第5話
ゆらゆらと意識が漂う。五感に何も感じず、ただ揺れる。
しばらくそうしていると、何もない空間に立ってることに気が付いた。
足元には何もなく、まるで宙に浮いているよう。横を向いても上を見上げても、壁すらなく何もない空間がただ広がっている。
ふと自分の体に違和感を感じて、視線を落とす。そこに見えたのは、いつも通りの男の体。何もおかしい所はないはずなのに、どこか違和感を感じた。
言いようのない違和感に首を傾げようとした時、いつの間にか正面に人の影があった。
「・・・俺?」
そこに居たのは平均よりも少し低い身長で、引きこもっているせいで筋肉のない薄い体、他の誰でもない、男の俺・・・本来の姿の黒寝こはくが立っていた。
『・・・・・・』
目の前に立つ俺は、何も言わず微動だにしない。
男の俺に向かって、右手を伸ばす。
「あっ・・・」
前に伸ばした腕が届かない。伸ばした腕は短く、どう見ても男の腕ではなかった。
指先、右腕、胴体の順に視線を動かす。
プニプニと柔らかい腕、丸みを帯びた肩、僅かに膨らんだ胸。
腰の後ろからは一本の尻尾が生えていた。
頭の上に猫耳の存在を、確かに感じた。
見下ろした俺の体は、猫耳と尻尾が生えた小さな女の子になっていた。
「なん、で・・・?」
震えた声が少女の口から漏れ出る。目の前にいる男の俺は、ただそこに居るだけで何も教えてくれない。
『・・・・・・』
目の前に居る俺の輪郭がぼやけて、どんどん遠ざかっていく。
「待って!」
ここで男の俺と離れてしまえば、もう二度と元の姿に戻れない気がした。
怖くなって、短い少女の腕を必死に突き出す。
指先を限界まで伸ばしても、距離が縮まることはなく、男の俺は遠ざかっていく。
やがて影すら見えなくなり、俺一人だけが取り残される。
「そんな・・・」
どうしようもなく心細くなって、辺りを見渡す。
「あ、遥っ!」
いつも俺のことをからかってくる、幼馴染の姿を見つけた。普段なら鬱陶しいと思う存在なのに、今は無性に安心する。
『あなた、誰?』
「えっ・・・お、俺だよ!幼馴染のこはくだよ!」
『私の幼馴染は貴方みたいな女の子じゃない。あなたなんて知らない』
「それは・・・でも本当に俺なんだよ!」
『さようなら』
「待って遥!行かないでっ!」
遥がどんどん離れていく。俺の手が届かない所へ、離れて、消えて、忘れる。
「待って・・・一人に、しないでぇ・・・」
――――――――――
「うああああっ!」
ベッドから飛び起きるる。
漫画が詰め込まれた本棚、電源の切れたデスクトップパソコンが置いてある、いつもと変わらないの俺の部屋だった。
「はぁ・・・はあ・・・ゆ、夢か」
服がぐしょりと肌に張り付いて気持ち悪い。呼吸がままならなくて息苦しい。
たかが夢。頭では理解していても心が追い付かない。
「あれは夢。あれは夢・・・」
自分を落ち着かせようと何度も口に出す。それでも悪い想像は止まらない。
もう男に戻れないのだろうか。
遥は俺を捨てるのだろうか。
本当の黒寝こはくの姿じゃない俺に、果たして価値はあるのだろうか。
俺は・・・
「こはく、おはよー」
「は、遥・・・」
いつも通りノックもせずに部屋に入る幼馴染。
何も変わらない出来事なのに、さっきの夢が脳裏にチラつき、体が強張る。
「こはく、なんで泣いてるの!?」
「・・・えっ?」
遥に指摘されて、ようやく自分の頬が濡れているのに気が付いた。
拭っても拭っても、勝手に涙は溢れ続ける。
「どこか痛いの!?ど、どうしよう!?」
「ちがっ、ズビ、ちがう・・・」
「じゃあどうしたの?私が何かしちゃった?」
遥は何も悪いことなんてしていないのに、涙は止まらない。
「ゆめで、おとこだったおれが、消えて゛・・・はるか゛もいっしょに、グズッ、いなくなって・・・」
「うん」
「おれひとりでっ、だれも゛いなくて・・・ひとりぼっちで・・・」
「そんなことない。何があっても私はこはくと一緒だよ。ずーーっと、こはくの味方だからね」
優しく、それでいて押し潰されるくらい、強く抱きしめられる。
じんわりと伝わる温もりで、堪えていた感情が嗚咽となって溢れる。
「大丈夫だから。こはくを一人にはしないよ」
制御出来ない感情の奔流と、体を包み込む温もりで、ぐちゃぐちゃになってひたすら泣き続けた。
――――――――――
「うおおぉぉぉぉ・・・」
「えっと・・・大丈夫こはく?」
大丈夫なわけないだろぉ・・・もう子供じゃないのに、夢を見ただけでわんわん泣いたんだぞ。こんなん黒歴史でしかないだろぉ・・・
「ああああぁぁぁ・・・」
「まあ、その・・・元気出して?」
何が最悪って、遥の胸の中で泣きじゃくったことだよ。こんな姿、遥に一番見られたくなかったのにぃ!
「・・・ねぇ、遥」
「なに?」
「頭叩いたら記憶がなくなるって本当だと思う?」
「え?ちょっとこはく・・・?わわっ!?」
チィ!仕留め損なった!遥の記憶を消した後に、俺も自分の頭を殴って記憶消すから。だから安心して殴られろォ!
「はいっ、捕まえた。もー、暴れたら危ないでしょ?」
「うるさい!はなせぇ!」
デビューするまで、あと18日
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