声フェチ令嬢がうっかり美声に悶えていたら、東宮殿下(神ボイス)との結婚が決まってしまって身も心も死にそうです!

桜香えるる

第1話

 名家の令嬢という立場上これまでにも何度か参席したことのある宮廷での祝宴にて、私がその言葉をぼそりと呟いてしまったのは本当に無意識のことだった。


「ああ、やっぱり智翔ちしょう東宮殿下は素敵だわ」


 言い訳をさせてもらうと、私の発言は文字通りの意味ではない。


「ああ、やっぱり智翔東宮殿下(の声)は素敵だわ」


 正しく言えば、こうなる。

 つまり、私が素敵だと言ったのは東宮殿下本人にではなく、臣下を前に堂々とお言葉を述べられた東宮殿下の「声」に対しての感想だったのだ。

 これは間違っても東宮殿下の容姿が悪いという意味ではない。

 それどころか、父帝譲りの絹のように美しい長い黒髪に異国出身の母妃譲りの紫に輝く瞳を持つ彼は、誰もが認める美青年である。

 ただ純粋に、私の性質の問題だ。


 性質――そう。私こと名門と名高い朱家の令嬢・明華めいかは、何を隠そう極度の声フェチなのである!

 物心ついた頃から……いや、それよりもずっと前、前世の自分として生きていた頃からね!


 今の発言で察してもらえると思うが、私には前世の記憶というものがある。

 二十一世紀の日本に生まれた平凡な女の子だった私は、熾烈な内定獲得戦争を乗り越えて無事第一希望の会社に入社できたことで気が抜けたのか、入社式から帰宅する途中でトラックに轢かれて死んだ。

 そして気付いたら異世界のご令嬢になっていたというわけだ。

 ……ラノベとかでよく見る、転生トラックのテンプレ展開だわね。


 まあそれはともかくとして、特筆することもない前世の私の人生の中で少し変わった点があるとすれば、それは私の趣味ということになるだろう。

 それが、「声フェチ」。特に私は声優の初宮廉はつみやれんのファンで、その色気のある低音ボイスにハマっていた。

 彼の登場するイベントが開かれると聞けば全力でチケット争奪戦争に乗り込み、彼が声をあてた作品が出たと聞けば即購入する。SNSで彼のアカウントやファンアカウントをフォローして、日夜情報収集することも怠らない。

 そんな私が入社式の朝に「帰宅したら聞こう」と思っていそいそとスマホにダウンロードしておいた作品が、初宮廉が参加しているボイスドラマの最新作『没落令嬢は後宮で花開く』だった。

 そして実は……今の私は、その作品の舞台・天陽国てんようこくに転生してしまっていたりする。


 そう。この世界に実在する、初宮廉の声帯を持った人間。

 それが例の東宮、智翔殿下だったのだ……!

 私が私である以上、彼の神ボイスを浴びておいて悶え転げずにいられるわけがない。

 とはいえ、さすがに人前で奇行に走っては家名に傷をつけてしまうことくらいは誰に言われずとも理解している。

 だからこそ、令嬢として叩き込まれてきたなけなしの矜持を総動員して必死に荒れ狂う情動を抑え込み、奇声ではなく意味のある賛辞の言葉を呟いたのだ。

 それだけでも、個人的にはかなりの快挙だったのよ?

 まあ、こんなことを主張しても誰にも分かってはもらえないのだろうし、ぼそりと呟くことも堪えて徹頭徹尾沈黙を貫くべきだったと言われればぐうの音も出ないのだけれどね。

 これは私の不徳の致すところだったと、素直に認めよう。

 でも、でもね?

 ……うっかり尊みを口走ったことがこんな帰結をもたらすなんて、一体誰が考えるというのよ!


