第5話「蒼のカーネーション」
(……あの日から、何年が過ぎた?)
時計の秒針の音だけが鳴り響く、薄暗い部屋。
窓の外からは、微かに鳥の鳴き声が聴こえてくる。
夜色に染まった髪を意味もなく弄りながら、俺は静かに呟いた。
「……五月蠅い」
誰に聴こえるわけでも、誰かにぼやきたいわけでもなかった。
この言葉も、独りぼっちの空間に響くだけ。
それは僅かな時間、俺の記憶に残るだけですぐに消えていくだろう。
忘れ去られたならば、無かったことと同じ。
「ねえ……」
何かを言いかけたが、特にその後が思いつかずその言葉をしまう。
別に、なんだってよかった。
他愛のない話など、そんなものだろう?
そんな静寂の中、スマホの通知音が鳴り響く。
一応見れば、いつものように青髪の友人からのメッセージが届いていた。
「最近どうだ? 返事の一つでもしてくれ」
別に、俺から伝えることは何もない。
既読だけつけて、そのままスマホを放り出す。
そして、右手でベッドの上を探る。
──今日も、確かに在る。
その手に触れたのは、ノートよりは少し分厚いくらいの本。
表紙は、少し温かみのある頑丈な紙でできている。
その他は大層な装飾があるわけでもない、なんの変哲もない本だ。
それを、固く、固く抱きしめた。
そうして、1日のうち大半の時間はこのベッドの上で過ぎて行く。
視界に映るのは、いつもと変わらない白い天井。
そんな、特に変化もない見飽きた光景が俺の日常だ。
(きっと、これが"死"なのだろう)
外に出ることもなければ、人との関わりを求めることもない。
生きていないならば、つまりは死んでいるのだろう。
視界には、変わらない天井だけが無表情のまま張り付いている。
そうだ。
結局、物語の結末は変わらなかった。
朔に突き放されてから、ちょうど三ヶ月程が過ぎた頃。
俺は、勇気を振り絞ってもう一度、朔に会いに行ったんだ。
物語の結末を変えて欲しいって伝えるために。
だけど、現実はただ残酷なだけだった。
俺はその日も、朔とお揃いの服を着ていた。
それが正しいか間違いかは分からない。
もしかしたら、往生際が悪いと思われるかもしれない。
そんな漠然とした恐怖はあったが、それでもこれは、朔との大切な絆の証だから。
屋敷の前でインターホンを鳴らすことに躊躇っていると、運悪く、朔の父親に見つかってしまった。
この姿に迷いを感じていた俺は怒られることも覚悟したが……朔の父親は言った。
「朔はね、遠くへ旅立ってしまったよ」
それから、屋敷に上げてもらい一緒に花を供えた。
朔の父親は悲しそうな眼で、朔を救えなかった辛さを俺に吐露した。
まるで、俺への言葉ではなく、朔に対する懺悔のようだった。
お土産にもらったのは、朔の好きだったクッキー。
帰って蓋を開けてみれば、甘い香りがふわりと広がった。
それをかじりながら、思ったんだ。
縁の結末は変わらない。
あの日、朔が俺を突き放した理由も解らない。
だが少なくとも、朔は、俺が笑っていられる世界を、俺の全てを持って行ってしまった。
だから、もう……俺は、生きたくない。
誰にも会わず、ただひたすらに立ち止まっていたい。
ふと、視界を横に逸らすとそこには写真立てがあった。
それは色とりどりの花で装飾されている。
とりわけ、目を惹くのは薔薇の花だろうか。
赤、青、黄色、そして──黒。
実は、薔薇はその色によって花言葉も様々だったりする。
人の手により、時間を止められた永遠の園。
人が欺瞞のために造り上げた、美しい生命。
とはいえ、所詮彼らは容れ物に添えられた脇役だ。
写真立ての中にある"君"こそが、俺が求めたものなのだから。
俺は、そこに映る姿にそっと囁きかける。
「今日も、幸せだったね」
そんな他愛もない言葉を投げかける時、口元がふっと笑んだのを感じた。
その感情に満足したように、俺は再び眠りについた──。
*****
夢と現実の狭間、暗闇の中で、俺は不安を感じていた。
それは、薄れゆく気持ちを自覚した時からだろうか。
あの日から、俺は何も変えないつもりでいた。
心の中に描いた縁に対して、ひたすら想いを寄せていた。
"死"の先に老いは無い。
ならば死んでいる俺もまた、"永遠"に変わらない存在であるはず。
それでも、時間というものは残酷だ。
欠けていくこの気持ちを、それに対する哀しみを、なんと表現すればいいのだろう?
そして、誰に伝えればいいのだろう?
いやだ。
行かないで。
忘れたくない。
忘れたくない。
忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない……
焦燥が、その心を手酷く包み込む。
秒針の音も、速まる鼓動も、何も、何も聴こえはしない。
聴こえていたとしても、どうでもいい。
(ああ、止まってくれ──)
縋るような思いで、いつものように本を抱きしめた。
そんな時、つい思い出してしまうのはもう再会すら望めないかつての友達の言葉。
『これは、ユンがヒーローになる物語なんだから!』
だけどそれは、叶わない願いでしかない。
何故なら、俺はヒーローではなかった。
やがて、見開いた眼から涙が溢れ出す。
どこでもいい、この感情から逃げられる場所があるなら……どうか、連れて行ってほしい。
俺はその勢いに身を任せ、隠しきれない嘆きに両手で顔を覆った。
"ガシャリ──"
その拍子に、何か固いものがベッドから落下する。
それはいつも身に着けている懐中時計だった。
表面は割れていなかったが、どうやら中のパーツが外れてしまったらしい。
時間は完全に止まり、もう進むこともない。
(……ああ、そうか)
どうして、今まで気づかなかったのだろう?
