第3話

 家に帰ると、何やら居間が賑わっていて何事かと私は眉を顰めました。聞こえてくるのは母の声だけですが、父と二人だけで会話しているのならこんなに弾んだ声が出てくるはずはありません。私は恐る恐る居間のドアを開けました。


「ああ、毬子? 遅かったわね、くららちゃんももう帰ってるのに、こんな時間まで何してたの?」


 そこには父と母の他に、鬼崎きざきくらら、と言う名前に似合わずベリーショートの黒髪に純和風な顔立ちの日本画科の友人と、そのお姉さん、りりちゃんがいました。くららも近所に住んでいる幼馴染で、家族ぐるみで仲がいいのですが、この二人が揃って、しかもこんな時間にうちにやって来るのは珍しいことでした。


「くららどうしたの?」

「両親が仕事の関係で東京に行っててね、私とお姉ちゃん二人じゃ、夕飯なーんにも作れないから、毬子ママに泣き付いたら、じゃあうちに食べにおいでって言ってくれたの。救世主!」


 幽霊を解放した直後、親しい友人に会えてちゃんと日常に引き戻された安心感と、この場にりりちゃんがいることで私の中に勝手に芽生えたぴりりと痛い緊張感が入り混じります。


「久しぶり、毬子ちゃん」


 明るい声でそう言ってくれるりりちゃんに、ぎこちない笑顔しか返せませんでした。りりちゃんが嫌いなわけではありません。ただ、りりちゃんがこの家にいることで、私の両親の持つ私にとって不都合な私に対する望みがどんどん膨らんでいくことがよくわかるのです。


「久しぶり」


 そう言って笑った私の表情は少しぎこちなかったかもしれません。複雑な心境のまま、空いた席に座りました。


「紫陽花の絵、進めてたの?」

 視界の片隅で、絵、と言う単語に両親の眉や口角がほんの僅かに震えるのが見えました。

「うん。終わりそうにないから。一般教養の授業も忙しいし」


 私はできるだけ軽い調子で何でもないことのように言いました。本屋に行ったけれど読みたい本がなかったことを報告する時みたいに。


「りりちゃんね、会社を立ち上げるんですって。すごいと思わない?」


 私の分の夕食を用意しながら話を切り出す頃合いを見計らっていた母が、これ以上絵の話が続くのを防ぐかのようにそう切り込みました。


「I T企業っていうの? これまで日本で学んだ技術を、由瀨に浸透させたいんですって」

「そんな大それたことができるとは思ってませんけど、せっかく勉強したので活かしたいと思っただけです。黒住くろすみ首相のお力添えもあって、何とか形にできそうというレベルですから」


 そう言って目を伏せたくららの姉であるりりは健康的な小麦色の肌をしていて、黒い大きな瞳と綺麗に生え揃った長いまつ毛が伏し目だと更に印象的なエキゾチックな顔立ちをしています。くららにはあまり似ていないので、まだ会ったことのない二人のお父さんに似ているのだろうといつもお父さんの姿を想像してしまいます。


 りりちゃんは、これまでどんなことを学んできて、これからどんな事業をやっていきたいのかを、元々キラキラしている目により一層強い光を宿らせて語ってくれました。

 由瀨を周りの先進国に少しでも近づけたい、よりすみやすい国に変えたいという姿勢は、もちろん素晴らしいと思いました。でもスマートフォンとか、アプリケーションとか、キャッシュレスとか、SNSとか、私にはよく分からない言葉が次々に飛び出すその唇は、まるで知らない人のもののように感じられました。


「明日もあるし、そろそろお暇しようかね、くらら」

 やがて喋り疲れたのか、りりちゃんがそう言ってくららの方を見た時、時計はすでに夜十時を示していました。


「そうね、もう遅くなっちゃったわね。くららちゃんも毬子も明日学校だものね。でも、二人とも、よかったらまた来て。家が賑やかになって楽しいわ。うち、パパも毬子も全然喋らないから、寂しいの」


 二人を見送ると、家は本当に静まり返りました。父が観る報道番組のアナウンスと、母の皿洗いの音しか響かない居間で、やがて母が痺れを切らしたように言いました。


「毬子あなた、りりちゃんのお仕事手伝う気はない?」


 いつか言われるだろうとは思いましたが、まさかこんなにすぐその時が来るとは。私は少し呆れながらも、念の為用意しておいた返事を呟きました。


「無理だよ。りりちゃんが言ってた専門用語の半分も理解できなかったんだよ。ああいう類のこととは縁遠いし、私がりりちゃんの役に立てるとは思えないもん」


 しかし母は食い下がります。

「そんなの、初めは当たり前じゃない。由瀨は今まで、そういう技術とは無縁の国だったんだから。分からないのはみんな同じよ。だからパイオニアになるんでしょ。りりちゃんなら上手に優しく教えてくれるだろうし、なかなかこんなチャンスないんじゃないの?」


「でも向いてないし」


「そんなのやってみないとわかんないでしょう」


 押し付けがましい母に大袈裟なため息をつきたくなった時、情報番組をみているはずだった父がいつの間にかこちらに顔を向けていることに気がついて私はなぜか身を固くしました。


「方向転換なんて本人が望めばいつでもできるんだから、そうやってお前が急かす必要ないだろう。せっかく芸術学校に入れたんだから、四年間は好きに勉強させてやりなさいよ」


 父が言うと、母はまるで自分の親にたしなめられてきまりが悪くなったように唇を尖らせ、何も言わなくなりました。私も何も言うことができず、ただ視線だけ父の方へ送ると、父は少し悲しそうな顔をしてからテレビに向き直りました。


 そうやって父に庇ってもらう度、私が父に対して抱く何とも言えない罪悪感を、父は知っているのでしょうか。

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