えも間違っちゃいないが、今日やるのは護身術だからなぁ。こういうことは常に最悪の状態を想定してやる方が後のためになる。だから動きにくかろうが普段の服装でやった方がいい」
「なるほど、それは確かに……って、えぇっ!? わたしが離宮で支給されているのは最上級シネーラなんですよ? もしも訓練中に破れたりしたら……」
しまった、こんなことになるなら先日発注した既製品の街着用シネーラの納品先を城下町の物件にしないで、その場で購入しておけばよかった……!
がっくりと項垂れたわたしの頬をびよーんと摘まんで顔を上げさせたブルーノが呆れたような表情でわたしを見る。
「あのなぁ、服が破れるような無茶な訓練を俺がお前にさせると思うか? 第一、そんな状況に陥らないための護身術だろうが。なぁ、クランツ?」
「はい。ジョギングの後はいつもシネーラに着替えていたので、まさかバルボラのままでいるとは思いませんでした。聞いてくれたら私も同じように答えたでしょうに」
だから無駄に力むなと言っただろうという顔でわたしを見るクランツに、初っ端から見事に空振りしたわたしはすごすごと着替えに向かった。
おかげでテンションも下がったし、ある意味落ち着きを取り戻せたとも言える。それを怪我の功名とするしかない。
わたしが着替えている最中に、ブルーノが魔法についてクランツに説明していたようだ。
前回ブルーノに見せた使用可能な魔法と魔術の一覧表をクランツにも見せるように言われたのでスクリーンで表示する。
やはり今回も魔法の呪文の文字は変換されておらず、クランツにも読めなかったようだ。
念のため魔術の方も見せてみろと言われたので魔術のシートを表示したら、こちらは普通に読めたらしい。
魔術の一覧を見た二人が表から削除したアナイアレーションについて何か聞いてくるかもしれないと思ったが、二人はシート内をざっと見ただけで何も言わなかった。
レイグラーフは魔王に報告すると言っていたから、わたしの機密事項を共有しているはずのこの二人に知らされないということはないと思うが、もしかして彼らも口止めされているのだろうか。
どちらにしろ、この件はわたしからは話題にしないとレイグラーフに約束したのだから、二人が何も言わないのならこのままスルーしておこう。
スライド表示を再び魔法のシートに戻させると、ブルーノは座学を開始した。
まずは護身に関する大前提として、付け込まれず近づかれすぎないよう注意することと、絡まれた場合は毅然とした態度で退け、相手が退かなければ周囲に助けを求め、それでも収まらないなら速やかに第三兵団へ通報し、念のため後見人である魔王か自分にも連絡するようにとブルーノは言った。
「お前の自宅周辺には第三兵団の分屯地がある。お前が聖女であることは当然伏せてあるが、魔王が庇護する人族の若い女がオーグレーン荘に住むことになったと既に通達済みだ。自宅周辺地域の巡回班には人柄と腕のいいヤツを揃えてあるから、何かあればすぐに連絡しろ」
第三兵団というのは魔族国内の治安維持と兵站管理を担当する部署だそうで、城下町の警察機能も担当しているそうだ。
警察組織へ気軽に連絡なんてできないと思ったけれど、「遠慮は美徳ではない」理論でいくと困った時はすぐに頼るべきなんだろうと思い直す。
ただ、わたしが城下町で一人暮らしすることになった影響が第三兵団という公的な機関にまで及んでいると知り、少し気が重くなった。
わたしが聖女であることを明かさないとは言え、実際にわたしに何かあったら責任問題に発展するかもしれない。
今更ながらに、わたしの我儘で迷惑を掛けてしまっていることを痛感し、思わず目を伏せる。
いつまでもお世話になっているわけにいかないと自活を思い立ったのに、却って迷惑をかけてしまっているなら本末転倒じゃないか。
そんなことを考えていたらブルーノにデコピンされた。ハッとして隣を見ると、クランツが呆れたような顔をしてこちらを見ている。
「どうせまた、自分は迷惑を掛けてるなどと考えていたんでしょう? まったく、すぐにそういう思考に陥るんですから」
「ううぅ、すみません……」
「考え方や価値観が違うってことは理解しているつもりだが……。あーあ、面倒くせぇが、ここは一つ説教しとくか。おい、スミレ」
両腕を組んだブルーノがテーブルに身を乗り出してわたしを見た。
説教と言われて思わず息を呑んだが、その割にブルーノの表情は優しい。
「迷惑かどうかを決めるのはお前じゃねぇ。勝手に判断すんな。お前はすぐに自分なんかのためにと考えるようだが、少しは弁えろ。お前ごときのおねだりの一つや二つ、叶えることなんざ容易いんだよ。魔族国なめんな。わかったか」