「明華、お前の婚約が決まったぞ! 相手は東宮、智翔殿下だ!」

「……へっ?」

、東宮殿下は素敵だって言っていただろう? 愛しき我が娘には、好いた相手と結ばれてほしいからね。父親として色々と頑張ってみたんだよ。これは主上も公認の正式なお話だから安心してくれ」


 ここは、朱家の屋敷に設けられた当主の執務室。

 珍しく私の父にして朱家の当主・玉風ぎょくふうに呼ばれたので何事かと思って来てみれば、告げられたのは予想だにしない縁談だった。

 父はいかにも娘を想ってその願いを叶えるために奔走したのだといった体で私に告げてきたけれど……ちょっと待って!

 何度でも言うけれど、それは誤解なのよ! 私は東宮殿下本人が素敵だと言ったのではなくて、殿下の「声」が素敵だと言ったのよ!


 だが私は、衝動的に驚いて反論の声をあげようした自分をぐっと抑えた。

 なにせ、私は十六年も娘をやってきたのだからよくよく知っている。

 一見したところでは好々爺然とした雰囲気をまとった、しかし皇帝陛下の信頼厚い宰相閣下たる父。

 その人畜無害そうな顔は見せかけだけで、お腹の中は策謀やら何やらで真っ黒に染まっているということをね!

 この人は、一を聞いて十を知る……どころか、一を聞かなくたって十を知れてしまうタイプである。

 私の声フェチぶりも、当然自分から父に暴露するようなことをしたことはないけれど、その嫌味なほどの鋭い洞察力を発揮して正しく理解していたに金貨一千万枚を賭けたって構わない。

 つまり、父は私の「素敵」発言を真に受けて誤解するようなタイプではないはずなのだ。

 それなのに、突然娘のために婚約を取り付けたなどと言い出すというのは……いかにも怪しさ満点である。


「……随分とまあ、ありがたいお話だとは思いますが。ですが、お父様? 一体何をお考えなのですか?」

「何とはどういうことかね? 私は愛する娘のために頑張って婚約を取り付けて……」

「ああ、そういうのは良いのです。『おつかいに行ってみたい』と無邪気に頼んだ私にお父様が『あの店で〈天国に行ける薬をください〉って頼んでごらん』とおっしゃって、いざその通りに行動してみたら私が麻薬を購入してきたことを証拠として店舗を違法薬物取引の容疑で摘発、ああ私はおつかいの名のもとに体良く囮に使われたのかと悟った五歳の夏からずっと、お父様の行動の裏には何かしらの意図があるということを心に刻んで生きておりますから」

「……ほう?」


 ああ、やはり。この様子から察するに、確実に何か裏があるだろうな。

 そう考えた私は、なおも飄々とした態度を崩さない父をじとりとした目で見遣りながら言葉を続ける。


「もちろん、お父様の中に娘たる私を愛する気持ちが全くないと思っているわけでもなければ、私に好いた相手と結ばれてほしいと願っているというお言葉の全てが嘘だと考えているわけでもありませんよ? ですが、お父様がわざわざ私と東宮殿下の婚約を取り付けたというのなら、相応の重大な目的がそこにはあるはずです。さらに言うならば、私が『素敵』発言をしたのはもうも前のことですからね! 私自身でさえ言ったことをほとんど忘れかけていたような発言を掘り返してまで婚約を結ぼうとなさったのですから、尋常なことではないと思います!」


 そうなのよ。私の失言は、実は二年も前の話なのよ!

