遠能温泉旅館事件

森 三治郎

遠能温泉旅館事件 1

遠能とうのう温泉旅館ヒノキ風呂



「朝風呂のお客さんが出て来ないから、見てくれないかな~」

事務兼雑用の勢津子せつこが、風呂担当の菊久池きくいけ欽也きんやに呼び出された。女子風呂清掃のパートも、手持ちぶたさでイライラしながら待機している。

男子風呂清掃担当は、すでに9時からの清掃作業が始まっていた。

もう、9時30分になろうとしている。

「あ~れ~」

勢津子が、バタバタと走ってきた。

『この女は、ダイエットした方がいい』男の目がそう言っていた。

「来て」と言うから、躊躇ちゅうちょしながらも、菊久池とパートの鈴木が勢津子に付いて行った。



 ヒノキ大風呂の先の露天ヒノキ風呂に、女が背中を見せて浮いていた。

「裸だあ~」

「何を当たり前のことを」

「死んでいるのか」

「こんな格好で、寝てるわけないでしょう」

「とにかく、ひっくり返してみよう」

頭と足を持って、くるりとひっくり返した。

「わお~」

「おお~」

「感想はいいから、こっちへ運んで」

勢津子は脱衣場にバスタオルを敷いて、運ぶように言った。

はらりと腰にバスタオルが掛けらると、男どもは少し残念そうな顔をした。



 知らせを受け、女将とマネージャーがとんで来た。

「救急車を」

「もう、死んでます」

「それでも、救急車を」

「待って下さい。救急車は、死んだ人間は運びません。代わりに警察が来ます」

「そんな~」

「今日の営業は出来ません。予約のお客さんも、お断りするしかありません」

「そんな~、ようやくコロナが過ぎて、ようやく予約が入って、これからという時にぃ」

パート鈴木の言葉に、マネージャー江藤は悲鳴をあげた。

「もう、廃業するしかないわね」

女将の言葉に、全員が絶句した。

「この~厄介者やっかいものが~」

マネージャーがつま先で、女の尻に2度、3度とりをいれた。

「江藤さん、お客さまに失礼ですよ」

「もうお客じゃないよ。ただの厄介なゴミだ」

「そんな言い方・・・・」

「それにしても、勿体もったいないな~。美人だし、ケツもいいし、オッパイもプリプリだし。出来たら払い下げて貰いたいな~」

「菊久池さん、何するつもり~。なま物だから、すぐ腐っちゃうよ~」

「止めなさい。不謹慎な」



「もしこの人が風呂の中じゃなく、どこかよその所で死んでいたら」

沈思黙考ちんしもっこうを続ける者たちに、鈴木の言葉が波紋を広げた。

我々は、被害者なのだ。加害者は、この女だ。この女が死んだ場所を変えるだけで、皆が救われる。殺人を犯すわけじゃない。加害者に、場所を移動してもらうだけだと・・・・。不思議と罪悪感がない。廃業は、皆が露頭ろとうに迷うことなのだ。座して、艱難かんなんを待つ必要などない。

「でっ、時間はチェックアウト後ということになるかな」

「そうね、裸ではまずいわね。服を着せなと」



 脱衣所に、女の荷物が持ち込まれた。

「勢津子さん、お願い」

「私~、やだ~、気味が悪い~」

「それじゃ、俺が」

「ダメッ、ダメに決まってんでしょ」

菊久池の提案は、即、却下された。

「勢津子さん、お願い。私も手伝うから。あなた達は、向こうを向いてなさい」

女将が、キビキビとタスキを掛けた。

「脱衣所に、下着があるでしょ。取って」

勢津子が振り向くと、菊久池がパンティを被ってブラジャーを胸に当てていた。

「こんな時に、パンティで遊ぶんじゃない」



 ああでもない、こうでもないと、女将と勢津子が格闘していた。

「出来た」

「う~ん、まあいいか」

「メガネを掛けて~、口紅を塗って~」

「さて・・・・」

女将、マネージャー、勢津子、菊久池、鈴木が額を寄せ合って、密談が始まった。

パートの男風呂清掃担当の田中は、この騒ぎをよそに清掃作業に精を出していた。



「あの~」

「何なの、うるさいわね~。こっちは、今、忙しいの」

「・・・・・あの~」

「何い~」

皆が、一斉に声の主を見た。

「きゃ~!」

「ひえ~!」

「あわ~!」

驚愕だ。死んだとばかり思っていたお客が、幽霊のようにゆらゆらと呆然自失の態で立っていたのだ。

勢津子と菊久池は腰を抜かし、鈴木は呆然と固まり、かろうして女将だけが逃げ出そうとするマネージャーの服をしっかりと捕まえていた。

「お客さま、大丈夫ですか」

「ええ、まあ・・・・」

「とにかく、掛けて」

「ええ、ありがとう。あの私、頭がぼ~としていて・・・・憶えてないのだけれど・・・・。お風呂に入っていたと思ったのだけど、その後が思い出せないの~」

「まあ、そうなの~。お風呂でのぼせたのかしら」



磯部さより



 チェックアウトでは、旅館の人総出でお見送りをしていただいた。

何か、大げさな感じ。

それにしても脱衣所で目覚めた時、女将さんはじめ皆さん凄く驚いていたけど。まるで、幽霊を見るみたいに。それにしても、なぜ風呂場の脱衣場なのかしら。

でも、自分でも鏡を見て卒倒しそうになったけど。

スカートはズレてるし、ブラもズレてるし、上着はボタンが掛け違っているし、髪はボサボサ。メガネがズレてて、まるでコントみたい。口紅は大きくはみ出しているし。ドラキュラじゃあるまいし・・・・。

驚かせてしまったのかしら。

それに、失禁してた。もう、歳なのかしら。

それにしても、お尻がズキズキ痛むわ~。なぜかしら。

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遠能温泉旅館事件 森 三治郎 @sanjiro

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