第3話 2

「夢、じゃないよね」


 翌朝。

 手元に輝く指輪に、橙花とうかは溜息を吐いた。

 コンパクトは姿を消したものの、同時に出現した指輪は変身を解除した後も残っていた。そして、右手中指に着いた指輪は外せなくなっていた。


「取れない……どうしよう」


再び溜息を吐く。学校自体はアクセサリー類の校則は厳しくないので問題はないけれど。

 だが、橙花は今までアクセサリーを積極的に身に付けるような生徒ではなかった。だから、『それどうしたの』と聞かれた時に返しに困る。そういう感じだ。


「橙花? 何してるの、時間なくなっちゃうわよ?」


「はーい」


母親に呼ばれ、急いで着替えて朝食を取る。


「行ってきまーす」


 指輪について誰も聞きませんように、と願いながら登校した。


×


「……誰にも、聞かれなかったな」


 下校しながら橙花は呟いた。

 夕陽にかざすとオレンジに煌めく指輪は、誰の興味にも掠らなかったらしい。

 授業中はもちろん、休み時間中も部活動中も、誰にも何も、一切聞かれなかった。まるで見えていないかのように。


「安心したような、ちょっとがっかりしたような」


 とにかく、何事もなかったのだから良いことにする。今朝の不安は杞憂だったらしい、そう安堵したところで


「おや、橙花さん。学校の帰りですか」


声をかけられた。

 視線を向ければ、季節感を無視した黒いシャツと黒い上着に黒い細身のパンツスタイルの男性が立っていた。ついでに言うと靴も黒い。

 黒い頭髪はやや長く肩につく程度で、黒曜石のような目はやや正気がなく暗い。


「あ、導引さん。時間、一緒だったんだね」


今日も黒いな、と思いながら橙花は彼の元へ小走りで近付く。

 彼は導引どういん葦月いつき。三ヶ月ほど前に橙花の家の近くに引っ越してきた大学1年生だ。

 運悪く酷い点数のテストを見られ、その関係でよく勉強を教えてもらっている。

 堅苦しいのが苦手なので、葦月の方が年上だがタメ口で接していた。葦月の方もそれで構わないらしく何も言われていない。


「……ん?」


ふと、葦月が柳眉をひそめた。そして橙花の全身を一瞬見た後、橙花の右手を凝視する。


「え、なに?」


やけに見られている、と思う間に


「その、指輪……」


と彼は呟く。そこで、自身が右手中指に指輪をめていたことを思い出した。


「あ、ああー……えっと、貰った、みたいな……?」


言いつつ、何となくで左手で隠す。何となく恥ずかしくなったからだ。


「貰った?」


葦月は橙花の顔を見る。


「うん、そんな感じ」


急に現れたのだから、まあ貰ったようなものだろう、と橙花は内心で言い訳をした。なんとなく彼の顔が見れず、視線を逸らす。

 一瞬、葦月は舌打ちをしたが、橙花は気付かなかった。


「誰から」


「え」


低く呟く声に、思わず聞き返す。


「誰から貰い受けたのです? ……ああ、貴女がそういったたぐいを身につけているのは珍しいと思いまして」


「あはは、まあね」


答えつつ、やけに聞いてくるな、と警戒する。葦月の方も詰め寄りすぎたと思い直したらしく、やや気まずそうに視線を逸らした。


「すみません、深く聞き過ぎましたね……」


「ううん。友達から貰ってさ、何となく気に入ったから着けてるの。学校も別に禁止してないし」


どうにかぼかして、質問を回避する。友人が誰なのか聞かれても困るが、その時は内緒だと言えば良いだろうと考えた。それに、葦月ももうそこまで深くは聞かないだろうと踏んだ。


「……そうですか」


やや納得していないように見えたが、今回は引き下がったらしい。それに橙花は内心で安堵した。


「……ところで、次のテストはいつですか」


「へ」


急な話題の展開に目を瞬かせると


「ほら、また教える必要があるでしょう? 貴女の母親からも頼まれておりますし、こちらも日程を知っていた方が、より流動的に物事が進むので」


「あー、そっか」


彼の返答に橙花は頷く。いつのまにか橙花の母親とも仲良くなっており、葦月は橙花の母親からは家庭教師扱いをされているのだった。


「次のテストはあと1ヶ月後くらいだよ」


予定を思い出しながら橙花は答える。橙花自身、彼が分かりやすく教えてくれるおかげで成績が上がっていた。なので、特に嫌な感情は持っていない。


「では、そろそろ用意していた方が良さそうですね」


「早いよ?」


「準備は早いに越したことはありませんので」


「ふーん。まあ、範囲が分かり次第伝えるから」


「ええ、宜しくお願いします」


そこで会話は途切れ、二人はそれとなく帰路へと歩みを進める。


×


「あ、」


 帰り道、とある場所に視線を留めて橙花とうかが小さく声を上げる。


「なんですか」


「また拡がってる」


「ああ、あれですか」


葦月いつきが視線の先を見遣ると、黒いよどみの塊が在った。黒い澱みの周囲はやや空間が歪んでいるように見える。


「変な黒い怪物が現れるようになってから、たくさん出てきたよね」


「変……そうですね……でも、害がないなら問題ないのでは」


そう、冷ややかに葦月は視線を外した。


「害はあるよ。みんな、困ってる」


澱みを横目に、橙花はやや憮然ぶぜんとした様子で声を低くする。


「どう言う風に?」


「悪いものが出てこないか、怖がってるよ」


問う葦月に橙花はやや低い声のままで答えた。


「出て来やしませんよ。見たことはないでしょう」


だが、彼はごく冷静に言葉を返した。確かに、黒い澱みの中から純黒の怪物や何か怪しいものが現れたという話は聞かない。


「植物も育たないし、動物も怖がってるし」


「近付かなければ宜しいでしょうに」


「なんできみ、あっち側の味方するの」


どこか他人事のような葦月の態度に、橙花はむっと眉間を寄せた。


「は? そう見えます?」


「見える」


「……過度に怖がる必要は無い、と言ってるだけですが」


「いいもん。でも、そういう人もいるよね」


「橙花さん」


 葦月の声を無視し、少し口を尖らせ橙花は足早に彼から離れる。

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