 こんなのは明らかにおかしいと私がねちねちと追及すると、父は一瞬沈黙した後にぷっと吹き出した。

 そして「見事な推理だなあ」などと笑いながら、悪びれることなくこくりと頷いてみせたのだ。


「さすがは我が娘。よく心得ていることだな。確かに、お前の言う通りだ。何の裏もなくこの婚約話が決まったわけではない」

「では、その『裏』とやらをお聞かせいただけるのですか?」

「もちろんだ。だがその前に……お前は東宮殿下の最近のご様子について知っているか?」


 言われて、私は自分の頭の中にあるなけなしの東宮殿下についての情報を引っ張り出してくる。

 まず真っ先に思いつくのは神ボイス……だけれども、この場面で言うべき話でないことくらいは心得ている。

 だとしたら、他には――。


「そうですね……。最後にお会いしたのは私が『素敵』と呟いてしまったあの祝宴ですが、その時には次期君主たる東宮として、臣下にお言葉を下されるなどご立派にご公務を果たしていらっしゃったと記憶しております。私よりも二つ年上ですから当時の殿下は今の私と同じ十六歳であられましたが、大臣や高官たちにも一目置かれ、将来を嘱望されているように感じました。しかしその後、少し体調を崩されたのですよね? でも今回婚約話が成立したくらいですから、ある程度復調はされたということなのでしょうか?」


 二年前の祝宴の後にも、宴は何度か開かれた。しかし、そこに東宮殿下が出席されることはなかった。

 それは体調を崩しているためだということは人々に公表されたが、皇族の具体的な病名や現状などについてまで広く詳らかにされることはない。

 だから一臣下の娘に過ぎない私は、日々早期快癒を祈ることしか出来なかったわけだけれど……。


「いや、復調はされていない。むしろ症状は悪化しているな」


 父が淡々と告げたのは、そんな信じたくもない現実だった。


「そんな……! だったら婚約などしている場合ではないのでは? 東宮殿下に必要なのは、妃よりも医者であり療養でございましょう!」


 早く元気になって、人々の前に立って、その麗しいお声を聞かせてくれないと駄目よ!

 ……とは口に出さなかったけれど、私の表情から内心の叫びを正確に読み取ったらしき父が困ったように「それがなあ」と唸る。


「お前の考えも否定はしないが、十八歳の成年を迎えた皇子は妃を迎えることが慣例。東宮もそれに倣わせたいと、他ならぬ主上が命じられたのだ。だがここだけの話、病から癒える見込みがない東宮殿下のお命はもうあまり長くないのではないかという意見も一部で出ていてな。一昔前ならば我も我もと娘を送り込みたがっていた臣下どもが、今回の婚約話では誰一人手を挙げなかったわ。すでに現東宮に見切りをつけていて、次の東宮になるかもしれない他の皇子たちに目を向けている。だから私が今回の話に手を挙げてみても特に異論は出ず、すんなりと縁談がまとまったよ」


 宰相の娘が東宮と結ばれるとなれば、普通はもっと政治的な力の関係パワーバランスがどうだこうだと各方面がごねるものなのだがな。

 そう苦笑する父を前にして、私はそっと悔しさに唇を噛み締めた。

 別に、家門の利益のために次代の皇帝となる皇子に娘を嫁がせたいと考える人々のことを否定するつもりはない。

 ないのだが、あれほど懸命に国や民に尽くそうと公務に励んでいらっしゃった東宮殿下の御心を思うと、臣下たちに見切りをつけられたという事実にどれほど胸を痛められたかは察するに余りあるものがある。


「……状況は理解しました。それならば、なぜ私が婚約相手なのですか? 私に何を求めているのですか? 権力や身分ではなくただ東宮殿下のお声に惹かれている私ならば、先が長くないかもしれない殿下が相手でも最期まで献身的に寄り添ってその御心をお慰め出来るだろうとでも思われましたか?」

「まあ、それも無いわけではないが。それよりも、そもそも『先が長くない』という情報が別に確たる根拠のある話ではないのだよ。個人的な考えを述べるならば、殿下は病というよりは……毒でも盛られているのではないかと、毒に完全に侵される前に毒抜きが叶えば復調することも可能なのではないかと、そう考えているところだ」

