「それで?」すぐにジュードが気を取り直すように言う。


「この詩歌に対するお前の解釈を聞こう。余計な口を挟んだんだ、さぞ良い意見があるんだろうな?」

「え、あ、ええっと、……勘違いかもしれないんですけど、」

「前置きはいい。早く言え」


 顎でしゃくられ、レイはおずおずと切り出す。


「ちょっと、癒しの歌にも聞こえるな、と思いました。母って、どことなく癒しのイメージがありませんか?」

「産み出す存在、ではなく、癒し?」

「はい。乾きに雨、氾濫に火、っていうところと、母をくっつけると、そうかなって……」

「乾きに雨、氾濫に火……これに、『空に嵐』が並ぶ……?」


 それきりジュードはしばらく無言で思案していたが、突然、バクン、音を立てて書物を閉じた。

 驚いて肩を跳ねさせたレイの頬に、かすかな雷気が散る。危なかった。また燃やすかもしれなかった。心臓の上あたりをそっと抑えると、ジュードの視線を感じた。

 見れば、ジュードはまっすぐレイを見つめている。見透かそうとするかのような強い眼差しに、本物のドラゴンに射竦められたあの日の感覚を思い出した。収まりかけていた雷気が、また頬に散る感触がする。


「どうか、なさいました?」

「いや、……一つ、仮説を立てた。実験がしたい。付き合え」

「実験、ですか?」

「ああ。今のままじゃ机上の空論だからな。実践無くして仮説は証明されない」

「それは構いませんけど……内容は?」

「当日知らせる」


 ジュードはそう言うと席を立つ。さっさと出て行くその背中に、「もうお帰りに?」と思わず問いかける。


「用は済んだ。それに、これ以上長居すると……鼻がイカれる」

「え……な、なにか臭いますか!? ごめんなさい、あの香油はもう使わないようにしてるんですけど……!」


 ギョッとして立ち上がると、「違う」とすぐに首を振られた。


「臭いんじゃない。ただ……」

「た、ただ……?」

「……身を寄せたくなる」

「はあ、身を……身を?」


 なんて?


 言いづらそうにするから固唾を呑んだのに、思わぬ返答に間抜けな声が出てしまった。


「それは、なぜ……?」


 呆然と問えば「俺が知るか」と吐き捨てられた。


「とにかく、脳みそごと引っ張られるような匂いが、お前からする。長居は互いに毒だ」

「そ、うでしたか。では。私も、旦那様を傷つけるのは本意ではありません」


 す、と身を引いて礼を取ると、つむじに視線が突き刺さった。


「……呑気なことを」


 呟かれ、はて? と顔を上げる。


「なにがですか?」

「男と二人で傷つけられる心配でなく、自分が傷つける心配とは……いや、意味が分かっていないのか?」

「はあ」


 なんだろう、悪口を言われている気がする。


 ちっともピンと来ていないレイを、ジュードは哀れむような目で一瞥し、


「食い散らかされたくなかったら、俺と二人の時は、最大限に警戒しておくんだな」


 と、よく分からない捨て台詞を吐いて去ろうとする。レイは慌てて追って廊下まで出て「旦那様」と呼び止めた。

「なんだ」振り返った壮絶な美貌と、眉間に浮かぶ深いシワに気圧されながらも、


「あの、おやすみなさい。良い夢を」


 と告げる。ジュードは一瞬虚を衝かれたような顔をしたが、やがて少し居心地悪そうに


「……早く寝ろ」


 と言って、ゴツゴツと硬質な音を立てて去っていった。


「おやすみくらい返してもバチ当たらないですよね」


 ジュードが去るまで外で待機していたヨルが、レイに歩み寄りながら呟く。それに「そうね」と言い、


「でも、聞いていたより全然……」


 レイはそこで言葉を止めた。続きを言うのが憚られたのだ。

 ヨルが「なんです?」と首をかしげる。


「いいえ。なんでもないの。早く寝に行きましょう、ヨル」


 怪訝な顔のヨルを連れて、レイはこっそり考える。


 私の夫は、聞いていたより全然、──乱心しているようには見えない。


 というより、ものすごく理知的な人間に思えるのだ。

 最初はもちろん、とんでもない人だと思った。だが、それは先入観が見せた幻だったように思える。

 常に合理的な取捨選択を心がけ、その上で最良の一手を選び取る、そういう稀有な人物。狡さがなく、責任感があり、謝罪もでき、部下にも慕われる。ほかに方法がないとなれば、自ら手を差し伸べることも厭わない。たとえそれが、身になるかならないか分からない、無用の妻への読み聞かせであっても。

 少なくとも、家族を失ってあれほど心を痛めて自分を責める人が、それでも強くあろうと立ち上がった人が、理由もなく実弟を殴りつけるとは思えない。


「いつか理由を聞けるかしら……」


 護衛室に向かうヨルと別れ、寝室で一人になってから、レイはそっとひとりごちた。言ってから、ふいに気づく。


 ──私、あの方に親しみを覚えている。

 理不尽と思っていた事件にも、きっとなにか理由があったはずだと、そう思ってしまうくらいに。


 それが彼自身に魅了された故なのか、孤独で目が眩んだ故なのか、その時のレイにはまだ判断がつかなかった。

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