第15話

 ズキッとした痛みを感じて結菜は胸に片手を当てる。


「結菜? 花火、終わってるよ」


 陽菜乃の声に結菜は「ああ、うん」と頷きながら次の束を手に取る。


 ――なんだろう。なんか、変な感じがする。


 痛いのは胸だが、しかし心臓ではない。


「ねえ、結菜」

「んー」

「学校でも結菜って呼んでもいい?」

「んー」

「……聞いてんの?」

「へ?」


 結菜は瞬きをして陽菜乃に視線を向けた。瞬間、手元の花火がボッと音を立てて点いた。


「だから、名前。学校でも結菜って呼んでもいい?」

「え、いいけど」

「ほんと? 綾音、怒ったりしない?」


 よくわからないことを言ってくる。結菜は眉を寄せて「なんで綾音?」と首を傾げた。


「だって仲良いでしょ。一昨日も結菜のこと追いかけていったし。戻ってきたと思ったら親密な雰囲気になってたっていうか」

「わたしと綾音が?」

「そうだよ。しかもその日、一緒に帰ったでしょ」

「なんで知ってんの。怖いんだけど」

「教室の窓から見えたの。高校に入ってからは一緒に登下校はしてないって言ってたのに」

「偶然、昇降口で会ったんだよ」


 言って結菜は空いている左手に視線を落とした。一緒に手を繋いで帰ったところは見られていないようだ。


 ――なんでホッとしてんだろ。


 花火を見つめながらぼんやりと思う。


「へえ。偶然?」


 聞こえた陽菜乃の声に視線を上げる。彼女はなぜか怒ったような顔で結菜を見ていた。


「……あんたが不機嫌になる理由がわからない」

「わたしだってわかんないよ」

「なにそれ。めんどくさ」


 結菜はため息を吐くと「なんて呼んでもいいってば」と花火をグルグル回した。暗闇にぼんやりと光の輪が浮き上がっていく。


「じゃあ、ユイちゃんって呼ぶ」

「却下」

「えー。なんでもいいって言ったでしょ、我が儘はよくないと思うんだけど」

「どこが我が儘だよ」


 結菜は言いながらふと思い出して「そういえば明日は来れないから」と花火の先を砂に向けた。


「そうなんだ。用事?」

「うん。お墓参り」


 そのとき、陽菜乃の動きが止まった。


「ご両親、の?」


 どうやら誰かから聞いていたらしい。結菜は「んー、まあ」と頷く。


「父親のね」

「そっか」


 ちらりと見ると彼女の表情には僅かに困惑が混じっていた。


「父親と母親の命日は違うから。来週は父親の命日。明日は父親のための墓参り」


 ウソではない。明日行くのは父のところだ。しかし、そこに母はいない。別にそんなことを陽菜乃に告げる必要はないだろう。結菜は「前に住んでた街にあるんだけどね、お墓」と続けた。


