第19話 ただ一つの救いを望んだもの



「俺が、間違っていた、の、かな……」

 黒い雪原に横たわりながら、か細い吐息が悔恨を呟いた。



 四肢は既に動かず、痛みは絶え間なく身体を踏みにじり、悲鳴も涙も汗も、全てが尽き果て、枯れてしまった。

 空も、雲も、大地も、木々も、雪も――すでに見渡せる限りの世界は黒く、黒く、染まりきってしまった。


 唯一、血のように赤いのは、命を注ぎ込んだ、柊の〈式〉だ。

 だがそれも、今は無惨に引き裂かれ、効力を殆ど失っている。

 もう使い物にならない訳ではないが、すぐに戻せるものでもない。


 なによりもそんな行為を、椿が許してくれるはずも無い。


 そして、ここからこの黒は――死は、【魔女の庭】よりもをも、染め上げて行くのだろう。

 腐肉の【獣】ではなく、【世界の自死】でも無く……世界を救うために作られた〈機構〉の、意図的な悪意による、破壊。



 それがこの世界の辿る末路だ。



(俺は、そんな事をさせたくて、ここまで来た訳じゃない……)

 だって、世界を壊す彼女自身が何よりも、痛くて、苦しそうで。


(これじゃあ、あの時と何も変わってない)

 彼女が最初に世界を壊したときと、何も変わらない。


(俺は、あんな顔をさせたかったんじゃない)

(俺は、あんな風に笑って欲しい訳じゃない)


「俺は、俺、は……ただ、ただ……っ」



 彼女に生きていて欲しかっただけだ。

 彼女に、笑っていて欲しかっただけだ。



(あんな、見ているだけで辛くなるような事を彼女にさせたくなんか、)


『あんなに痛くて、苦しくて、酷くて……シュウは、泣いているのに……?』

『縋って、押しつけて、壊して、……そうやって、シュウを犠牲にして、保たれるくらいなら……っ!』

『世界は救われて……柊は、……きみはどうなる、の……?』


「………………………………ああ」


 呟き。

 深く、息を、吐き出した。

 そして、力ない、乾いた笑いを、顔に浮かべる。


「俺も、そうだった、か……」


 いつだって彼女は同じ事を言って、泣いていた。

 いつだって彼女は、傷ついた柊の為に、怒り、泣いて――そして、世界を壊そうとした。



 一度目も。

 二度目も。



 彼女が全て、代わりを引き受けてくれたのだ。

 悲しめず、怒らない自分の代わりに彼女が、世界の全てを呪ってくれていたのだ。

「何も、分かってなかった。俺は、何も……」


 笑っていて。

 泣かないで。


 遠ざかる背中に、こいねがう。


「笑って……いて」

「泣かない、で……」



 その代わりは、全部俺が――。



「馬鹿だな、俺……」

 そうやって、全てを押しつけていた。


「笑っていて」と押しつけて。

「泣かないで」と何よりも泣かせる行為を選び続けた。


 全て、美しい献身で偽った、自己満足だ。

 それに何よりも盲目であったのは、自分自身だ。

 そうあることが存在意義だと、そう在る自分に、安心していた。

 そういう形でしか在ることが出来ないのだと、目を塞いでいた。


 本当に笑っていて欲しいのなら。

 本当に、泣かないで欲しいのなら。

 本当に、彼女が欲しがる物を捧げたいのなら。


 自分が何よりも、彼女に手を差し出さなければいけないのに。

 自分が何よりも、彼女を護らなければならないのに。

 自分が誰よりも、彼女の傍に居なければならないのに。


 いつだって護ってくれるのは、彼女で。

 いつだって温かい物をくれるのは、彼女だ。

 いつだって欲しいものをくれるのは、彼女だ。


 そんな彼女に何も返せていないというのなら。

 そうやっていつまでも身勝手に救い続けるくらいなら。


 彼女が欲しい物を返して初めて、成し遂げたと胸を張れ。



 今が、今こそが、その時じゃないか――。



「立て……立てよ、俺……!」


 地に伏した身体に、命ずる。

 手足は震え、力をいくら込めても言うことを聞こうとしない。

 それを、ねじ伏せる。


 意志の力で、自らの身体を、奮い立たせる。



 まだ終わってない。

 終わらせない。

 選べる道は、絶えてない。

 今、命を賭けなければ、ならないんだ。

 全身全霊をもって、繋ぎ止めなければ、いけないんだ。



 世界が終わる前に。

 世界が死んでしまう前に。


 いいや、ちがう。



「――――世界なんて、救っている場合じゃないッ!!!!」

 彼女が、彼女自身を殺してしまう前に!