「な、何ですって!?」


 皇族は立場上、命を狙われやすい。だからこそ行動するときには手練れの護衛がぞろぞろと付き従うし、飲食をする際には毒味が必須である。

 当然次期皇帝である東宮殿下は誰よりも厳重に守られていて然るべき御方だというのに、それをかいくぐった猛者がいたというのだろうか。


「正しいことは分からない。東宮殿下の周りで、後宮という密閉空間で、一体何が起こっていることやら……。だからこそ、お前の出番だ。お前には、東宮殿下のそばで探りを入れてきてほしいのだ。疑惑が浮かんできた以上、宰相たる私はこの事態を黙って見過ごすわけにはいかないからな。これが、お前が知りたがっていたこの縁談の『裏』だ。さあ明華、親愛なる我が娘よ。朱家の名に恥じぬ働きをしてくれるな?」


 父に家長としてそう命じられれば、私に否という選択肢は与えられていなかった。


「お話、万事承りました」


***


「ふう、なんだか大変なことになってしまったわね……」


 私室に戻った私は部屋で帰りを待っていてくれた侍女を下がらせ、誰の目もないのを良いことに行儀悪くもばふりと寝台に突っ伏した。

 そして頭の中で突如怒涛のように与えられた情報を組み立て、現状を整理し始める。


 まず、私に課された最重要任務は東宮殿下の体調不良の原因を探ること。

 その手段として、私は東宮殿下と結婚する。妃という立場を最大限に利用し、彼の身辺を探るのだ。

 あの切れ者の父宰相がわざわざ「毒」と言ったからには、毒が盛られている可能性が高いと想定して行動すべきだろう。

 誰が、どうやって、何のために恐れ多くも東宮殿下にこんな愚行を働いているのか。

 それを暴いて東宮殿下の健康を取り戻すことが、私の目下の課題となる。


「私が智翔東宮殿下の妃……って、あの神ボイスを日常的に聞けるということよね!? たまにお声を拝聴出来るだけでも死にそうだったのに、そんなことになったら私、心臓発作で倒れるんじゃないかしら!?」


 とはいえ、智翔殿下のお声は世界の宝。彼を害する企てなど、断じて許すことは出来ない。

 彼を守ることに私が貢献できるというのなら、私は全力で取り組もうと思う。


「よし。私の精神状態の安寧は、気合いでどうにかなるでしょう。きっと、おそらく、多分。……というわけで、これからのことを考えなくちゃね。とりあえず私の嫁ぎ先は、後宮ということになるのかしら?」


 後宮は皇帝の妃とその未成年の子が住まう場所である。公主は成年を迎えるまでにどこかへ嫁ぎ、皇子は成年を迎えた後は後宮外に自分の宮を与えられる。

 東宮殿下はつい先ごろ十八歳の成人年齢を迎えたため、通常であれば皇帝に即位するまでの間は後宮外にある宮を与えられ、そこで暮らし始める時機だ。

 しかし、智翔殿下は体調不良のために引っ越しを出来るだけの体力がなかった。

 その事情が配慮され、彼はまだ生まれ育った後宮の中――亡き母妃に与えられていた宮の中に住まうことを特例的に許されている。

 私との婚姻が成立したとしても、彼の体調の悪さ自体には何も変わりはない。

 だからこそ、私もまた彼の住まう後宮の中へ行くことになるだろうと思われる。


「後宮ね……。本当ならばここで前世知識チートが使えたんでしょうね」


 というのも、この世界を描いた前世のボイスドラマ『没落令嬢は後宮で花開く』のメインとなる舞台はこれから私が行く後宮、まさにそこだったのだ。

 実家が没落してしまった主人公・香蘭こうらんが伝手を辿って名家に侍女として雇われ、皇帝の妃となっているその家の令嬢に侍女として仕えることが決まって後宮入りをする。そこで皇子様たちと出会ってきらきらの恋物語を紡いでいく……という割と王道な恋愛ストーリーだった。