困らせるだろうから泣くまいと頑張ったけれど無理だった。
いい歳をして上司の前で泣くような社会人としてみっともない真似はしたくないのに、魔族の人たちは優しくて皆してわたしを甘やかすから、ガードが柔くなってしまったわたしの涙腺を容易く決壊させてしまう。
説教と言ったくせに中身は正反対で、余計に沁みた。
わたしの我儘も、存在も、許容されている。甘えてもいいんだ。
服選びの時にどのシネーラがいいと問われて全部欲しいと答えたら、スティーグに良く言えた、上出来だと褒められたけど、あれも同じことだったのかな。
鼻水が垂れてきたところでクランツに洗浄の魔術で顔を何とかしろと言われ、メイクを落とさず涙と鼻水だけすすげないかと考えながらウォッシュを唱えたら、鼻の中まですっきりさせることができて驚いた。
さすが乾燥までやってくれる呪文なだけある。
ブルーノは涙と鼻水だけを洗浄する器用なヤツは初めて見たと爆笑したが、話に聞いていたとおり本当に魔術を使うのがうまいと褒めてくれた。
釣られて笑いながらお礼を言うと、わたしは講義を中断してしまったことを詫びて続きをお願いした。
「それでは俺が考案したスミレ専用護身術について説明する。まずは概要を述べるので、質問等は後にしてくれ。尚、この護身術は城下町に留まらず、この世界のあらゆる地域、あらゆる状況へ対応することを前提としている。スミレが本式に魔族国の住人となるなら、今後どこへ出掛けることになるかわからんからな」
おおぉ、ブルーノが先生みたいだ。専門分野だからか、いつもよりキリっとしていてちょっとかっこいい。
わたしの隣では一緒に講義を受けているクランツが真剣な顔で聞いている。
レイグラーフの講義はいつも一人で受けていたから何だかとても新鮮だ。
それにしても、そんな本式の護身術を考えてくれるとは思わなかった。
ブルーノからしたら中途半端なものなら考案する意味はないのかもしれない。
ブルーノによると、護身術は基本用と非常用に分けられ、更にクランツが護衛中の場合も別途想定する必要があるという。
「素人判断で動かれるのがプロにとっちゃ一番やりづらい。だから基本用と非常用を基に、守りやすい方法をクランツが自分で組み立てろ。スミレはそれに従え。いいな?」
ブルーノに言われてハッとした。
離宮に来て以来クランツは護衛として常にわたしのそばにいてくれたが、トラブルが起きた際に守られる側としてどう行動すべきかを具体的に考えたことはなかったと、今更ながらに気付く。
昨日の動画観賞会で買い物の話が出た時、恋人同士に見られないようクランツにも同行してもらうとスティーグは言っていた。
わたしが城下町へ移った後も、クランツが護衛として同行する場面があると魔王たちが想定しているのなら、確かに彼の邪魔をしない護身方法を考える必要があるだろう。
わたしが足を引っ張ったら、場合によってはクランツに怪我をさせてしまうかもしれない。
そんなのは絶対に嫌だ。
わたしは二人と目を合わせ、しっかりと頷きながら返事をした。
「基本用と非常用はどちらもスミレ一人で対処する前提で考えている。二つの違いだが、基本用は魔法を使っていることがバレない、もしくは誤魔化せる範囲に収めることを念頭に置いている。
非常用はその逆だ。魔法、即ち魔術以外の術を使っていることが相手や周囲にバレる前提で魔法を行使する。特殊な術使いと認識されるだけで済めばいいが、聖女であることがバレる可能性もある。どちらにしろ、誰かに見られたらその後は城下町での一人暮らしは不可能になると思っておけ。離宮へ戻り一生そこで暮らす覚悟の上で実施する必要がある。
……ここまではいいか?」
わたしは思わずごくりと唾を呑んだ。
予想していた以上に想定されている規模が大きい。
それがこの世界における聖女という存在の重さなんだろうが、元の世界では社会の歯車の一つにすぎなかったわたしのような平凡な人間如きにそんな大袈裟な……と、どうしても思ってしまう。
それに、やはりブルーノはアナイアレーションのことを聞いているのだろう。強力な魔法の使用に関して大きく釘を刺して来たと感じた。
その術を行使する意味や影響の大きさに関する認識がまだわたしには足りていないと判断されている気がする。
ネトゲ仕様を使えば簡単に高位の魔法や魔術を使えてしまうわたしには、確かにこのくらいの釘刺しが必要だろうと自分でも思った。
魔法にしろ魔術にしろ、術を使う場合は慎重に行わなければ。
――そう心に刻んだつもりだったのに、わたしがこのことを真に理解するのはまだまだ先のこととなるのだった。
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