確かに、俺はヒーローではない。
だから、俺には縁を救えない。
けれど……仮に、ヒーローが居るとすれば?
その存在ならば、縁を救えるかもしれない。
俺に作り出せなかった、ハッピーエンドへの道を切り開いてくれるかもしれない。
それに、仮にダメだったとしても──
薄れゆく想いを食い止めるような、"永遠"を造りだしてくれると思う。
だって、それは俺と同じ目的を持った、俺よりもずっと近くで縁を見続けている存在のはずだから。
そうだ、そうに違いない。
その希望に魅せられた俺は、狂喜し笑い声をあげた。
今度こそ、縁を救えるはずだ。
乱高下した感情は、俺を繋いでいた鎖を引き千切るような高揚感を与えてくれた。
もう、誰にも邪魔させはしない。
******
俺は、結論が出れば行動は早い方だった。
何日かかけて準備を済ませると、ふと窓の外に見つけたひこうき雲が気になった。
(最後に、外の空気でも吸いに行こうか)
特別な理由があるわけではない。
ただ、なんとなくだけど……風に、空に、そして太陽にお別れを言いたくなったんだ。
やがて川辺の土手に辿り着いた俺は、そこに座って空を見た。
逆光を受けた鳥が、弧を描いて飛んでいる。
名前も知らない、伸びた雑草がそよそよと揺れていた。
(小さい頃は、ここでもよく遊んだな)
幼き日の追想など、いつ以来だろうか。
頭の中では、青髪の友人と川遊びに来た夏を思い出していた。
そんな日々すら、もう遠い昔のことなのに。
少しだけ後ろ髪を引かれるような思いは、一体何に対してだろう?
(……そろそろ、終わりにしよう)
そのまま土手に寝ころんで、強く願う。
その代償を、──自らの心を投げ出しながら。
ヒーローってのは、強い願いに惹かれて現れる。
それは、数多の物語でも語られてきた事実だ。
だから、きっと……この祈りも届くはずさ。
薄れゆく自分自身を理解しながら、やがて目を覚ますものにそっと想いを預ける。
そうして託した期待を胸に、俺の意識は深い深い闇に沈んで行った。
対称的に、光を求める"もう一人の俺"の長い髪に暁色が宿っていく。
きっと、見つけてくれるだろう。
俺が望んだ"幸せ"を──。
*****
ピィピィと生き物のような声がする。
何者かが、頬を撫でている。
その違和感にゆっくりと瞼を開くと──どこまでも続く青色が広がっていた。
(ここは……?)
どうやら、俺は眠っていたようだ。
でも……いつから、どうしてこんなところで……?
この場所に見覚えはない。
頬を撫でていたのは、手や機械的な物ではなく、そよそよと揺れる何かだった。
それは地面からたくさん伸びており、緑色で細長かった。
声の主は──生き物は、どこにいるのだろう?
見たこともないくらい強い光が俺を照らしている。
その出所は、広がった青色に張り付いている。
ただ、それは遠くにあるらしく、手を伸ばしても届かないだとかそういう問題の距離ではなさそうだ。
誰がどうやって、あんなところに取り付けたのだろう?
時折、広がる青色の中を影が通り過ぎた。
大きさは疎らで、それらも手を伸ばして届く距離ではない。
だけど、青色よりはまだ低い位置にある。
もしかすると───!!
「縁……?」
ふわふわと浮いていた思考が戻ってきた瞬間、俺は素早く起き上がった。
その勢いで、金色と赤色の長い髪がふわりと揺れる。
辺りを見渡し、そこに君がいないことを確認した。
(縁の"能力"ならば、あの影に手が届いたかもしれない)
そんな思考が過った瞬間、意識は覚醒した。
しかし──
(あれ……?)
妙にぼんやりとする感覚。
まるで、自分が自分じゃないような漠然とした違和感。
いや、そもそもの話──
(俺は、縁と出会って……それから、どうしたんだっけ?)
縁が、俺にとってかけがえのない存在であることは理解している。
だけど、それ以外の記憶が……俺と縁が出会ってからのことが何も思い出せない。
どうやら、ここに来た理由だとか、どうやって来たとか、そんな小さな問題ではないようだ。
何もかもが解らないことだらけだ。
この状況も、縁が居なくなってしまった理由も。
だけど、俺がやるべきことは一つしかない。
(──縁を、探さないといけない)
縁が傍に居てくれるなら、それでいい。
それだけが、俺の願いだった。
「君がそう思うなら、探せばいいよ」
頭上から聞こえた、見下ろし、押さえつけるような誰かの声。
顔を上げれば……そこには誰も居なかった。
一瞬視えた人影は、都合よく認識されてしまっていたのだろうか。
あるいは、あの青色に張り付いた光のせいでよく見えなかった。
とはいえ、そんなことはどうでもよいのだが。
「縁──待っててね」
俺はそれだけ呟くと、立ち上がって服の埃を掃う。
そして、青色の下をそっと歩き出した。
大丈夫。君が見つかるまで諦めるつもりはない。
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