 だからその内容をきちんと頭に入れていれば、ものすごく今後の後宮ライフの参考になったのではないかなと思う。


 しかし、ここで発生する由々しき問題が大きく分けて二つ。

 第一に、私はボイスドラマを購入しただけで、不覚にもその内容を聞く前に死んでしまったということ。

 CV初宮廉のキャラクターが登場することとさっき述べたざっくりとしたあらすじだけを確認して購入したので、それ以上の詳しい情報を何一つ持っていないのだ。

 我ながら、非常に使えない奴である。

 第二に、自分がボイスドラマの世界にいるという事実をはっきりと自覚したのがつい最近だということ。

 そのせいで私は無意識のうちにストーリーを破壊してしまい、未来の展開を分からなくさせてしまった。

 そもそも、ボイスドラマの主人公・香蘭が雇用された「名家」というのは我が朱家のことである。

 香蘭は私の年の離れた姉であり皇帝の妃として後宮暮らしをしている暁華ぎょうかに仕えることとなり、そこからドラマのストーリーが始まるはずだった。

 ところが私は、香蘭が我が家の使用人とちょっと良い雰囲気になっている様子を見て余計なお節介を働いた。

 二人の関係が進展するように、陰から全力でお膳立てしてしまったのだ。

 結果として、二人はそのままゴールイン。

 香蘭が後宮へ行くという話はきれいさっぱりなくなり、恋物語の主人公はその舞台に上がることもなく今でも夫となった男と一緒に仲良くうちの屋敷で働いている。


「……自分で言っていて悲しくなるレベルのやらかしぶりね。というか、もしかして東宮殿下の異変ってボイスドラマで描かれている事件だったりするのかしら? 本来香蘭が解決するべき案件を放置していたがために、殿下が死にそうになっているなんてこと……ある?」


 ボイスドラマを聞かずに死んだため、真相は闇の中。正確なところは未来永劫誰にも分からない。

 でもこの時期に問題が発生したというのなら、ドラマのストーリーに関わっている可能性は結構高いのではないだろうか。

 もしもそうだったとしたら、日々苦しみに耐えていらっしゃる東宮殿下に申し訳無さすぎるんですけれど……!?

 これはなおのこと全力で殿下の快癒に向けて奔走しなくてはならないなと、私は心を新たにする。


「ストーリーは分からないけれど、後宮が舞台のボイスドラマであった以上、後宮内には前世で聞き覚えのある声優が声をあてているキャラクターが何人もいるはず。とりあえず、そういう人は話に出てくるメインキャラクターだと判断できるわね。敵か味方かは分からないけれど、見つけたら私の中で注視しておくべきリストの中に入れましょう」


 リストに入れた人々が善人か悪人かは、私自身が実際に付き合う中で見極める以外にない。

 人を見る目にさして自信があるわけではないが、全ては世界から神ボイスを失わないためだ。死力を尽くして探りを入れてみせようではないか。

 そして、もしも何かを企んでいる悪人を見つけることが出来たなら。

 きっとそれが今回の事件を解決する糸口になるはずだ。


「よし、方針は決まったわ。待っていてくださいね、智翔殿下!」


***


 それからおよそ一ヶ月後、天陽国は祝賀の空気に包まれていた。

 なにせ、東宮殿下が初めて妃を娶られる記念すべき一日なのだ。妃の生家である朱家の屋敷から宮中へと続く長い花嫁行列を見ようと多くの人々が押し寄せ、首都はいつも以上の活気に満ち溢れている。

 私はといえば、屋敷の侍女たちに早朝から総出で赤い花嫁衣装を着付けられ、行列の中心を成す真っ赤な輿に乗せられていた。

 見た目のコンディションは、人生史上最高である。

 朱家の威信をかけた豪奢な衣装に、今日まで磨き上げてきた艶々と白く輝く肌。

 そこに凄腕侍女が施してくれた特殊メイクかと思うほどの繊細な化粧まで加われば、我ながらどこの美少女かと言いたくなる仕上がりになっている。

 ちなみに、侍女たちは婚約決定から突如として見た目に細心の注意を払うようになった私を「婚礼がそれほど楽しみなのですね」と優しい眼差しで見つめてきたが、その考えは正確なものではない。

