第7話
放課後になると結菜はそのままバイトへと向かった。昨日シフトに入っていなかったのは幸いだった。
バイト先は夫婦で経営している定食屋だ。小さなお店だが人気があるため、いきなり休むようなことはしたくない。スマホにはカナエから今日は無理せず帰らせてもらえとメッセージが入っていたが、それはできない。
しっかりと勤務を終えた結菜は少し冷たい空気の中、自転車を漕いでいた。
――今日はどうしようかな。
ゆっくりペダルを踏みながら考える。また海へ行ってみようか。しかし早く帰らなければカナエに怒られるかもしれない。バイトもしっかりしてしまったわけだし。
だけど海へ行けばまた会えるかもしれない。彼女に……。
「ちょっとだけ」
自分に言い訳をするように呟いて結菜は海に続く道へ自転車を走らせた。何を期待しているのかよくわからない。
速川陽菜乃が彼女であることを確かめたいのだろうか。いや、この気持ちはそれだけではないような気もする。
よくわからない。
わからないけれどペダルを踏み込む足には力が入っていた。
やがて海が見えてきた。結菜は自然と砂浜に視線を向ける。そしてブレーキを握った。
「いるじゃん――」
弱い月明かりに照らされた浜辺には制服姿の少女がぽつんと座っていた。結菜はそっと自転車を降りると砂浜へ向かう。
砂に乗せたスニーカーがギュッと音を立てた。それでも波打ち際に近い場所に座る少女は振り向かない。彼女は足を抱えるようにして暗い海を見つめているようだった。
雲が晴れたのか強くなった月明かりに照らされた彼女の横顔を見て、結菜は自然と足を止めていた。悲しそうで寂しそうな表情。
まるでそこだけ切り取られた別世界のような、そんな光景。
とても声をかけることなどできなかった。このまま帰ってしまおう。そう思って引き返そうとしたときザッと砂を蹴り上げてしまった。
「……いつからいたの?」
振り返った彼女はじっと結菜を睨むように見つめてからポツリと言った。
「さっき来たとこ。今、バイトの帰りで」
「そう」
言って彼女は自分の隣をポンポンと叩いた。座れということだろう。
「制服、砂だらけにならない?」
「ずぶ濡れよりマシ」
「……たしかに」
結菜は頷き、彼女の隣に腰を下ろした。彼女は再び海の方へ視線を向けている。波が押し寄せる音が響いた。
「速川さん、だよね?」
訊ねると彼女はチラリと視線を結菜に向けてから「まさか今日の今日でもう名前忘れた?」とため息を吐いた。
「んなわけないでしょ。でも、なんで学校で初めましてなんて――」
「忘れるって言ったから」
「え……?」
陽菜乃は結菜を見ると柔らかく微笑んだ。
「ここでのことは忘れるってあなたが言ったから」
「ああ、まあ」
言ったけど、と結菜は彼女から視線を逸らして両足を抱え込んだ。そして深いため息を吐く。
「なに、辛気くさい。ここではデトックスするんじゃなかったの」
「誰のせいだよ」
「誰のせい?」
微笑みながら彼女は首を傾げる。結菜はさらに深いため息を吐いてから「あのさ」と膝に頬杖をついて陽菜乃を見た。
「色々と聞きたいことがあるんだけど」
「いいよ。わたしも聞きたいことがあるし」
結菜は眉を寄せる。
「なに?」
「先にそっちからどうぞ」
結菜と同じように膝に頬杖をついて彼女は言う。
「……なんで名前、知ってたの」
「学校で教えてくれたでしょ」
「じゃなくて、一昨日の夜だよ。別れ際に――」
「ああ、キスの後にお別れの挨拶したね。たしかに」
結菜は思わずドキッとしてしまう。瞬間的にそのときのことがまた蘇ってくる。しかし彼女は平然とした様子で「書いてあったんだもん」と続けた。
「書いて……?」
「タオルに名前。可愛い字で結菜って」
それを聞いて結菜は脱力しながら膝に額をつけた。カナエの仕業である。
彼女はなぜか結菜の持ち物に名前を書きたがるのだ。長年やめてくれと言い続けて最近はようやくそういうこともなくなったのだが、どうやら彼女に渡したタオルはその被害に遭っていたようだ。
普通に恥ずかしい。
顔が赤くなるのを感じながら、恥ずかしついでに「じゃあ――」と口を開いた。
「なんでキスしたの」
膝に額をつけたまま答えを待つ。ドキドキと心臓が鳴っている。ザーッと波が押し寄せてくる音が聞こえる。その音に混じって秋の虫の声も静かに響いていた。
「――したかったから」
小さな声が聞こえた。結菜はそっと顔を上げて彼女を見る。陽菜乃は海を見つめていた。
「は? なにそれ。誰でもよかったってこと? あ、あれか。アメリカ帰りだから向こうの習慣とかそういうこと?」
思わず早口でまくし立てると彼女は笑って「違うよ」と結菜を見た。
「アメリカでもわたしが通ってたのは日本語学校だったし。三年しかいなかったんだから、そこまで向こうの文化に慣れたりしないって」
「じゃあなんで? したかったとか、ちょっと意味わかんないんだけど」「ファーストキスだった?」
いたずらっ子のような顔で彼女は首を傾げる。結菜は彼女を睨みつけると「帰る」と立ち上がった。
「え、待って! 待ってよ!」
慌てた様子で陽菜乃は結菜の手を掴んだ。
「ごめんね。ごめん。怒らせるつもりはなくて……。怒らないで」
結菜の手にすがるようにしながら陽菜乃は項垂れてしまった。
「別に冗談であんなことしたわけでもなくて、ただわたしもよくわからなくて」
「……なにそれ」
「あのとき、びしょ濡れになってるあなたが月明かりですごく綺麗に見えて、キスしたいって思っちゃって」
「綺麗って……。それも冗談か何か? わたしをからかって遊ぼうとしてる?」
「冗談でキスなんかしない」
陽菜乃は顔を上げ、結菜を真っ直ぐに見つめながら言った。結菜はそんな彼女を冷たく見下ろす。
「したくなったらするのに?」
「嫌だったのなら謝る。ごめん。ほんとに、ごめん。だから怒らないでよ」
子供のように泣きそうな顔で彼女は言う。結菜はため息を吐くと空いている方の手で頭を掻いた。そして「それで、なに?」と彼女に聞いた。陽菜乃は意味がわからなかったらしく、きょとんとした表情を浮かべている。
「聞きたいことあるんでしょ?」
「あ、うん」
彼女は想い出したように頷くと、結菜の手を掴む手にグッと力を込めて顔を俯かせた。
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