ジュードが急に話を変えた。


「字は読めるか」

「はい。母に習いました」

「そうか。才媛だな」


 ジュードはさらりと母を褒めるとヨルを呼び、「渡してやれ」と顎をしゃくった。ヨルは箱のようなものを取り出し、レイに差し出す。


「これは……」

「雷気に関する書物だ。一番簡単なもので、竜王宮から取り寄せた」


 と言っても、これにはさわり程度のことしか書いてなかったがな。ジュードは肩をすくめる。


「もうお前ほどの雷気を持つ娘は生まれなくなったから、口伝する相手もおらず歌は廃れたが、書には残っていた。遥か昔過ぎて古典の域に入っていて、急遽訳させたから時間がかかった。今はまだこの一冊だけだが、順にまた別のものも届くだろう。お前にやる」

「いいんですか?」

「ああ。俺はもう読んだ。もはや不要のものだ。力を使いこなすには、まず正しい知識が必要だろうからな。学ぶつもりがあるなら使え」


 力強い言葉に、手の中の本がずしりと重く感じられた。


「……私に、できるでしょうか? 本当に、この力を正しく扱うことなんて。また誰かを傷つけるだけじゃ、」

「やりたくないならやらなくていい」


 いっそ清々しいほどの一刀両断だ。目を丸くすると、


「お前は今この城でもっとも役に立たない生き物で、俺はすでにそれを許している。だが、ここで役目を持ちたいのであれば、学べ」

「……その末に、なにも身にならなかったら?」

「その時はその時だ。できる限りのことはしたと胸を張れ。なにもせずにいたら、自分に言い訳も立たん」


 凍てつく金色がひたりとレイを見た。心臓を射抜かれたような衝撃に、知らず、頬に稲妻が散る。


「なにもかも、お前次第だ」

「──勉強します」


 自然と口から言葉がこぼれ落ちていた。


「私、どんなことでもします。この力が役に立てるなら。引きこもらなくても、誰も、傷つけずにいられるようになるならっ、どんな、っどんなことでも……!」


 ジュードは「そうか」と静かに頷くと


「他に必要なものがあれば言え。取り寄せには時間がかかるが、大抵のものは揃う」

「あ、ありがとうございます! 機会を与えていただいて……」

「構うな。言っただろう。どうせいるなら、役に立ってもらおうと思っただけだ、と」


 と続ける。レイは手の中の書物をぎゅっと胸に引き寄せた。初めてこの手に掴んだ希望を、決して離したりしないように。


「旦那様。私、必ずあなたのお役に立ってみせます」


 決意を込めて表明すれば、ジュードはチラとレイを見た。


「……なにをするのも、好きにしろ。ここは俺の城、引いては、その妻であるお前の城だからな。レイ・ドゥーベルト」

「はい!! と、わっぷ……!」


 元気よく返事をしたその時、突如、砂を孕んだ強い横風が吹き付けてレイは咳き込んだ。


「大丈夫ですか」

「ええ。ちょっと目に入っただけで……あれは……鳥ですか?」


 ヨルの呼びかけに、収まりかかった突風の先を見ようと目を細めると、大きな影が空を旋回するのが見えた。


「あれはドラゴンだ。竜騎士がこれから見回りの交代に出る」


 なんでもないことのようにジュードに返され、「へえ!」と思わず手でひさしを作った。よく見れば、鳥の尾羽と違って、尻尾が細く長く揺れているのが分かる。


「今の風も、あれが飛び立つ時のものだ。ドラゴンを見るのは初めてか?」

「はい。戦場には遠い、静かな村だったので。父は戦場に行った時に見たことがあると話してくれましたが、自分で見るのは初めてです。それはそれは美しかったと自慢されました。本当に綺麗……」

「父親は戦士なのか?」

「いえ、臨時の雇われです。ティゴルとの戦いが一番激化していた時に少しだけ。だから……もう五年以上前ですね。今は牛飼いをしています」

「ふぅん」


 興味薄そうな返事も気にならないほど、空に心を奪われていた。ドラゴンはくるくると同じところを飽きることなく旋回している。まるで遊ぶように。


「ていうか……」

「あいつ、操縦下手じゃね?」


 魅入るレイに、ヨルとセッタの呟きが水を差した。


「え、あれ、下手なんですか?」

「ええ。その場でぐるぐるしちゃって、全然出発しない。ドラゴンに遊ばれてますね、完全に。どいつだ?」


 苛立ちを隠さないヨル。ジュードが誰ともなく「どこの所属だ」と問うと、「さあ……三番隊の新入りかな?」とセッタが首をかしげた。

 同じ竜騎士同士は辛辣だなあ。あとで怒られちゃうのかしら。

 ドラゴンの操縦の良し悪しなど全く分からないレイは、居心地悪く目を伏せた。失敗飛行をあまり見ているのも可哀想な気がしたのだ。


 するとドラゴンから目を離したジュードが突然


「……お前、なにか香をつけているのか」


 とレイに聞く。


「え? ああ、取り寄せた香油でしょうか。匂いましたか?」

「ああ、この風で。だが……それよりなにか、別のもののような……」

「お嫌いでしたら控えます」


「いや……」ジュードが首を振りかけたその時、「ジュード!!」とセッタが叫んだ。


「しゃがめ!!」


 続いて、突如放たれたジュードの大喝。


「え、」反応できずに棒立ったレイは、次の瞬間には仰向けに地面に引き倒されていた。飛んできたヨルが覆いかぶさったのだ。

 急降下した黄色のドラゴンの腹が頭上すれすれを通ったのを、レイは見た。轟音が鼓膜を叩き、びりびりと大地を震わせる。

 黄色いドラゴンは大きな鉤爪のついた後脚で、ズシンと重たい音を立てて中庭に着陸した。水鏡が揺れ、盛大に水しぶきが上がる。


「レイ様、お怪我は!?」


 ヨルがレイを抱き起こしても、レイは危機を認識できずに呆然としていた。突然のことに心臓も、理解も追いついていない。運良くヨルを傷つけずに済んでいることも理解できないまま、こくこくと頷く。


「大丈夫、です、平気」


 答えながら目の端で捉えた黄色いドラゴンは、かなり大きく、まるで立ちはだかる山のようだった。大きな翼がゆるく上下する度、砂を孕んだ風が顔に叩きつけられる。顔まわりを飾る角のようなトゲは鋭く、後脚よりわずかに小さな前脚についた銀色の鉤爪が、熱砂の日差しにぎらりと光った。


「ってめえ! なにしてやがる!!」


 砂煙をつんざくジュードの叱責に、鞍から落ちかけた蒼白の乗り手が「す、すみません、突然、操縦がきかなくなって……!」と応える。かろうじて片手が手綱を捕まえているような惨状だ。


「馬鹿野郎、手綱を放すんじゃねえ! 捕まってろ!!」

「は、はいっ、うわ……──っ!!」


 興奮したドラゴンが馬のように後脚のつま先だけで高く天に伸び上がる。鳴き声だろうか、細い穴を空気が剛速で通り抜けるような音が辺りに響くとともに、乗り手は鞍から振り落とされた。

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