 だって、私の思考の根幹にあるのは神ボイスの持ち主に対する最上の敬意。推しの視界の中に入るのは美しいものばかりであってほしいという切なる願い一つであるのだから。

 当然自分自身も彼の視界を汚す存在であってはならないから、与えられた時間のすべてを使って自分磨きに励んだというだけにすぎないのよね。

 ……と、そんなふうにつらつらと我が身を振り返っている間に輿は無事に首都の大路を抜け、宮中へと入っていたらしい。

 雅やかな管弦の音色がいっそう賑やかに鳴り響き、花嫁の訪れを人々に向けて天高らかに知らせている。


「明華様、ご到着! ご到着でございます!」


 侍従の号令とともにがたりと輿が地面に下ろされ、少し待つと外から扉が静かに開かれた。

 そこにいたのは、父宰相だ。今日は一人の花嫁の父親として、東宮妃宣下を受ける私を皇帝陛下の御前までエスコートする役目を担う。

 愛娘の輿入れともなれば泣きはしないまでも少しくらいは感情を揺らがせないものかしらと、私は横目でちらちらと父を見遣る。

 しかし父はやはり父で、平常の飄々とした様子を崩さぬままに私を皇帝陛下が待つ広間まで連れて行ってくれた。

 ……なんだか、ちょっと悔しいわね。


「皇帝陛下に申し上げます。朱家の明華、ただいま罷り越しました。以後どうぞお見知りおきくださいますように」


 気を取り直して私は優美さを最大限に意識した礼の姿勢を取りながら、定められた挨拶の言葉を粛々と申し述べる。

 本来ならば、ここは東宮殿下と揃って皇帝陛下に対面する場面である。

 しかし、殿下の体調的にそれは無理だ。だからこそ、真っ赤な花嫁衣装に身を包んだ私一人で陛下の御前に立つ。


「よく来てくれたな。あの小さかった子がこれほどまでに麗しく成長し、我が義娘になってくれるとは……。ああ、少々感傷的になってしまったな。こほん。では、改めて。朕はそなたを東宮妃として立妃させることを、ここで皇帝の名のもとに天下万民に向けて宣言しよう。以後、どうか東宮のことを末永く支えてやってくれ」

「もちろんでございます。東宮殿下の御為、私の持てる全ての力を尽くすとお誓い申し上げます」

「ははっ、それは頼もしい。さすがは我が国が誇る名門、朱家の令嬢。切れ者宰相の娘にして、我が愛妃の妹だ」


 豪快に笑う皇帝陛下は、父宰相が単独で動いている案件であることもあって東宮殿下の体調不良の原因を探るという今回の婚姻の裏の意図はご存知ではないそうだ。

 しかしそんな理由がなくとも嫁いでくる私を歓迎していらっしゃるようで、優しくお言葉をかけてくださった。

 本当にありがたいことだと思う。


 それから、東宮殿下は通常は一日がかりで絢爛豪華に執り行われる婚礼の儀も遂行できる状態ではないため、その後に執り行われるべき一連の儀式も概ね省略されることが決まっていた。

 ただ、私を中心とした華やかな花嫁行列が東宮殿下のおわす宮へと入るだけ。それだけで、婚礼の儀は終了である。


 とはいえ、私としては今からが一大事である。

 だって……私はこれから智翔殿下にお会いするのよ!?

 麗しいご尊顔を拝するのはともかくとして、あの神の如きお声を間近で浴びてもなお冷静さを保っていられるだろうか……?

