第一章 夕闇の国

第1話

 「最近ますます空が暗くなってきているんじゃないか」


 放課後のバス停で、お爺さんが隣に立っているお婆さんにそう話しかける声が聞こえました。するとお婆さんは、そうねえ、と相槌を打ちます。私は俯きながらも、二人の会話をじっと聞いていました。


「幽霊が増えてるに違いないよ」

「そうねえ。困るわ。もう何年も晴れた空を拝めていないからねえ」

「ここらはあの学校があるから特になんだろう。芸術家の幽霊は芸術のあるところに引き寄せられてくるんだよ。全く、あそこも……どうにかしてくれないもんかねえ。あそこを除いて全部、廃校になったっていうのに、なんだってあそこだけ残ってるんだ」


 視線を向けずとも、二人が私にちらりちらりと目を向けていることはわかっています。二人は、私が芸術学校の生徒だと気づいているのです。このバス停を使う若者は、芸術学校の生徒たちくらいなものですから。


 日本の内海に浮かぶこの小さな島国、由瀨(ゆせ)に陽の光が当たらなくなかったのは、その上空を芸術家の幽霊たちが塞いでいるからだと人々は言います。それは本当なのかもしれません。本当ではないかもしれません。私にはわかりません。ですが、そのせいで芸術学校まで悪しきものと蔑まれることには違和感を覚えずにいられません。長いスカートを皺になる程握り締めながら私は静かに自分に言い聞かせました。


 悪いことなんて、何もしていない。

 芸術が悪いわけじゃない。


 お爺さんだか、お婆さんだか、どちらかがついた深いため息が聞こえてきます。居た堪れなくなってより一層頭を下げた私は、ほとんど無意識のうちにバス停を離れました。


 学校とオリーブ畑以外にはほとんど何もないところなので、バスに乗らないならば再び学校に戻る以外に選択肢はありません。でも別に、損をした気分にはなりませんでした。家に帰ったところで、心が休まるわけでもないのですから。


 学校に向かってオリーブの木々の間の道を一人静かに歩いているつもりでいたら、いつの間にか隣に人影が蠢いていることに気がつきました。しかしハッとしてそちらに目をやった時、それは人ではなく、幽霊だったことに気がつきます。


「学校に向かっているのね」

 女性の幽霊でした。二十代くらいの頃の姿をしているようです。亜麻色の髪が、木々の間を通り抜けてふわりと届いた風を受けて控えめに舞っていました。


「そうですよ。あなたも、あの学校に通っていたんですか?」

 私は心身ともに疲れ果て硬くなった顔に、辛うじて笑顔を浮かべて問いかけました。

「そうよ。踊っていたの」

「バレエ科だったんですね」

「あなたは絵を描いているのね。鞄が画材でいっぱいだわ」

「そうです。日本画を学んでいます」

「今はどんな絵を描いているの」

「コスモスの絵です。先月までには描き上げる予定だったんですけど、仕上がるより前に本物のコスモスが咲いてしまいそうです」


 幽霊は楽しそうに、軽やかにステップを踏みながら前へ進んでいました。久しぶりに人と話をすることができて、嬉しいのでしょうか。


 彼女のステップに合わせてゆっくりと歩きましたが、五分後には校門の前に辿り着きました。静かな微笑みを校舎に向けながら、彼女は言いました。


「久しぶりにバレエ科の練習室に行きたいわ。連れて行ってよ」


 私は思わず答えに詰まりました。そこはあまり行きたくない場所でした。そこに行ったら。

 会ってしまうから。


 けれどこの幽霊の願いを、頭ごなしに拒否するわけにはいきません。幽霊たちの願いを聞き入れることは、彼らの「旅立ち」の大きな助けになる。そして私は、彼らの「旅立ち」の手助けをすることを任務として与えられた人間だからです。