「わりと遠いから、明日は一日がかりなんだ」

「そうなんだ」


 そう言った彼女の顔はどこか沈んでいる。そこに込められている感情は今まで何度となく見てきた同情だった。結菜は浅くため息を吐く。


「そういう顔、もう見飽きたからやめて?」

「え、あ……」


 陽菜乃は自分の頬に手をあてた。結菜は薄く微笑む。


「毎年のことなんだから別にもう大丈夫なんだよ。平気、平気」

「うん、そっか」


 しかし陽菜乃の表情は浮かないままだ。結菜は「ま、だからさ」と声のトーンを上げた。


「明日は待ち続けてもわたしは来ないからね?」

「わかった。てか、実はわたしも明日は来れないんだよね」

「なんだ。そうなんだ」

「というか、たぶん日曜は来れないかな。お母さんがいるから」

「ふうん」


 なんで、と聞くべきところだっただろうか。しかしきっと彼女は答えてくれない。さっきだって家のことを聞くとはぐらかされてしまったのだから。


「あの、平日はいつ結菜がバイトなのかもわからないからさ。だから、土曜日!」


 陽菜乃は終わってしまった花火を握りしめながら力を込めて言った。


「毎週土曜日、ここで待っててもいいかな?」

「来週からずっと?」

「うん」

「冬になってもずっと?」

「うん」

「寒いよ?」

「いい。結菜が来てくれるなら頑張って待ってる」


 不安そうに、子供のような瞳で陽菜乃は結菜を見つめてくる。結菜は手にしていた花火をバケツに放り込むとポケットからスマホを取り出した。


「家、近いの?」

「ここから十分くらい」

「……約十五分」

「え?」

「バイト先からここに来るまでにかかる時間」

「あ、うん」

「店出るときに連絡するから、時間合わせて来たらよくない?」

「えっと、つまり連絡先の交換を?」

「したくないならいいや」


 結菜はスマホをポケットに収めると次の花火の束を手にした。すると陽菜乃は慌てた様子で「待って待って!」と花火をバケツに投げてポケットをバタバタ叩く。


「あれ? ない。スマホどこやったっけ」

「あのデカい鞄のポケットとかじゃないの」

「あー、そうかも……。あっ」


 言いながらレジャーシートに走って戻ろうとした陽菜乃は、砂に足を取られたのか体勢を崩した。その前にはバケツがある。


「あっぶな!」


 咄嗟に結菜は彼女の腕を掴み、思い切り引き寄せた。勢い余って倒れてきた陽菜乃を抱きとめながら結菜は安堵の息を吐く。


「なんでコケんの。子供かって」

「ご、ごめん」


 結菜の胸元に顔を埋めた陽菜乃がくぐもった声で言う。彼女の顔は結菜のジャケットに押しつけられていた。しかしなぜか彼女はそのまま動かない。

 不思議に思っていると、背中に回した結菜の手が彼女の動きを封じていたことに気がついた。


「ああ、ごめん。つい」

「……ううん。ありがとう」


 ようやく顔を上げた彼女と目が合う。瞬間、結菜の心臓が跳ねた。


 ――近い。


 あのときと同じくらいに近い位置に彼女の顔がある。わずかに彼女の口が開き、温かな吐息が首筋を掠めた。

 ふわりと香ってくるのは火薬と、ほんのり甘い彼女の香り。その香りから脳裏に蘇ったのは彼女の柔らかな唇の感触と海の味だった。


「えっと、スマホ……」


 陽菜乃はそっと結菜から離れると顔を俯かせながらレジャーシートへ戻っていく。結菜は胸に手を当て、密かに息を吐いた。


 ――なに考えてんだろ。


 そして何を期待してしまったのだろう。陽菜乃の背中を見ながら結菜は額に手を当てた。


 ――なんか、ダメだ。


 彼女といると調子が狂ってしまう。ふとした瞬間に、よくわからない感情が込み上げてくる。心臓が煩く鳴り始めてしまう。


「結菜。これわたしのアカウント」

「――うん」


 顔を上げないまま彼女はスマホを差し出してくる。

 今、彼女はどんな表情をしているのだろう。そして自分はどんな表情をしているのだろう。


「よし! 花火、続きやろう?」


 陽菜乃は気持ちを切り替えるように言うと顔を上げて微笑んだ。それは彼女曰く、結菜にしか見せない特別な笑顔。


「ほら、早く」


 陽菜乃は動こうとしない結菜の手を掴むと引っ張って歩く。冷たい手だった。それはきっと結菜も同じ。二人ともすっかり冷え切っているのだ。それでも、なぜか顔だけが熱い。


「さっき、ちょっと暖かかったね」


 ロウソクの前にかがみながら陽菜乃が言う。


「まあ、そうだね」

「結菜の匂いがした」


 振り返った彼女はそう言ってはにかむように笑った。結菜は思わず彼女から目を逸らしながら「わたしは火薬の匂いしかしなかったけど」と早口で言い返す。


「え、わたし火薬くさい?」

「煙、全身に浴びてるんじゃない?」

「煙なんてわかんないよ。暗くて」

「風上に立つんだよ。花火はあっち、身体はこっち」


 結菜の言葉を真剣に聞きながら陽菜乃はパチパチと弾ける花火を持って立ち位置を考え始める。そんな彼女から少し距離を取って結菜はロウソクの前に屈み込んだ。そして深く息を吐き出す。


「――わたしの匂いってなんだよ」


 胸のドキドキは治まってくれない。決して嫌ではない。けれど心地良いものでもない。顔が火照ってのぼせてしまいそうだ。

 結菜はもう一度息を吐き出して気持ちを落ち着けようとする。そのとき、ポケットに入れていたスマホが鳴った。メッセージが届いたようだ。

 見ると、画面にはカナエの名前。


『帰り待ってるよー。まだかかりそう?』


 そんな内容に続けて泣き顔の謎キャラクターのスタンプまで送られてきた。


「げっ、やばい」


 結菜は慌てて『もうすぐ帰るから』と返信すると花火をガッと掴んだ。そしてロウソクにそのうちの一本を向ける。


「なに、どうしたの?」

「おばさんから連絡が」

「あ、もう帰らなきゃ?」

「うん。だから花火一気にやるよ」

「え、いいよ。余ったのは捨てるから」

「なに勿体ないことを! ほら、陽菜乃もまとめて持つ」


 結菜が言うと陽菜乃は「なんか、今度は結菜が子供みたい」と笑った。そして結菜と同じように次々と花火を点けていく。

 砂浜に響くのは花火が弾ける音と結菜と陽菜乃の笑い声。そして時々聞こえてくる穏やかな波の音。

 心地良い空間。いつもとは違うけれど安らげる時間。治まってはくれない結菜の胸の高鳴りは、その日いつまでも耳の奥で鳴り続けていた。

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