 立ち上がるだけで足は悲鳴を上げたくなるほどに、涙が溢れるほどに、痛んだ。

 一歩踏み出せば足の裏が剥がれ落ちるような痛みが、襲いかかる。

 それでも悲鳴を圧し殺し、手を伸ばし。

 まだ、この身に残る〈式〉を絞り出し――――――紡ぐ。


「椿さん……っ」


 彼女を繋ぎ止める糸を。

 透明な、糸を。

 それでいて何よりも鋭利な、刃を。


「椿さんッ!」


 声は果たして届いたのか――小さく遠ざかった背中が、振り返る。





 透明な色彩が、虚空に一つの線を描いた。


 キンッ――と美しく澄んだ音色が爪弾かれ。

 遅れて、椿の広げていた爪が、粉々に砕かれた。


「えっ……?」


 意表を突かれ、毒気の失われた声を椿はあげる。

 爪はバラバラの破片になって、黒々とした世界に美しく煌めきながら、地に落ちる。


 落ち行く破片の向こうに、見間違えようのない少年の姿を、見る。

 黒の中にあって尚黒く、そして赤く、鮮やかなマフラーを靡かせる少年の姿を。


「なん、で……」

 問う。

 少年は無言で一歩、踏み出した。


「なんで……なんで立てるの……っ」

 後ろに下がりながら、新たに作り出した爪を振るう。

 地を抉り、彼の命が注がれ赤く染まった〈式〉を、爪は容赦なく引き裂く。


 だけど、止まらない。


 その身を襲う壮絶な痛みも構わず、柊は一直線に椿の元へ駆け出す。

「ッ……!」


 息を震わせ、椿はまた新しく爪を産み出す。

 だがそれは、柊の操る透明な剣が生まれる前に打ち砕いた。


「邪魔、しないで……!」

 たまらず、悲鳴を上げる。

 だが返ってくる答えは、毅然としたものだった。

「いやです」

「世界なんて終わっていいじゃない……存在する価値なんてないものっ!」

「いやです!」

 怒号と共に、柊は手に握った剣を振るう。

 椿が放つ巨大な爪を、細い剣の心許ない切っ先が真正面から受け止めた。


 黄昏色の瞳が真っ直ぐに、椿へと視線を注ぎ込む。


「俺は、貴女に生きて欲しい。だから……だから貴女の生きる世界を、貴方を救うために、救うッ!」

 火花を散らして剣が振り抜かれ、一瞬の隙に彼は地を深く抉り、一気に駆けだした。


「違う……そんなの私、望んでないッ! 欲しくないッ!」

「分かってます!」

「分かってるならもうやめてよぉッ!」

 向かい来る柊の身体を、無数の爪が突き放すようにして貫く。

 夥しい量の血が溢れ出、黒い地表を真っ赤に染め上げた。

 肩を、足を、腹を貫かれ、柊の身を焼く痛みは計り知れず――それでも柊は、微笑みを浮かべた。



「ごめんなさい、椿さん」



「やっと分かりました。……俺は、貴女に酷い事ばかりしてきたんだと……貴女が本当に欲しい物から、ずっと目を背けてきたんだと……」

「……っ、やめて……」

「俺が、馬鹿だった。……貴女に、二度も呪わせてしまった……」

「言わないで……もう私のこと、赦さなくて良い……もう、全部、全部終わらせるから……っ」

「いいえ」

「だって痛いでしょ、苦しいでしょ、世界を救っても何も良いことなんて無い! 世界がきみに何かを返してくれたことなんて、一度もない! だからもうやめたいって……ねぇ、そう言ってよ……言ってよ、柊!」