「もちろん。一緒に行きましょう」

 私は先ほどよりももっと優しい笑顔を彼女に見せました。


 バレエ科の練習室があるD棟は正門に一番近い校舎です。改築もほとんどされたことがない古い校舎ばかりの学校の中でも一番古いのですが、赤茶の煉瓦造りで深緑の蔦が程よく絡まった趣のある素敵な建物です。校舎に入るとなんとも言えない香りが鼻腔をくすぐりました。花の香りのような、香水の香りのような、美女の汗の香りのような、本当になんとも言えない香りでした。いくつかの練習室にまだ生徒が残っているようで、何曲かの音楽が混ざり合って聞こえてきます。


「懐かしい。変わっていない」

 ため息が混ざったようなその声に顔を上げると、彼女は二階に続く階段の踊り場あたりを見つめ、嬉しさにも悲しみにも見える表情をしていました。きっと学生時代を思い出しているのでしょう。私は右手を少し上げ、その薬指に光る薄紅の輝きを確かめてからこう尋ねました。


「あなたの練習室は、どこだったんですか?」


 彼女はふとこちらを見て少し微笑み、何も言わずに目の前の階段をふわりふわりと登り始めました。ほとんど見えない脚で。階段を三階まで上がり、迷いなく廊下を歩いていく彼女の後をついて行くと、一組の男女が優雅で優しい音楽に合わせてパ・ド・ドゥを踊っている部屋に辿り着きました。その二人を見た私の脚は突然その歩みを止めました。


 れい伽羅きゃらちゃん。

 二人で練習してるんだ。


「素敵なカップルね」

 その様子を見た幽霊は、穏やかな目でどこか物悲しそうに二人の踊りを見つめました。


 嶺は私と同じ歳で、今年の三月に高校を卒業してこの学校に入ったばかりですが、既にバレエ科の秀才、トップダンサーとして学校中に認知されています。学科を超えてみんなに知れ渡るようになったのは、その容姿のためでしょう。艶やかで真っ直ぐな黒髪と白い肌はまるで美しい女性のよう。しかし細くも力強くしなやかに伸びる四肢の持ち主で長身、切れ長の細い目と少し翳りのある表情。女性たちが幼い頃夢に見た憧れの王子様像をそのまま現実に引き出したような人なのです。


 そして伽羅ちゃん。彼女は私たちより一つ年上で、由緒ある家のお嬢様。彼女の美貌は学校の生徒だけではなく由瀨中が知っています。真珠貝のように輝く白い肌に薔薇の花びらの色を滲ませたような頬、深い湖の底のような黒く大きな瞳。そして女性にしては背が高いので、嶺と踊る姿はまるで優れたアーティストが手がけた美しい絵画から飛び出してきたように人々の美的センスにぴったりとはまり込むのです。


 そうです。二人は、さながら現実に舞い降りたプリンスとプリンセスなのです。

 ぼんやりと二人の姿を見つめる私と幽霊の姿に、嶺が気付きました。不意に嶺が踊りをやめたので伽羅ちゃんも動きを止めてこちらを見ました。瞬間、私を見る月夜の水面のような目の輝きが歪みました。しかし本当にほんの一瞬のことで、彼女はすぐ優美な微笑を浮かべて言いました。


春沢はるさわさん。久しぶりね。あなたもまだ残っていたの」

 伽羅ちゃんが嶺の元を離れ、一人で私に近づいてきました。真っ直ぐに、私だけに向かって。彼女には、幽霊の姿が見えないからです。


「こんにちは。絵がなかなか出来上がらないから、少しでも進めようと思ってたんですけど、その……行き詰まって散歩してたら、音楽が聞こえてきて……」


 下手な言い訳を捻り出しながら嶺を見ると、彼は静かに幽霊の表情を見つめて

いました。その表情に釘付けになってそれ以上何も言えないでいると、伽羅ちゃんが歌うような声で言いました。


「嶺も、春沢さんに会うのは久しぶりなんじゃない? せっかくだから一緒に帰ったら? おうち近くなんでしょう? 私もなんだか疲れちゃった。明日もあるし、今日はこのくらいにしておきましょう」


