第二話 青き蓮
翌日の夜明け頃、ダルシャンとジャニは王都へ向けて旅立った。愛用の鉢とすりこぎ、養父の形見の小さなお守りなど、数少ない荷物を持ってダルシャンと馬に乗る。初めは慣れない乗馬に少しびくついたが、そのうち慣れた。
馬は森を抜け、村々の間を駆ける。どこまでも続く田畑を通り過ぎ、緩やかな丘陵地帯を通って、急峻な峡谷に至った。山肌に刻まれた細い道を辿り、上へ上へと登ってゆく。息が白く曇り、周囲にかかる薄い霧と混ざり合う。
だが、やがて視界が開けた。霧の向こうに浮かび上がった光景を見て、ジャニは瞠目した。
眼下に広がるは、山嶺に抱かれた広大な平地。そこに白い土や石でできた家々が所狭しと並んでいる。
だが驚くべきはその家々ではなく、扇状の盆地が収斂する地点にそびえる大いなる建造物だ。
それを喩える言葉をジャニは持たない。ひときわ太く丈高い古木も、森の背後にあった崖も、目の前の威容には及ばない。
その建造物は白く、そして青い。数多の真白い石を、大地を覆うほど広く、空を衝くほど高く積み上げて、何層もの楼や塔、頑強なる壁が築かれている。それが空のごとく青い石で絢爛に飾られ、さらにはあちこちの窓に透き通った青の光さえちらついて見える。色つきの「硝子」というものがふんだんに使われているのだと、ジャニは後日になって知ることになる。
傾き始めた日の中で、それは燦然と輝いていた。ただ圧倒されて、ジャニは深い息をついた。
「美しかろう? 我が曾祖父から祖父の代にかけて、
「……なんて、大きい」
そう呟くと、ダルシャンは得意げな声を発した。
「ふふん、お前は王都どころかまともな街も見たことがなかろうからな。ここからの眺めは格別だ。堪能しておけ」
ところで、とダルシャンは言う。ジャニは背後の彼を振り仰いだ。
「何でしょう」
「お前のジャニという名はどうにも貧相だ。俺の妃にはふさわしくない。だから代わりの名を考えてやったぞ」
したり顔、としか言いようのない笑顔で、ダルシャンは宣する。
「今日からお前は、ジャヤシュリーだ」
「そんな! お伝えしたはずです。ジャニというのは大切な名で……」
「騒ぐな。ここからは下り坂だ、舌を噛むぞ」
ジャニの抗議を聞きもせず、ダルシャンは馬の手綱を取る。馬が闊歩し始め、ジャニは慌てて口をつぐんだ。
※
「ダルシャン様! ようやくお戻りで。心配いたしましたぞ」
王城の門が開く。ダルシャンが馬を降りるや真っ先に駆け寄ってきたのは、白いひげをたくわえた男だった。老いてはいるが、腰には大きな剣を
ダルシャンは老人を一瞥し、溜め息をついた。
「大げさだ、バーラヤ。――この女はお前に任せる。侍女を集め、よく面倒を見させろ。そうだな、まずは風呂にでも入れてやれ」
言いながら彼はジャニを馬から抱き降ろす。バーラヤ、という名らしい老人は怪訝そうにダルシャンとジャニを見比べた。
「ダルシャン様……こちらは?」
「我が妃となる女、ジャヤシュリーだ。次の吉日に式を挙げる。父上にも伝えておけ」
ニッと笑い、ダルシャンは馬の手綱を引いてきびすを返す。バーラヤの懐疑の表情が驚愕に変わった。
「何……ですと!? そんな。お待ちくだされ、ダルシャン様!」
しかしダルシャンは振り返らない。厩舎番と思しき少年らに馬を預け、そのまま歩き去ってゆく。
バーラヤはしばらく頭を抱えていたが、やがて大きく溜め息をついてジャニの方を見た。どうしていいか分からず、ジャニはただ目を伏せる。バーラヤは、やれやれ、と言いたげにかぶりを振り、集まってきていた侍女たちに声をかけた。
「――お前たち、ひとまず仰せのとおりに。任せたぞ」
※
