第8話
「なんで来なかったの?」
結菜は少し考えてから首を傾げる。
「え、何が?」
「だから!」
彼女は顔を上げて「昨日、なんで来なかったの?」と続けた。結菜はしばらく彼女を見つめるとさらに首を傾げた。
「いや、風邪引いてたし」
「え……?」
「熱で学校も早退して、ずっと寝てたんだけど」
「え、そうなの。大丈夫?」
「まあ……。そもそも、わたし別に毎日ここに来るわけじゃ――」
もしかして彼女は待っていたのだろうか。
昨日もここで、一人で。
ギュッと握られた手は冷たい。そういえば、どうして彼女はまだ制服なのだろう。鞄もそこに投げるようにして置かれている。学校が終わってから、ずっとここにいたのだろうか。
――どうして。
考えていると、彼女は「そうなんだ……」と残念そうに呟いた。
「じゃ、いつ来るの?」
「気が向いたら」
「ふうん」
わかった、と彼女は考えるように頷いた。なんとなく彼女の考えがわかってしまい、結菜はため息を吐く。
「ウソだよ。だいたいバイト終わりに来るの。金・土・日は固定でシフト入ってるから、必ずここ通るよ」
「ああ、通り道なんだ?」
「まあね」
実際のところは遠回りだが通り道であることは違いない。結菜は頷き「だから毎日ここに来ようなんて馬鹿なことは考えないでよ?」と続けた。すると彼女は一瞬目を見開き、そして微笑んだ。
「バレたか」
「見えちゃったよ、考えてること」
結菜は軽く息を吐くと「ていうかさ」とニヤリと笑みを浮かべた。
「そんなにわたしに会いたいんだ?」
「うん。会いたい」
からかうつもりで言った言葉に彼女は嬉しそうな微笑みを返してきた。その笑顔があまりにも無垢で、結菜は思わず顔が熱くなるのを感じる。
「な、なんで……?」
「楽しいから。ここで、あなたとこうして二人で過ごすのが」
「学校じゃダメなわけ?」
「ダメだよ。ここでないとダメ」
「なんで?」
「だって、ここで起きた事は全部忘れるんでしょ? 嫌なことも、面倒なことも、好きとか嫌いとかそういう感情も、何もかも」
「まあ、そうだね」
正確には忘れられそうな気がする、と結菜は言ったのだ。
実際、何もかも忘れられるわけがない。現に結菜は一昨日の出来事でずっとモヤモヤしてしまっていたのだから。しかし彼女にはそんな結菜の気持ちは伝わっていないらしい。
「だから、ここじゃないとダメ。ここであなたと一緒にいるのがいい」
結菜はじっと彼女の顔を見つめる。
「……わたしと楽しく過ごした時間を忘れたいってこと?」
そう訊ねると、彼女は少しだけ考えるように眉を寄せてから「怒った?」と困ったように微笑んだ。結菜は深くため息を吐く。
「別に怒ってないけど、あんたの言ってることがまったく理解できない。もう帰るわ」
「やっぱり怒ってるじゃん」
「じゃなくて、わたしこう見えても病み上がりなの。早く帰らないと怒られるんだって」
「ああ……」
陽菜乃は納得したように頷いたが、しかし結菜の手を放そうとしない。
「そっちも帰れば? てか、なんで一緒にびしょ濡れになったのにあんただけ元気なわけ? 昨日もここにいたんでしょ?」
すると陽菜乃はニヤリと笑って「結菜が軟弱なだけじゃない?」と言った。
「これでも滅多に風邪引かないと評判の健康体ですが」
結菜は彼女を睨むように見下ろすと「ほら、さっさと立って。帰るよ」と彼女の手を引っ張った。
「わっ……」
陽菜乃は驚いたような声を出して立ち上がる。そしてポツリと「馬鹿力」と呟く。
「何か聞こえた気がする」
「気のせいでしょ。行こ」
言って彼女は鞄を拾い上げると、なぜか手を繋いだまま砂浜を歩き出す。
ザーッと穏やかな波の音に混じって砂を踏む微かな音が聞こえる。結菜と陽菜乃は何も言わず、ただ手を繋いで歩き続けた。
いつも一人で来ていた海に誰かと一緒にいる。何も考えず、全てを忘れようと来ていた場所で新しい感情や想いが生まれていく。それでも心地良く感じるのが不思議だった。
結菜は歩きながら横目で陽菜乃を見る。彼女はどこか嬉しそうな表情で足元を見ながら歩いていた。さっきまで冷たかった彼女の手は、いつの間にか温かい。
「……チャリ乗ってく? 家、遠くないなら送っていくけど」
あと一歩で砂浜から上がってしまう。そこで結菜は足を止めて聞いてみた。しかし彼女は「ううん。一人で帰るから」と答えた。
「そう」
「うん」
なんとなく二人とも立ち止まったまま顔を見合わせる。そして、先に手を放したのは陽菜乃だった。
「じゃ、帰るね」
言って彼女は一歩、道路へと進んだ。そして結菜を振り返ると「さよなら、松岡さん」と言い残してさっさと歩き去って行く。振り返りもしない。
「……謎だ」
結菜はため息を吐きながら砂浜から上がって自転車へ向かった。まったく彼女の考えていることが理解できない。結局、キスしてきた理由もどうしてここで結菜のことを待っていたのかも、よくわからないまま。だけどはっきりしていることが一つ。
「そんなに会いたいのか。わたしに」
自転車に跨がってペダルに足を乗せながら結菜は呟く。そして自分の手を見つめた。まだ陽菜乃の手の温もりが残っている。
――うん、会いたい。
そう言った陽菜乃の笑顔がふいに蘇り、結菜は再び顔を赤らめた。全身が熱くなってくる。なんだかとても嬉しい気持ちになってしまうのは何故だろう。
「なんだ、これ」
顔を手で覆いながら結菜はため息を吐くと夜空を見上げた。すっかり雲が晴れた夜空には無数の星たちがいつもと変わらぬ輝きを放っている。
「……もう少し海眺めてから帰ろうかな」
一人呟きながら結菜は自転車を降りると、誰もいなくなった浜辺へと戻っていった。
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