 そう言って伽羅ちゃんは嶺に、そして私に微笑みかけました。余裕の微笑み。才能も美貌も何もかも、伽羅ちゃんには遠く及ばないと自覚している私でも、その微笑みには胸がちくりと痛みました。しかしそんな小さな傷にはかまいもせずに、伽羅ちゃんは去って行きました。


毬子まりこ

 伽羅ちゃんの神々しい後ろ姿を見送っていた私を、嶺が呼びかけました。

「この人は」


 嶺は細い目で、呆然と幽霊を見つめていました。

「さっき出会ったの。昔このバレエ科の生徒だったんだって。この練習室を使ってたって言うから」


 久しぶりに会話をする嶺は、私の顔を全く見ようとしませんでした。ただ恋焦がれるように幽霊を見ています。

「ロミオとジュリエットね」


 幽霊が嶺の視線に答えるように見つめ返しながら言いました。

「とても素敵だった」

「ありがとう。昔この部屋を使っていたんだね。君が使っていた頃から、変わっていない?」

「変わっていない。少し寒くなった気がするけど」

「人が少ないからかな。以前より学校の生徒数が減って、バレエ科は特に人数が少ないんだ」

「そうなの……」


 二人の会話を聞きながら、私は嶺の手首に巻きついた真珠のブレスレットの輝きを見つめていました。静かに彼の手首を飾っていただけだった真珠たちが突然何かを思い出して慌てふためくように忙しない光を放ち始めました。どうやらこの幽霊は、今解放されなければならないようです。


「あなたはもしかして」

 何か言わなくてはと、私も一歩前に踏み出しました。

「踊りたくてここに来たんじゃないですか?」


 すると幽霊は突然明るいときめきに満ちていた目を伏せ、その場に座り込んでしまいました。


「踊りたかったわ。でも、踊れない」

「どうして?」

「彼女の踊りを見てしまった後では」


 幽霊の言葉に、先ほどの小さい心の傷が疼くのを感じました。彼女。伽羅ちゃん。やはり伽羅ちゃんは、誰もが魅了され、そして誰もが「勝てない」と落胆する、圧倒的な美と才能を持っているのです。


 嶺は幽霊の隣に腰を下ろしました。


「伽羅は確かにすごいよね。子供の頃から神童と言われて、誰にも負けない才能の持ち主だ。でも今の彼女を作り上げたのは、天性の才能だけじゃない。日々つま先から血が出るほどの練習を重ねてここまで来たから、今の伽羅がいる」


 踊りのセンスも知識もまるでない私にも、それはよくわかります。伽羅ちゃんの美しい踊りが積み重ねた鍛錬の賜物であること。決して何もせずともそこにあった才能だけではないと。


「そうよね」

 幽霊は悲しそうに呟きました。


「私は人の才能や美しさを妬むばかりで、自分と向き合わなかった。自分の実力を正しく測って、足りないところを補う練習をすることができなかった。他の人ばかり見ていたって意味がないのに。自分の踊りを見つめないと上手くならないのに。だから……主役にもなれなかった。いつも群舞ばかり」


