第16話 結びの日


 陽は穏やかに世界を照らし、暖気に微睡むように雪は溶けていく。

 雲は完全には消えていないが……冬の終わりを予感させるような、穏やかな薄灰の空が窓の向こうに広がっていた。



 寝台で目を醒ました柊は、いつもなら自分にぴったりしがみ付く椿の姿がない事に驚き、慌ててリビングへと降りた。


「……つばき、さん?」


 ……だがそこにも、彼女の姿は無かった。

 とうに演奏を終えたオルゴールが、蓋を開けたまま置かれているだけ。

 もぬけの殻だ。


「椿さん? 椿さーん」

 名を呼んでも、しん……とした静寂だけが、返される。


 小さな家を彼は椿の姿を求めて歩き探し、探し。

 やがて、諦めた。

 最初から、彼女がどこに居るのかなど……本当は、分かっていたのだ。



 がそうだったのだから……今回も、そうなのだろう。



「……」

 どこか緊張した面持ちで、柊はその答えへと、手を伸ばす。


 連日の吹雪の間、ずぅっと開けることが無かった、外へ繋がる扉。

 終わりに向かう、二人だけの世界を外から断絶し続けた、境界線。


 扉を押し開ければ、目映い白光が、外から溢れ出した。


 辺り一面に広がる雪景色は、陽の光を浴びてキラキラと目映く輝いている。


 どこか清々しくもある、薄灰の空。

 暖気に満たされた光の洪水。

 その、向こう。



 ぽつり、と鮮やかな春の色彩が、立ち尽くしていた。



 ザク、ザク、とシャーベットのようになった雪を踏みしめ、柊は彼女の元へと歩み寄る。

 彼女は、微動だにしない。

 此方に気付いていないのだろうか、と。柊は口を開き、彼女の名を呼ぼうとする。


「ああ」

 彼女の、今にも泣き出しそうな声が、耳に届く。




「これで……終わりかぁ……」




 そして、

 バキンッ――!と。



 何処か懐かしくもある音が、世界にヒビを刻み込んだ。

 大地を揺らさんほどに大きなその音は、何度も何度も、くり返しくり返し鳴り渡り、世界その物を壊すように、巨大な歪みを空に生み出していく。


 バキンッ、バキンッ、バキンッ――!


 轟音が空を砕く度に、空は黒いヒビによって砕かれ、欠け落ち――其処から「どろり」と産み落とされた泥は、腐肉と骨を象り、寄せ集め、大きな、大きな固まりへと変貌していく。



