「セッタぁ!」

「はいはい、すぐに!」


 声より早く、地面に叩きつけられた乗り手に滑るようにして駆け寄ったセッタは、乗り手を引きずってドラゴンの足元から遠ざける。そのすぐ後にドラゴンが地団駄を踏むようにステップを踏み出したので、間一髪だ。


「退避完了、ボス!」


 乗り手を柱廊に引き込んだセッタが叫ぶ。するとジュードの雰囲気がガラリと変わった。

 先ほどまで確かにそこにいた人間、ジュード・ドラクル三世はもういなかった。

 いるのは、なわばりを無遠慮に踏み荒す不埒者へ、毛を逆立てて威嚇する獰猛な獣一匹。

 獣が口を開く。

 従わせるため。

 相手を踏みつけて、自分の立場を分からせるために。


『動くな』


 怒り、支配欲、殺気。その全てが混ざり合ったような声。

 自分より強い生き物の出現に、ドラゴンはピタリと動きを止める。天敵に睨まれた小動物のように。


『この群れのボスは、俺だ。退がれ。──退がれ!!』


 場を完全に支配する、手触りがしそうなほどの凶暴な気配。空気までもが怯えて震えた気がした。

 その時。やっとレイの心が現実に追いついた。


 ──ああ、──怖い。


 心臓が握りつぶされたように一度大きく鼓動したかと思えば、一切の予備動作なしに、ひときわ大きな雷気が発動した。かつて大木を真っ二つにしたのと同じ衝動が、抑え込む隙もなくレイの手からすり抜けていく。

 放たれた雷は、レイを守るべく立ちはだかっていたヨルを奇跡的に傷つけずに脇をすり抜け、まっすぐ、ジュードたちのほうへ飛んでいく。

 それから先の出来事は、レイの目ではよく捉えられなかった。

 高く上がった水しぶきを砂ぼこりが覆って、世界を隠したベールがすっかり落ちた後。


 気づけば、中庭にはドラゴンのぐったりした体が横たわっていた。


 長方形の水鏡には長い首から頭にかけてが浮かび、ピクリとも動かなくなった黄色い鱗が、よそよそしい硬質な光を反射させていた。

 ぽかりと口を開けているセッタ。決してレイのほうを振り返らない青白いヨルの首筋。口元を腕で守るジュードは、驚愕に見開いた目をドラゴンからレイへと移す。

 地面に座り込んだままのレイを、金色の瞳が見つめた。

 レイの胸の中に収まった心臓は、さっきまで痛いほどに脈打っていたというのに、今や別の恐怖に縮こまっていた。

 突き刺さる怯えの視線。レイから子どもを守るように隠す親たち。家の前を通る時だけ早足で駆けていく村人。『化け物』と囃し立てる子供たちの声。村から出ていくように書かれた差出人不明の手紙。泣いて帰った妹。疲れた顔をした両親。レイに、家に、見えないところから何度も投げられた石。


『ごめんね、レイ。普通の娘に産んでやれなくて』

『怪我はないか? レイ。すまない、一緒にいてやれなくて』

『お姉ちゃんが化け物だから、っみんなが、私とは遊びたくないって……!』


『お母様も、あの子さえいなければもっと──』


 ありとあらゆる嫌な思い出が、脳裏を駆け抜けていく。


 ──私は、また、ここでも。


「……ぁ、あ、」


 声も出ずに震える頬に、パチパチと雷気が弾ける。こんな時でも自分を、自分だけを守ろうとしている、この力が大嫌いだ。

 腕を下ろしたジュードが、横たわるドラゴンの首をまたいで近づいてくる。恐怖で顔が上げられない。謝らなきゃ。そう思うのに、歯がカチカチと耳障りな音を立てるばかりだ。


「ご、ご、め、ごめん、なさ、」

「──無事か、花嫁」

「……ぇ?」

「怪我は」


 レイは信じられない気持ちでジュードを見上げ、ゆるゆる首を振った。ジュードは「そうか」と嘆息し、あろうことか


「悪かった」


 と告げた。


「俺の部下が判断を誤った。興奮するドラゴンを抑えられなかった。だが、あいつに騎乗許可を出したのは俺だ。全ての咎は俺にある」

「ち、ちがいます、私が、雷気を、」

「いいや。お前を不要な恐怖に晒したのは俺だ。俺を責めろ」


 ヨルが優しくレイの肩を抱いた。なだめるような手のひらにあっさり震えが止まって、レイは自分が心底情けなくなった。


「ご、めんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

「泣くな」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」

「謝らなくていい。……レイ。レイ、落ち着け、もういいか、ら……」


 力強いテノールが言葉尻に向けて急に力を失う。最後は呆然としているようにも聞こえ、レイは涙を流しながらも不審に思い、はたと顔を上げた。


 そこには黄色いドラゴンがいた。

 起きている。死んでいないし、もう横たわってもいない。


 むしろ先ほどよりどこかハツラツと、生気に充ち満ちた様子で、翼を目一杯大きく広げ、ぐいんと猫めいた伸びをしている。あ、今あくびした。

 伸びを終えたドラゴンはブルリと首を振って、水鏡に突っ込んだ頭から水気を飛ばすと、パチパチと瞬く。そしてこちらに視線を向けたかと思うと、満足げに目を細めた。まるで笑うように。気のせいか、目も合った気がする。

 ヒューイ、細い穴を空気が通り抜ける、口笛に似た音がドラゴンの喉から聞こえる。

 それを最後に、ドラゴンは翼を広げ、再び空に舞い上がっていた。

 混乱する人間たちを置き去りに。


「…………えっと、今のなに?」


 セッタが尋ねたが、誰も分かるわけがない。さっきまで誰より冷静だったジュードでさえ、ポカンと口を開けてドラゴンの飛び去った空を仰いでいる状態なのだ。他の三人の心の内は一つだ。


 ──そんなの、こっちが聞きたい。


 しばらくそのまま空を仰いでいたが、突然


「レイ様! 腕!!」


 とヨルが叫んで、レイの手を勢いよく叩いた。その拍子に、大事件の間も絶対に手放すものかと、大事に握っていたものが墜落する。


「え……きゃあ!」


 言われて初めて下に目をやると、そこにはぷすぷすと煙を上げる黒コゲの何か。それが目を向けた瞬間、突然、ボッ! と音を立てて燃え出した。


 なんだこれ。いや、なんか大事なものだったはず……──書物だ!!


 気づいて真っ青になった。強烈な雷気が体から放たれた時に燃えてしまったのだ。

 書物はみるみるうちに炎に飲まれていく。火を消そうと思う暇もなかった。


「……す、みませ、私、これ、特別なものでは、」

「いや。それは訳したもので、原本は竜王宮にある。大事はない。ないが……」


 沈黙とともに、みんなの視線が一斉に音を立てて燃える書物──だったものに注がれた。パチパチと火が爆ぜて、もう二度と元には戻らない。


「……お前に書物は早かったようだな」

「うっ──うわああああああん!! なんなのよもおおおおおおお!!」


 ジュードにとどめを刺されて、とうとう混乱が爆発し、レイは地面に突っ伏した。絶叫が中庭にこだまする。それに追随するように、遠くからはまたあの口笛に似た音が白々しく聞こえていた。

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