 幽霊の声がどんどん掠れ、最後には儚い吐息のように聞こえなくなりました。すると嶺が立ち上がり、座り込む彼女に手を差し伸べました。


「踊ろう。君はどんな踊りが好きなの?」

「えっ」

「好きな演目はある? なんでもいいよ」

「私は……エスメラルダが好き」

「いいね。僕も好きだよ。フェビスをちゃんと踊ったことはないけれど。一緒に踊ってみよう」

「でも、私ずっと踊っていないし、あなたみたいに上手くもな……」

「僕らの好きなように踊るんだよ。踊りは元々、そういうものだよ」

 嶺の強い視線に根負けしたのか、幽霊がおずおずと立ち上がりました。

「毬子、音楽をかけて」


 そう言われても私にはエスメラルダのどの曲を流せばいいのか検討もつきません。オロオロしていると、棚に並んだレコードの一つがするりと床に落ちました。


「そうそれだよ」

 嶺が言うので、私はそれを拾い上げて、プレーヤーに載せました。力強い弦楽器の共鳴で、曲が始まります。嶺が踊り始め、それに釣られて幽霊も踊り出しますが、足取りはおぼつきません。両腕も自信がなさそうにふわふわと宙を舞うばかりです。表情は不安げで、見ていて胸が痛む踊りでした。


「踊りは楽しくない?」

 軽やかに踊りながら、嶺が幽霊に問いかけました。

「いいえ、久しぶりだから……どう踊ればいいか忘れてしまって」

「今の気持ちを踊ればいい」

「今の気持ち?」

「自分の好きな演目を、久しぶりに来たこの部屋で踊っている、今の気持ち」


 幽霊の空っぽだった目に、少し光が灯ったように見えました。少しずつ、指先まで彼女の心が通っていくように見えました。やがて彼女は彼女の踊りを始めました。きっと世界で一番美しいわけではないけれど、彼女の思いのこもった、見ている人の心の奥深くをときめかせる踊りを。しかし幽霊は心配そうでした。


「これでいいのかな」

「いいも何も、間違いなんてないよ。ただ自分が望む踊りを踊ればいい」

「そんな踊り方、今まで一度もしたことないわ」

「そんなことないと思う。君がバレエ科に進んだのは何故? バレエが楽しいと思ったからでしょう? どんなふうに踊った時、楽しいと感じたの?」


 曲調が変わります。力強い響きから、小さなたくさんの花びらが舞うような華やかな音楽になりました。幽霊は見えない何かを辿るように目を泳がせます。


「初めてトウシューズを履いた時、ポワントをした時、曲に合わせて踊った時、ワクワクしなかった?大切な誰かのために踊った時、幸せな気分にならなかった?」

「あ……」


 幽霊が声を漏らしたのと同時に、私たちの目の前に情景が広がりました。まだ日の光が届いていた由瀨の海辺で、一人の男性の前で楽しそうに自由に踊る彼女。海原を渡る白い鳥のように、真っ直ぐで眩しい瞳の輝き。


 素敵な踊り。


「夫は私の踊りを、素敵だ、綺麗だって言ってくれた。全然上手くなんかないのに。どんなに頑張っても、バレエ科にいたときは、周りの女の子たちに勝てなかったのに。優しく笑ってそう言ってくれたの」

「心から踊ったからだよ。誰かより上手に踊ろうとか、そんなこと考えないで、自分の気持ちに素直に踊ったから。エスメラルダだってそういう人だったはずでしょう」


 幽霊は嶺に支えられながら体をしならせ、美しく回転し、そして飛びました。二人の動きが止まり、部屋が静かになります。曲が終わっても温かい笑顔を崩さない彼女の心は、まだ踊り続けているのでしょう。


「なんの意味もない踊りばかり踊っていると思ってた。たくさんの人に認められることもできずに、舞台で花になることもできずに、ちっぽけな存在のまま終わってしまったから」


「それでもいいじゃない、大切な誰かのために、自分のために踊ることができたんだから。君の踊りは君の人生に花を添えたんだから。もう悔やまなくていいんだよ。これからは幸せな記憶だけ思い出して」


 幽霊は安心したように涙を流しました。そして、煌めく粒になって消えていきました。そしてやがてその煌めきさえも、私たちの目には見えなくなりました。


「由瀨がまだ幸せな国だった頃の幽霊だね。僕らが生まれるずっと前の時代を生きた人だ」


 嶺はようやくその細い綺麗な目で私を見ました。その視線に相変わらず心躍らせてしまう自分が嫌になります。

「一緒に帰ろうか、久しぶりに」


 

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