第6話「クロユリの瞳」
それは、とある夢の話。
セピア色の世界の中で、俺は長い長い回廊を歩いていた。
最奥部にたどり着くと、大きな窓を背に、一冊の本を抱えた白い服の少年が立っていた。
「最後に、聴きたいことはある?」
薔薇が咲き誇る屋敷の中、見知らぬ少年は笑顔で問いかける。
会ったことなどないはずなのに、不思議と懐かしさが込み上げてきた。
「俺は──」
俺は、その問いになんて答えたのだろう?
少年は、スッと笑顔をなくして抱えていた本を手渡してくる。
「そんなに知りたいなら、教えてあげる」
吸い込まれるようにその本に手が伸びた時、嫌な予感がした。
直後に、視えない何かが俺の腕を力強く掴んで静止する。
「ダメですよ……!」
俺の意識は、そこで途切れていた。
*****
窓の外から、光が差し込んだ。
微かに漂って来るのは、風に揺られてざわついた草の香り。
(ああ、また一日が始まるんだな)
新しい日の訪れに、俺は目を覚ました。
真っ先に視界に映ったものは、金色の糸のように輝いた伸びた前髪。
そろそろ切った方がいいのだろうが、手近にあったヘアピンで留めてそれをごまかした。
見栄えに無頓着なわけではなく、効率的と言ってほしいところである。
身支度をしながら、窓の外にある、手が届かないほど遠くにある青に視線を移す。
あれのことを、人は空と呼ぶらしい。
初めてこの世界に来た日、俺は、遥か遠くに広がる空を不思議そうに眺めていた。
それが時間の経過と共に色を変えていくことに気づくまで、時間はかからなかった。
青は茜に、そして藍にうつろう。
眠りに落ちて、思い出せない記憶の欠片を拾い集め切る前に、また青が俺を出迎えた。
だけど、同じ青は二度と来ないのだろう。
言い表せない程に澄み切った優しい青色は、今では少し遠い記憶だ。
今日の青は、どこか白く霞んだ、水彩の絵に雫を落としてしまったような色をしている。
(縁……)
あの日、力尽きるまで歩き回って解ったことは、一つだけだった。
それは、ここが俺の知らない世界だということ。
空に張り付いた光──太陽は、どこまでも世界を照らしていた。
街にたどり着けば、人々は忙しなく、目を合わせることもなく通り過ぎていく。
……その様子が、俺の中に残っている朧げな記憶と一致しなかった。
街とは、こんなに平和で無機質なものだっただろうか?
それは言い換えればただ無関心で、政府の監視に怯える者も、周辺の労働者を見下しては嘲笑う者もいなかった。
そんな違和感を理解した時、俺の心は悲しいような、空しいような……、
なんだか、自分だけが遠くに来てしまったという孤独感に満ち溢れた。
そうしているうちに、日が沈んでしまい俺は途方にくれた。
当然だ。ここが何処かも分からなければ、持ち合わせの一つすら無いのだから。
そんな状態でへたり込んでいる俺に声をかけてきたのは、謎の男だった。
名前は教えてくれなかったし、黒い服を着ていたので、「黒服さん」とでも呼んでおこうか。
黒服さんは、行く当てのない俺を「自由に使っていい住居」とやらに案内し、そのまま去って行った。
俺のことを知っているのかと質問したが、無視された。
よくわからないけど、助かったことには変わりない。
家に入り、明かりを点ければ一通りの家具が揃った部屋が俺を出迎えた。
テーブルに椅子、ベッドに食器、ソファまである。
ただ、少しお高い感じのするそれらの中に、背の低いカラーボックスの棚が粗雑に置かれていることが気になった。
しかも、その棚の中にはたくさんの本……それも、小さな子供向けの絵本がたくさん入っていた。
お金の使い方や電子機器の使い方、それから街にある建物の使い方など。
大人びた部屋には似つかわしくない、可愛い動物のキャラクターがそれを実際に体験するお話が書かれている。
この世界について何も知らない俺は不安しかなかったが、おかげで人並みを繕う程度の知識や常識は身についた。
今はそのまま、この家で暮らしている。
(君は、この世界に居るはずだ)
俺は相変わらず、縁のことを探し続けている。
現状、手がかりの欠片もないが、俺は縁がこの世界にいることを確信していた。
何故なら、この部屋に置いてあった写真立ての中に、縁と酷似した青年の肖像画が収められていたのだ。
それは、君がこの世界にいた証拠に他ならない。
空の色が変わろうとも、咲いている花が変わろうとも、独りぼっちの時間が続こうとも──
この希望だけは変わらず、俺の中に熱を灯している。
強い意志を胸に、俺は立ち上がる。
君を探すため、今日も空の下を彷徨おう。
ドアを開ければ、その足取りと反対の方向に、まだ少し冷たい風が吹き込んだ。
それは俺の頬を撫で、背後の壁にぶつかって消えていった。
*****
空は茜に、そして藍に。
今日も、一つ、また一つと声が消えていく。
歩道橋の上、そんな街を見ていた。
静かになった世界に、緊張の糸を解いたような息を零しながら。
「お前、それ……」
聴きなれない声が、耳をすり抜けた。
流し目でそちらを見れば、一人の青年がこちらに近づいて来る。
「……誰?」
その返答に、青年の眼が見開かれる。
しかしそんな動揺も一瞬で掻き消え、次の瞬間には感情の読めない色に戻された。
「……それが、お前の選択なのか」
「質問に答えてくれる?」
「……」
風が、二人の間を遮る。
人と目を合わせたのは久しぶりだった。
その色はくすんだ琥珀のようで、長めの青髪の隙間から、俺の反応を伺うように真っ直ぐこちらを見ていた。
「俺は、"観測者"」
「それが名前だとでも?」
「そう呼んでくれればいい」
少しだけ、不思議な気持ちになった。
それはあからさまな偽名を使われたからとか、そういう意味ではなくて……
(俺は、その言葉をどこかで聞いたような気がする)
まあ、いいか。
素性も知らない相手に対する興味は然程あるものではない。
それでも、彼が俺に向けている感情が好意的でないことだけは解った。
「じゃあ、観測者。……何か用?」
「いや……君に対する用事があったわけではないんだ」
人違いだったのだろうか。
それにしては、ここから立ち去る様子もないが。
「そうだな、伝言を頼むこと……も、難しいか」
青年はその場で考え込み、ぼやくような、話しかけてきているような曖昧な言葉を吐いた。
伝言? 一体、誰に?
どちらにせよ、今の俺は意味のない言葉を聞く気分ではなかった。
「用がないなら……」
「ああ、待ってくれ」
それでも、呼び止められたならばと観測者の言葉を待つ。
その時間が、今日の中でいちばん永いものであることは疑いようもない。
「君に、一つだけ伝えたい」
「一応、聞いてあげるよ」
「この世界で真実を探すといい」
「……真実?」
どうやら、観測者は回りくどい言葉が好きらしい。
それでも、その言葉はどこか苦々しく、後ろ髪を引くように俺をその場に留めた。
「……この世界は、もっと面白いんだよ」
それだけ言い残し、目を伏せた観測者は去っていった。
その哀れみが、誰に向けたものであるかも明かさないまま。
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