 まあ出来る出来ないではなくやらなければ、私は初対面からどん引きされて不審者認定一択。

 その後の夫婦関係も不安になりまくるから、意地でも全力で平静を装うつもりではあるのだけれど。


「推しに迷惑をかけるなんて万死に値するわ……冷静に、冷静に……」


 想定通り、再び輿に乗せられた私が運ばれていったのは後宮の中。東宮殿下の住まいは、婚姻後も彼の亡き母妃がかつて使っていたという「南の宮」であるようだ。

 私の今後の住まいとしては、宮のメインの建物から渡り廊下でつながった離れが専用の居室として用意されているらしい。

 だが、まずは何よりこの宮の主にして私の夫君となる御方に挨拶することが第一。

 神の声帯を持つ相手に会うという緊張と高揚で震える体を叱咤しながら、私は彼が待っている応接室へとゆっくりと足を踏み入れた。


「失礼いたします」


 まず目に入ってきたのは、正面に垂らされた薄い紗だ。布越しに、その向こうで脇息にもたれながら身を起こしている人影がぼんやりと見える。

 ……なるほど。これは、東宮殿下は病床にある弱った自分をあまり見せたくないということかしらね。

 そんなふうに頭の中で現状を分析しながら、私は紗の向こうの人影に向けて丁重に礼の姿勢を取る。


「東宮殿下にご挨拶申し上げます。朱家より罷り越しました、明華にございます。これより東宮妃として殿下を恙無くお支え出来るよう力を尽くします」


 ……良かった! 一度も噛むことなく言えたわ!!

 ほっと安堵の息を吐きつつ、どきどきとうるさい心臓を必死に押さえつけながら待っていると、ややあって微かな衣擦れの音とともに人影の口がゆっくりと動いた。


「……面をあげよ。よく来てくれたな。心から歓迎しよう」


 ……あれ? あれれ?

 返答に従って静かに頭を上げた私は、強い違和感に苛まれてこてりと首を傾げる。

 確かに素敵な声だ。それは確かだったのだけれど、これは……違う。違うわね!

 間違っていた場合のリスクを鑑みて数瞬しっかりと考えた後に、私は確信を持って結論付けた。

 この声は……智翔殿下のものではなく、誰かが似せて喋っているだけだと!


「曲者っ! 殿下を騙るとは何事か! 智翔殿下、東宮殿下っ! どこにおられますか!? ご無事でいらっしゃいますか!? いらっしゃったらお返事をしてくださいませ!!」

「……っ!?」


 東宮殿下を騙る何者かの影をきっと睨めつけ、ばっと飛び退って彼から距離を取る。

 単なる令嬢にすぎない私には他者を制圧できる武力はないから、この状況で取れるのは逃げの一択。何よりもまず、殿下のご無事を確かめるという点に注力することが最善だろう。

 そう考えてこちらの剣幕に狼狽し始めた彼に構わず部屋から飛び出そうとした私だったけれど、紗の影から飛び出してきた男はそれよりも先に動いて私の腕をがしりと掴んだ。


「お待ちください! 申し訳ありません、妃殿下を試すような真似をして。私は東宮殿下の護衛武官を務めている提燈ていとうと申します。殿下はご無事でございますから、どうかご安心くださいませ!」