 生まれ落ちる。

 世界の死が。

 その、終わりが。



 世界自身の心によって。

 生み出されていく。



 ぼた、ぼた、ぼた――と。

 涙の雫のように、腐った肉がまき散らされる。

 白い雪を黒く染めながら、異形の獣はやがて産声のように泣き声を上げた。


『ア゙ァ――――――――』

 それは一つのみならず。

 二つ、三つ、五つ、十……何百も、何千も。



 無数の口より奏でられる夥しい慟哭の合唱が、静寂の雪景色を破壊していく。

 薄陽を黒い異形は覆い隠し、世界を深い翳りで飲み込んで行く。


 雪原を、異形の身体より生え出た黒い『根』が、覆い尽くしていく。


 二人は、知っている。

 それはこの隔絶された【魔女の庭】を侵蝕し、覆い尽くし……やがては『外』にまで、広がっていく。


 そうして世界に張り巡らされた根は葉を生み、芽吹き、異形の肉花を咲かせ――その果てに、【死滅願望】はその存在意義を結実させる。



 ――――――即ち、世界の自死が、完成する。



『アぁ……』

 一際大きい腐肉の寄せ集めが、顎に似た部位を、「ごぼり」と開いた。

 そこからボタボタと零れ落ちる腐肉は、それだけで人一人分の大きさがあった。


 そして、それはもまた、泣き叫ぶ。

 生まれ落ちた歓喜を、その身が抱える『死』への衝動を。


 ――――産声を。

『ア、あ゙ァ……あ゙ぁアああァアぁ、ア゙――――――――――!!!』




 斯くして世界の【死】が、その意思が、種子が――此処に生まれ落ちた。




「これで、六万八千七百五十一回目……」

 生まれ落ちた異形の獣を仰ぎながら、椿は小さく、か細い声で呟く。

 振り返った彼女は、笑いながら泣いていた。


「また、世界を救いに行くんでしょ?」

 、と彼女は言外に問う。


「……っ」

 胸の深い所が、ズキリと痛んだ。

 だが柊は誤魔化しも、濁しもしない。

 ただ、真っ直ぐに彼女の目を見つめ、はっきりと頷いた。


「はい」

「……じゃあ、最後のワガママに付き合って。ね?」


 ゆっくりと、椿は右の腕を差し出す。


「無駄でも良い。せめて、せめて……あと、少しだけ……お願い……っ」


 震える声が、唇が、精一杯の笑みを作る。

 涙を流しながら、彼女は請う。



「あと少しだけ、私の傍に居て……私だけの柊でいて?」



 それもまた、いつもと変わらない、お願いごと。

 柊はただ無言で、彼女の手を取った。



 ……その小さな手は、いつもと同じように、震えていた。






 右手を高く掲げ、柊は空中に幾つもの槍を生み出した。



 ガラスで象られたように透明で、儚げな細身の槍は、柊が右手を振り下ろすのに応え、滑らかに地表へと降り注ぐ。

 刃の弾丸が真白い雪を舞い上げ、杭を打つようにして異形の身体を地表に縫い止めた。


 間髪入れず、椿が柊と【死滅願望】の間に降り立ち、巨大な爪を振り払う。

 見かけによらず硬質な異形の肉体は、しかし幾度もくり返し刻まれる爪の斬撃によって少しずつ、少しずつ削られていく。

 身じろぎし、後退する異形。


 だが柊の紡いだ鎖がその四肢を縛り、こちら側へと強制的に引きずり込んだ。

 駆けだした椿が【死滅願望】の真正面で大きく踏み込み、生み出した爪を幾重もの螺旋の形に交差――――彼女がぐっと拳を握ると同時、その先端が細く、鋭く、収束する。

 その意思に応え、黒い爪は空気を引き裂く高音と共に回転、それは一直線に【死滅願望】の胴体へと突き立てられた。


『アぁああ――あ゙――』


 耳を破壊するような悍ましい悲鳴を上げて、顎が「ごぼり」と開かれる。

 そこから生まれ出る黒い光――二人は知っている。


 雪を溶かし、地面を抉り抜く超高熱の砲撃。

 これはその予備動作であると。


 何度も何度も繰り返してきたこの最終決戦の記憶が、【死滅願望】と対峙し、敗れてきた記憶が、彼ら二人の取るべき『最善』を導き出す。


「柊!」

 名を呼ばれるより早く、柊は右腕を突き出した。


 透明な式が新たな鎖と枷を生み出し、【死滅願望】の顎を瞬時に拘束する。

『――――――――――!』

 くぐもった悲鳴が上がると同時、熱線は異形の頭部もろともを灼き焦がす、超威力の爆弾へと変貌した。


 轟音と共に地面を揺らす爆発は雪を舞い上げ、視界を白い煙幕のように遮る――だが二人は、一切気を緩めない。

 お互いに駆けだし立ち位置の前後を入れ替えるとまず、柊は巨大な防壁を二人の前へと何枚も重ねて紡ぎ出した。

 直後、【死滅願望】が突き出した腕が防壁を打ち砕き、幾重にも張った壁を粉々に砕く。


 だが、真正面に迫る巨腕に、柊は怯まない。

 顔色一つ変えること無く、彼は冷静に左の腕を振り払った。



 宙に翻る、白と赤――そして、黒。



 柊の操る糸によって空中に身を翻した椿が、無防備に突き出された巨大な腕を、全力の、何重にも重ねた爪の、連続する斬撃で切り刻んだ。


『ア―――ァア――――ア―――!』

 腐肉が削れ、骨が砕かれ、【死滅願望】の絶叫が響き渡る。



「戦える……っ」

 二人の繰り返した『終末』は決して無駄では無い。

 戦いの最中、椿は確かにそう、感じていた。


「まだ、私達は戦える……!」


 一手一手、確実に、【死滅願望】は追い詰められていく。

 確実に、勝利へと近づいている。

 何度も何度もくり返し、やがては最後の一手にまで肉薄出来るだろうと――少なくとも彼女は、思っている。信じている。


「いつかは、絶対に……いつか……いつか……ッ」



 ――柊もそう思っているだろうと、信じ切っている。



 彼もまた、一手一手、『この先』を信じ、〈式〉を紡ぎ、戦っているのだと。

 戦いの合間、僅かな時間、二人の眼が合う。


 汗を滲ませながらも、彼は笑い返してくれる。



 だが――それは果たして、何回、何千回、何万回先になるだろうか。

 果たして――その先に絶対に「ある」と、誰が言い切れるだろうか。



『アは』


 ――と。

 耳に聞こえた嘲りは――恐らく幻聴では無い。



「……っ!」

 猛烈な悪寒が背筋を駆け抜けた。

 椿も、柊も、全く同時に身体を大きく震わせ、それぞれが右と左へと視線を交差させ――――、




 直後、視界は暗転する。




 何が起こったのかも分からないまま。

 こうして二人の戦いは、また振り出しに戻る。


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