「いいえ」


 ハッキリと、告げる。

 真っ直ぐに彼女の目を見て、告げる。


「貰いましたよ。もう、沢山。ずっと、ずっと」


 思い出す……遙か昔に、彼女と初めて会った日の事を。

 彼女のあの、無邪気で穢れの無い、暖かな笑顔を――懐かしみ、愛おしむ。


 そうして目を閉じて笑いながら、穏やかに語る。


「貴女があの日、俺の部屋に迷い込んでから……あの日からずっと、俺は貴女に沢山のものを貰って、貰って……返しきれないほどに、沢山の、素敵な物を……」


 世界は確かに、柊に何もくれなかったかもしれない。

 でも、自分は椿に会えた。

 それがどれ程の幸いであったか。

 その手が、声が、笑顔が、どれ程の力を自分にくれたか。


 世界が壊れても、それは何ら、変わらない。


「記憶を失っていても、俺はいつも、貴女のお陰で俺は『俺』になれた……貴女に悪夢を取り去って貰って……貴女に、暖かい時間を貰って……」


「貴方に、生きる理由を、貰った」


 だから自分は、ただ一人の『シュウ』として、彼女の為の死を選び続けた。

 自ら望んで、無数の墓標を雪原に突き立て続けたのだ。


 述べ、六万八千七百五十回。

 此度の六万八千七百五十一回目においても。


 記憶を取り戻そうが、取り戻すまいが、関係なく。

 一度たりともその道を違えることなく。

 シュウは、椿のための幸福を選び続けてきた。


「私、何もしてない……私は、ただ私が欲しい物だけを……きみに、強請っただけ……」

「いいえ。俺は貴女に、この名前を呼んで貰った」


 それは全て――彼女が『シュウ』としての自分を作ってくれたからだ。

 ただの『救い』として生まれ出た自分を、ただの『シュウ』にしてくれたからだ。



 冬の子とも、機構とも、救いとも、怪物とも化け物とも呼ばず。

 ただの、シュウと。

 そう、彼女が呼んでくれたから。



「俺自身が忘れかけた、誰にも呼ばれない、俺の名を。貴女だけが、唯一、呼んでくれた。いつでも、何度でも――沢山、沢山……」


 それがどれ程の救いになるか――きっと彼女には分からない。

 それでも、その思いだけでも伝わるよう、柊は賢明に声を上げる。


「だから俺は、世界を呪うことも、憎むことも、ありません」


 爪が深く身に沈もうと、血が口から溢れ出ようと構わず、歩み出す。

 臓腑が零れ落ちようと、足が断ち切られようと、構わない。


「貴女に出会ってから一度も。そしてこれからも……!」

 椿は動かぬまま、それでも抵抗するように激しく首を振る。


「やめて……やめて! ちがう、違う違う違う……だって……! だってそれは……柊が、『救い』だから……そういう、〈機構〉だから……!」

「――俺もッ!!!」


 その腕を、握る。

 強く握り、そして力の限り引き寄せ――そして抱きしめた。


「俺も」

 そして、選びとる。

 口にする。


 斯くあるべくして生まれた〈機構〉としての『自死』を。



 即ち――――――――



「俺も、世界なんてどうでもいい」

「俺には、貴女だけが大事ですから」



 大事な、大事な春の女の子。

 暖かくて優しくて、そして脆くて弱い、椿。

 恋に呪われ、世界に怨まれ、憎まれ……それでも必死に【魔女】としてこの場所にあり続けた、少女。

 ただ一人との再会だけを心の支えに、待ち続けた少女。


 彼女がいるから、自分は世界を救える。

 彼女こそが、自分にとっての世界だから。



 …………長く、長く。

 無音が二人を包み込んだ。


 そして、

「……私も、」

 と、小さな声が、呟く。


「私もだよ。きみだけが大事。だって君が、大好きだから……」

 小さな手が、背に回される。


「だから、きみを傷つけて、きみを奪い去るこの世界が大嫌い……もう、壊してしまいたいくらいに……ずっと、ずっと……憎くて……」

「貴女が俺のためにそうしてくれるのが……何よりも嬉しいんですよ……俺は。……でもそのために貴女が傷つくのは、悲しい……貴女がいなくなるのも、いやです……」

「私もだよ……私も、そうなんだよ……」

「ええ、やっと分かりました……俺が、馬鹿でした……」


「……遅いよ。馬鹿……」

 そう、彼女は涙を流しながらも、微笑んだ。微笑んで、くれた。


 直後、その身体から急激に力が失われる。

 頽れた身体を支え、柊は彼女の身体を優しく地面に横たえた。

 その腕に、椿は懸命にしがみ付く。


「柊、行かないで……もう何処かにいっちゃ、いや……」

 震える手を取り、両の手で強く、握り返す。


「大丈夫です。〈式〉はもう、ぐちゃぐちゃになっちゃいましたから……、今の世界を救ったらまた、此処に帰ってきます。だからまた会いましょう。椿さん」

 その言葉に安心したように、椿は微笑んだ。


「うん、また、またね……また、いつか、思い出して……」

 オルゴールが眠りにつくように、彼女の声が次第に、途切れていく。


「私、此処で、待ってる……いつまでも……、何度でも……頑張って、ここで……」

「はい。もう少しだけ。もう少しだけ……待っていてください……」

「うん……」


 そうして、目蓋が緩やかに閉ざされた。



「おやすみ」――と。最後に彼女は囁いた。

 その表情は穏やかで。

 心の底から安心したような、微笑みだった。


 その言葉に、いつかのやりとりを思い出す。


 まだ記憶を取り戻していなくて……今よりも『世界の救済』に頑なだったシュウに、椿は「おやすみ」を強請った。


 そんな些細なやりとりが、彼女にも、自分にも大切だった。

 きっと今も、変わらず。

 だから、無防備な寝顔に、微笑みかける。


「はい。おやすみなさい、椿さん――」


 そうして柊は、空を仰ぎ見る。


 はらはら、はらはらと。

 白い雪が、舞い落ちる。

 その向こうに。




 ――――――――世界が、壊れていくのが見えた。

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