 すっかり地の声に戻して私を引き止めたのは、病人とは程遠い力強い腕の主。

 提燈と名乗った彼はどこか無骨な印象の、私とさほど変わらないくらいの若い男性だった。

 前世の声優の声ではないので、ボイスドラマの主要キャラクターではなさそうだ。

 ビジュアルも声もかなり良いものを持っており、名無しのモブにしては惜しい人材だと思うけれど。


「……いきなりそう言われましても。あなたを信じるに足る証拠はございますか?」

「それは……」


 不信感丸出しの私に、男はぐっと口籠る。

 そこにすかさず、「待ってくれ」という第三者の声がかかった。


「我が身を以て証拠とさせてくれ」

「えっ……!」


 聞こえてきたのは、掠れ気味ではあるけれど今度こそ紛れもなく私の待ち望んでいた声。

 紗の奥からよろよろとした足取りで姿を現したのは、智翔東宮殿下その人だった。

 二年前と違って青白くやつれてしまったその麗しいかんばせに笑みを浮かべ、私をじっと見つめている。

 尊さのあまりはくはくと口を開閉するばかりで喋れなくなっている私の前で、殿下はすっと頭を下げた。


「すまぬ、明華殿。身代わりを置いたこと、心から謝罪する」

「そんな、皇族が頭を下げるなど! いけません……!」


 しかも殿下はただの皇族ではなく東宮殿下なのだ。

 この国で二番目に偉い人なのだ。

 彼が頭を下げて良い人なんて、皇帝陛下をおいて他にはいない。

 そう思って慌てる私に向けてふるふると首を横に振ると、殿下は優しげに微笑む。


「いや、真に悪かったと思う。そして、私の身を案じてくれてありがとう。刺客を送られることが多く、無礼とは思いつつも明華殿の人柄が掴めるまでは、そしてあなたが妃の名のもとに私を害しに来た刺客の類ではないと確信できるまでは、様子見をしたいと考えてしまった。健康だったときは誰が相手でも返り討ちにする自信があったから、これほど用心深い人間ではなかったのだがな。この弱った体では、剣も満足に振れやしないものだから……。提燈は人の所作や声音を真似るのが上手く、相手の出方を窺いたい時に時々身代わりを務めてもらっていた。これまでは私と面識のある者でも見破られたことはなかったのだが……明華殿はもしや『真実を聞く耳』を持っているのだろうか?」

「真実を聞く耳、ですか……?」


 聞き慣れない言葉に思わずこてりと首を傾げた私に、殿下は「そうだ」と大きく頷いてみせる。


「我が国の初代皇后が持っていたとされる特別な能力だ。相手の声を聞いただけで、あるときには後に優れた功績をあげることとなる逸材を発掘してみせたり、またあるときには善人の皮を被っていた大悪党を一瞬にして見破ったりしたという。だから、より正確に表現するならば真実を耳とでも言うべきだろうか。まあとにかく、彼女は声を愛し、声に愛された女性だったと、そんなふうに皇家に伝わる歴史書には記載されていたよ」

「さ、左様でございますか……」


 それは……私のような人間の最上位互換であり、そして何より私が今最も欲している能力を有している存在だと言っても過言ではないのではないかしら!?

 もし私が初代皇后陛下のような力を持っていたのなら、この後宮で果たすべき役目、つまり毒疑惑の解明を進めるのにどれだけ役立ったであろうかと思う。

 しかし――。


「私は残念ながら、そのような能力を持っているわけではありません」


 なにせ私は、ただのしがない声フェチ令嬢っていうだけなのだからね。

 私に出来るのはそんな高尚なことではなくて、ただきゃあきゃあとイケボに悶え転がっていることだけなのよ……。


「そうなのか。……でもまあ、本人が自覚できていないだけという可能性もなきにしもあらずなのかな?」

「……?」


 前半は聞こえたが後半の発言があまりにも小声だったので聞き取れず、小首を傾げた私だったけれど……殿下はそれ以上何かおっしゃることはなかった。

 ということは、重要な話ではなかったのかしら。

 それならばそれで良いわと、気を取り直した私は――。


「まあとにかく、こんな私のもとへ嫁いできてくれて本当にありがとう。なにぶん体調がこの通りなもので、世間一般の夫婦らしくは在れないかもしれないけれど……。でも、出来る限り明華殿に不便などかけないようにするから。だから、これからどうかよろしく頼む」

「そんな! こちらこそ、以後どうぞよろしくお願いいたします」


 ――きちんと挨拶をする前に曲者騒動が発生してしまっていたため、ここで改めて殿下と挨拶を交わした後、自分に与えられた私室へと下がることになったのだった。

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