集まった侍女たちはジャニを王宮の中へと導いた。白と青の王城内は外に劣らず絢爛たる美しさだった。天井は見上げるほどに高く、粛々と歩く侍女たちの足音が響く。立ち並ぶ柱の向こうには蓮の池や水場がいくつも見える。思わず見とれていると、侍女のひとりにわざとらしくぶつかられた。慌てて余所見をやめ、導かれるままに進んだ。
案内された風呂はにわかに信じられぬほどの大きさだった。広々とした石造りの池に水が溜められ、色鮮やかな花々が浮かべられている。うながされるままに服を脱ぎ、水に足を浸けてみる。身を切る冷たさを想像していたが、ほどよく温かかった。
疲れた体が温もりを求め、つい遠慮なく肩まで浸かってしまう。すると侍女たちが集まってきて、泡立つ布で全身をぎしぎしと音がしそうなほどに擦られた。小川で身ぎれいにはしていたはずなのだが、王宮の「身ぎれい」は基準が違うのだということを、ジャニは文字通り痛いほどに思い知った。
風呂から上がると、今度は服を着付けられた。長く幅のある腰布を、たっぷりとした
服の後は髪を油で梳かされ、化粧というものをされた。噂にしか聞いたことのない道具が次々と出され、頬や唇や目元を侍女たちに弄り回される。できあがった顔は見せてもらえず、おかしなことにされていないかと若干の不安が兆した。
すべてを終えた物言わぬ侍女たちは、ジャニを王宮奥の部屋へと連れていく。広く豪奢なその部屋にはすべらかな絨毯が敷かれ、いくつもの柔らかそうな枕が並べられていた。その中に自分の粗末な荷物がぽつんと置かれているのを見つけ、ジャニは小走りに駆け寄った。中身がなくなっていないか検めているうちに、侍女たちは部屋を出ていった。
荷物の中から養父のお守り――銀の首飾りを出し、抱きしめる。胸が痛いほど脈打っていた。
ふいに背後から足音がした。振り返ると、同じく着替えたらしいダルシャンが部屋に入ってきたところだった。
ジャニの顔を見て、ダルシャンは片眉を上げた。
「ふむ」
大股に歩み寄り、床に膝をついてジャニのあごに手をかけ、顔を上げさせる。そのまましげしげと見て、彼は口の端で笑った。
「お前、こうするとなかなか見目がいいな」
「ご冗談を……」
どこまで本気にしてよいのか分からない。自分で自分の顔は見られないのだから。
ダルシャンは小さく肩をすくめ、絨毯の上に腰を下ろした。
「星読みに占わせたぞ。二日後が吉日だそうだ。夕刻に式を挙げる。父上――国王にも話はつけておいた。老いぼれや僧侶連中はぎゃあぎゃあ言っているが、無視して進めるぞ。いいな?」
「……はい」
二日後に挙式とは急な話だ。いや、そもそもすべてが急なのだが。昨日出会ったばかりの男に求婚され、素直に応じてしまうなどとは。
けれど、これは自分の決断だ。彼の求めるものを見てみたい。そう考えたのは自分自身なのだ。
お守りを握りしめ、呼吸を整える。これから何が待っているとしても、心を強く持たなければならなかった。
そんなジャニの決意を知るよしもなく、ダルシャンは部屋の中を見回した。
「それにしても質素な部屋だ。明日にはもう少しマシなところに移らせてやる。今夜は我慢していろ」
「……え」
自分の目には輝いているとしか思えない部屋を、ジャニは驚愕して見回す。
やはり心を強く持たなければならないようだった。
※
二日後。挙式の日がやってきた。
一昨日よりもさらに多くの侍女たちがジャニの部屋――ダルシャンに移らされた、いっそう豪奢な部屋である――に集まり、働き蜂のようなせわしなさで支度を始めた。
後ろに引きずるほどにたっぷりと布を使った衣装を着せられ、肩が凝りそうな数の装飾品を重ねられる。香り高い油で梳かされた髪を結い上げられ、美しい刺繍の入った布をかぶせられる。
