第13話「キンモクセイに願う」

未瑠のことを思い出した日。

あの本を読んでしまった俺は全てを知ったんだ。


それは、ただひたすらに残酷な群像劇。

その渦中で抗う、俺と縁、そして生を求める人々の物語。

しかしそれは結末を迎えることも叶わず、書きかけのまま投げ出されていた。


「俺は、最初から悲劇の為に造り出された存在」


それが、全ての答えだった。


その言葉を聞いたユンは、その瞳を揺らしながらただ狼狽えていた。

彼の……いや、俺たちの深層心理とも言えるこの空間に、どこからか穏やかな風が吹き始める。

朝焼けだけを映し出していた太陽も、少しずつ、高く、高く昇っていく。

止まっていた時間が、動き出そうとしていた。


「……ねえ、綾辻ユン」

「んー、フルネームで呼ばれるってのは変な気分だな。

だけど、俺達を区別するものはそれしかないか」


ユンに言いたいことは色々あるけれど……

不思議と、俺はあどけない笑みを返した。


「あいつは……縁は、幸せだったのかな」

「……どうだろうね? それは、俺に訊くべきことじゃない」

「俺はどうして、縁を……救えなかったのかな」


その答えも、今なら解る。

いつか垣間見た夢の中で、物語を書いていたのは白い服の少年だった。

つまり……


「縁が、君の創り出した存在では無かったから」


黒い服の少年は……ユンは、その結末を変えることができなかったんだ。


「ユンは、縁に幸せな未来を作ってあげたかっただけなんだよね?」


ただ、それだけなんだ。

だってそれは、俺と同じ願いだから。


「俺は……」


ユンは暫く黙っていたが、やがて揺れる草を眺めながら話してくれた。


物語を書いていた少年は、ユンの友人であること。

その友人との最後の会話で、ユンは、縁の「本来の結末」を訊いてしまったこと。

それは物語の最中、結局ユンの力では縁を守り切ることが叶わず死別してしまうというものだったこと。

それを認めたくなくて、確定している未来を変える方法を求めて、何年も彷徨ったこと。


「結局、助ける方法は……無かった。

俺はあまりにも無力だった。

だけど、あるいは綾辻ユンなら、なんとかしてくれるかもしれないと思ったんだ。

だって、綾辻ユンは……ヒーローだから。

それが上手く行かなかったとしても、せめて永遠に"縁との思い出"を心の中に残しておきたかったんだ」


だからユンは、俺を、「綾辻ユン」をこの世界に造りだした。


「綾辻ユンは……別の世界から来た存在なんかじゃない。

俺が俺という存在を賭して創り出した、自分であり自分ではない存在。

ただ一冊の、書きかけの物語の中の登場人物だ」


だから、俺には設定された記憶や感情以外が存在しない。

実際、ユンの計画は一度成功していたんだ。

あの丘で出会った女性や、未瑠が俺に干渉するまでは。


「なのに……綾辻ユン。

君すら、俺の思い通りには動いてくれなかった。

君に預けた想いは、役割は、そんな結論を導き出すはずがないのに……」


──もう、物語の続きは書けないのに──


ユンの眼から流れた大粒の涙は、揺れる草の中へ消えていく。

この世界の中でどれだけ大きく叫んだ想いも、誰かに届くことはなかったんだ。

ずっと、ずっと……。


「ユン。……もう、いいんだよ」

「よくない」

「ううん、もういいんだ。

だから、どうか君の親友である縁を"思い出"にしてあげてほしい」


俺の決意は固かった。

この物語を、終わらせよう。


「どうして、そんなことを言うんだよ……。

もう、誰も縁を憶えていないのに。

俺が忘れたら……縁はもう存在すらしなかったことになってしまうのに……」

「それは違うよ」


そういって、俺はそっとユンに手を差し伸べた。

何故だろう?

隣では、視えない誰かが同じように、彼に手を差し伸べている。

そんな気がした。


「ねえ、ユン。」

「……」

「俺は、生きている。だから、いつかは死んでしまう。

でもね、その時……もし、もう一度、縁に逢えるなら、

この世界で作ったたくさんの思い出を、持っていくつもりなんだ。

そして、それを縁にたくさん話してあげたい」


君の眼に、微かな光が反射する。

その視線の先にあるものは、きっと、新しい日だ。


「だからさ……一緒に、生きよう?」


俺の眼から、大粒の涙がこぼれる。

ここに居ながら、ここに居ない存在。

そんな、造られた心が叫んでいた。


「ねえ……綾辻ユン」

「何?」

「綾辻ユンは、今も縁のことが好き?」

「もちろんだよ。これからも、ずっとずっと……俺は、縁のことが好き」

「……最初から、物語の結末は必要なかった……のかな……」

「……そうかもしれないね。」


"だって、ここが──今が、この瞬間が、物語の続きなのだから"


ユンは、そっと両手で俺の手を取った。

同時に、大声で泣き出してしまう。

まるで、今まで届かなかった声を俺にぶつけるみたいに。


「縁。……ごめん、ごめんよ……」

「ユン、謝らなくてもいいんだよ」

「だって……だってさぁ……」


再び立ち上がったユンの膝から、一冊の本が落ちた。

俺という存在を、縁という存在を──

そして、俺が出会ってきたみんなを描いた書きかけの物語。

風に捲られて、何も書かれていない頁がぱらぱらと音を立てる。


「縁は、君に愛されていた。だから、幸せだったんだよ」

「……うん」


ユンは、泣き腫らした眼をこちらに向けた。


「でもね、綾辻ユン?」

「何?」

「一つだけ、間違っているよ」

「え?」


その声は震えていて、だけど何かを伝えたい気持ちは伝わって来た。


「縁は、そして君は、決して架空の存在なんかじゃない。

いつだって、俺の中で、俺の希望としてここに居たんだよ。

それだけは、どうか忘れないでほしい」

「……そっか。そうだよね!」


二人の涙が、悲しみの中へ溶けていく。

心の世界は、縁の瞳によく似た色の夕焼けに包まれていた。


"ヒラリ──"


(?)


視界の端を、何かが掠めた。

桃色の小さな花びら。

一体、どこから……?


「これは……桜?」

「違うよ。これは……ジニアだ」


いつの間にか、ユンは空を見上げていた。

顔を上げれば──儚げに舞い散る、薄桃色の花吹雪が見えた。

それは桜ではなく、ジニアという花らしい。

しばらくの間、二人でそれを眺める。


「ジニアの花言葉はね、"不在の友を思う"」

「不在の友……」

「……そっか。本当は、ずっと見ていてくれたんだね?」


ユンの口が、僅かに動いた。

それは聴こえなかったが、どうやら二音節の言葉のようだ。

誰かの……名前?

ただ少なくとも、ユンの表情は今まで見た中でいちばん穏やかで、嬉しそうだった。


「縁。……これで、よかったんだよね?」


返事はなかった。

だけど、それでいいんだ。

長い、永い時を超えて……縁は、"思い出"へと変わった。

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