第5話

 芸術学校入学の三日前、まだ嶺と近しい間柄だった私は彼と二人で入学に必要なものの買い出しに出かけ、その帰りにある美術館に立ち寄りました。


 由瀨は四つの島から成る国で、一番大きな本島の他に、小瀨島こぜじま津石島つごくじま佳句波島かくなみじまの三つの島があります。美術館は佳句波島にあり、私たちは船に乗って佳句波島まで行きました。


 クーデターの後、多くの美術館が閉館しましたが、政治の影響力が一番届きにくい佳句波島には、今も三つの美術館が残っています。私たちが訪れたのは、その中でも一番小さな、人々に忘れ去られたような場所に位置する美術館でした。


 そこには、私の曽祖父で、一族でも最も力があったといわれる蕭蔡しょうさいの絵がいくつか展示されています。入学を前に、祖先の絵を観て決意を新たにしたいと思って、嶺に付き添いを頼みそこまで赴いたのでした。


「荘厳だね」


 絵の前に二人で並んだ時、嶺はそう言いました。それはうさぎが月を見上げる様子を描いた絵でした。蕭蔡の絵の中ではあまり知名度の高くないものですし、絵のテーマからしても荘厳、という言葉は私の頭の中には浮かばなかったので、少し呆気に取られていると、私たちの背後でしわがれた声がしました。


「感じるかね」


 嶺と私はほぼ同時に振り返りました。そこには白い着物を纏った老人がいました。


 長い銀髪と、不揃いな長い髭に顔を覆われ、細い目も長く垂れ下がる眉に隠されていました。その体の周りには、うっすらと発光する白い膜が貼られているように見えました。間違いなく幽霊だと、すぐにわかりました。しかも、蕭蔡の幽霊だと。


「この世の悲しい運命と、抗えない凄まじい力。その荘厳さを、君はこの絵を観て感じたのだね」


 蕭蔡は言いました。嶺は少しだけ考えるような表情をしてから、こう答えました。


「わかりません。何がどう荘厳なのか、口にしておいて自分でもわかりませんが、荘厳だと感じました」


 蕭蔡は満足そうに笑って、三度首を縦に振りました。


「よろしい。絵とはそういうものだ。何が何なのか、どうしてそう感じるのか、源は得体が知れないが、なぜか強くそう感じる、その感覚が一番大切なのだ。お前もわかるかな、我がひ孫よ」


 凍てついたように指先まで動けなくなり、時間が止まったようにその空間に静けさが舞い降りました。


「私は……まだよくわかりません」


 正直な気持ちでした。蕭蔡の幽霊を前にすると、怖くて取り繕いたくても嘘はつけませんでした。


「それもまたよろしい。絵を観て得る感覚は、種類も強さも人それぞれなのだ。自分を恥じずとも良い」


 蕭蔡は目を細めてしばらく私と嶺を交互に見つめました。そして、やがてふわりと立ち上がり、胸元から何かを取り出しました。


「これをやろう」

 それは、紅水晶の指輪と真珠のブレスレットでした。今私と嶺の手元にあるものです。


「これは特別なものだ。これを身につけていれば、お前たちは由瀨を彷徨う霊たちの姿をちょうど今の私のようにはっきりと見ることができ、言葉を交わすこともできる。霊たちの話を聞いてやってほしい。彼らは粉々に砕かれた心のしまい場所を探して、あてもなく彷徨っている。どうか解放してやってほしい、彼らを」


 そして蕭蔡は、びくとも動けずに立ち尽くす私たちの足元にその宝石を置くと、静かに姿を消しました。しかし姿が見えなくなった後すぐ、声だけが戻ってきました。


「ああ、そうそう。私がその特別な代物を預けた若者は、他にも五人いる。五人を探して、協力し合うといい。いろんなものが見えてくるはずだ。そして七人の仲間が全員集まった時、由瀨の国は悪しきものの手から救われるだろう」


 その声の余韻が過ぎ去った後も、私たちはしばらく呆然としていました。やがて霊が、真珠のブレスレットを拾い上げて、黙って自分の左手首に巻きつけました。そして紅水晶の指輪も拾い上げ、私の右手薬指に嵌めました。


「何だか、よくわからないけど」


 私の手から自分の手を離すと、嶺は少し掠れた声で言いました。

「僕たちは毬子のひいおじいさんから、随分重大な役目を与えられたみたいだね」


 右手を見下ろすと、金色の輪の上にどっしりと腰を下ろした大きな紅水晶は、どういうわけか自分の意思を持っているように見えました。この紅水晶は、この指を選んでやってきたのでしょうか。数多の指の中から、自分で選んで。その輝きを見つめていたら、何となくそんな考えが浮かびました。


 幽霊と言葉を交わす力は、本当に身につきました。由瀨には多くの人が噂する通り、気が遠く成るほどの数の幽霊が溢れていて、やはりその多くは芸術家でした。幽霊たちは人間と同じで色々な性格をしていて、私を見つけるなりすぐに自分の話をしてくれる幽霊もいれば、結局心を開いてくれず再び彷徨い始めてしまう幽霊もいました。


 嶺とは入学後、それまでのようにいつでも一緒にいる関係ではいられなくなりましたが、幽霊と対峙している姿を見かけることはよくあります。

 そしてその時彼は決まって、憧れのこもったような、愛しさのこもったような、脆くて甘い視線を幽霊に向けているのです。その姿は妖艶でしたが、どこか危うさを感じるので、私はいつも目を逸らしてしまうのでした。


 入学してすぐ、嶺が仲良くなった音楽科の水樹くんが蕭蔡の言い残した「仲間」の一人であることがわかりましたが、それから数ヶ月、未だ他の「仲間」は見つかっていません。私は水樹くんとはあまり反りが合わず、嶺とも距離が生まれてしまっているので、ほとんど一人で幽霊と向き合っています。怖い思いをしたことはありませんが、やはり心細く感じます。早く仲間を見つけたいという気持ちを、幽霊に出くわす度に抱いています。ですがなかなか見つけることはできません。


 やっぱり明日、時くんに話しかけてみよう。眠りにつく前、私は一人で自分の決意に頷きました。絶対に仲間なはず。指輪がそう教えてくれるから。

 何度も何度も、私を彼の前に連れて行くから。



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