両手にはヘンナで細やかな模様が描かれ、顔には化粧を施される。どんなふうにされているのかと思案して少しそわそわしていると、侍女のひとりと目が合った。ジャニと同じくらいの年頃の若い娘だ。彼女はにこりと笑い、小さな鏡を差し出した。
「どうぞ、こちらを」
言われるままに覗き込む。こちらを見つめ返しているのは、自分とは思えぬ花嫁の姿だった。香油のおかげでつやの出た黒髪、顔周りできらめく飾り。褐色の頬にはやわらかく紅が差され、赤土色の瞳は黒く縁どられている。
驚きで言葉が出ぬまま、鏡を貸してくれた侍女の方に向き直る。侍女は人懐っこい顔で微笑み、うなずいた。
「お美しいですよ」
誰からも受けたことのない直截な誉め言葉。頬がじわじわと熱くなるのをジャニは感じた。
日が沈み始める頃、ジャニは宮殿の広い前庭へと導かれた。そこには花々で飾られた天蓋が設けられ、大勢の人が集まっていた。数多の知らぬ顔に囲まれ、その中におそらく国王だろう人物もみとめて、ジャニの心臓がにわかに激しく脈打ち始める。知った顔――同様に着飾ったダルシャンの姿を目にしても、その拍動は一向に収まらなかった。
天蓋の中央にある金属の炉に聖火が灯され、式が始まる。僧侶が魔を払う
供物の儀が終わると、ダルシャンが右手を差し出してきた。一応、侍女に話は聞いている。これからふたりで手を繋ぎ、聖火の周りを七度回る。それをして初めて、正式に婚姻が結ばれたことになるのだ。
ダルシャンの手に自分の手を重ねると、その大きさの違いに改めて気づかされる。強靭な弓を引いている手だから、自分のそれよりも力強いのは当たり前ではあった。ダルシャンがゆっくりと火の回りを歩き出す。その後をついてジャニも歩き始めた。
一周目は尽きぬ糧を祈る。二周目は心身の壮健を祈る。ところが、三周目に踏み出したそのとき。
強い――強い風が、王城を駆け抜けた。
それは人々の髪を乱し、衣を巻き上げ、花で飾られた天蓋を大きく揺らし――聖なる炎を吹き消した。
集った人々がざわめく。僧侶が色を失い、国王と思しき男性が豪奢な座から腰を浮かすのが見えた。
ジャニは思わずダルシャンを振り仰いだ。ダルシャンがこちらを向き、小さく笑んだ。
「ジャヤシュリー」
そう呼ばれ、ジャニは自分に何が求められているかを悟った。
繋いだ右手をほどき、手のひらを差し出す。するとそこに蒼い炎が宿った。
ふう、と息を吹き、生まれた火球を空中に滑らす。炎はふわりと漂い、金属の炉に落ち、そして高く高く燃え上がった。
人々が一斉にどよめいた。その反応が喜ぶべきことなのか憂うべきものなのか、ジャニには分からなかった。
けれどそれを切り裂くように、ダルシャンが声を響かせた。
「見たか。これこそが我が妃の力である」
ダルシャンは天蓋の下から一歩を踏み出し、式に集った客の顔を見渡した。
「炎は神々と我らを繋ぐ聖なるもの。そして青はこのニーラパドマの象徴たる色」
言ってダルシャンはジャニを見る。堂々と延べられた手が彼女を指し示す。
「ゆえにこそ、蒼き炎を操る我が妃、ジャヤシュリーの存在は吉兆である。この王国の末永き繁栄を約束するものである!」
そう言い切って、ダルシャンは拳を突き上げる。
人々のどよめきが、次第に喝采に変わっていった。
――
歓呼の声が王城に響く。窓の青い硝子が震えるほどに響く。
ジャニは戸惑って周囲を見回した。そのとき、ひとりの男と目が合った。
国王夫妻の隣に座したその男は、ダルシャンよりも十歳以上は年上に見えた。その男の目は、どこかひどく冷たい。その冷たい目がジャニを睥睨する。
けれどジャニが固唾を呑むや、男は目を逸らした。そのまま視線は二度と合うことがなかった。
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