第15話 終わりゆく世界
椿が予想した通り、世界はその日から段々と傾いていった。
雪は日に日にその強さを増し、景観を真白で飲み込んで。
雲は厚く日の光を遮り、昼と夜の境目は曖昧に溶けていく。
吹雪と風は、甲高くもか細い、女の悲鳴のような音で日夜延々と泣き続ける。
「まるで世界が泣いてるみたい……」
――と。
いつものようにお茶を飲みながら、ふと椿が零した。
それまで、目を閉じてオルゴールの音色に耳を傾けていた柊は目を開き、窓の向こうに目を向けた。
こんな小さな家などあっという間に飲み込んでしまいそうな吹雪だ。
もうきっと、止むことはないのだろう。
(その日が来るまでは……)
暖かいお茶を一口、飲んだ。
それから温い息を一つ吐いて、「そう言えば」と切り出す。
「椿さんには、分かるんですか。世界識が、何を考えているのか……」
「分かんないよ。ただ、何となく、苦しさとか、辛さとか……怖さとか、そういうのは、伝わってくる……」
――今も。
彼女は胸の辺りに手を当てて、キュッと小さな手を握り締めた。
「此処に真っ黒い穴が開いていて、そこに吸い込まれていきそうな……そんな、感じ。ずっと何かに首を絞められているような……そういう気持ち……」
「苦しい、ですか?」
「ううん。私は分かるだけ。これは、私の気持ちじゃない」
きっぱりと首を振り、椿は強い口調で言い切る。
それから俄に声を緩めて、ため息を吐いた。
「……勿論、少しは同情するよ?」
同情はする。
だがそれだけだ。
彼女にとっては世界を赦す道理も、救う義理も無い。
彼女にとって大事な物は、今、柊と共に過ごすこの時間だけだ。
この時間を奪い去る『世界』とは彼女にとっては憎悪の対象でしかないのだろう。
だが柊は……奪われる側である彼は、少しだけ違う意見を口にした。
「あの人は……シキはきっと、それを消してあげたかったんでしょうね……」
「……」
椿の顔が分かり安く歪んだ。
ギュッと両の拳が握り締められる。
「私は、赦さないよ」
そしてより一層強い口調になると彼女は先手を打つように言葉を叩きつけた。
「あの人が柊に押しつけた事も、嘘を吐いていた事も、全部、赦してない……私はこれからもあの人を……アイツを赦さない……っ!」
柊はそんな彼女の言葉を真正面から受け止める。
暫し、睨みあうような時間が続いた。
二人の沈黙を繋ぐオルゴールの音色が、緩やかに止まる。
今度こそ訪れた静寂に折れたのは、椿の方だった。
これ見よがしに彼女はため息を吐いて、オルゴールの蓋をそっと、閉じる。
「柊は、すぐに人を赦しちゃうね……優しくて好きだけど……好きじゃない……もっと自分の幸せを……」
「でも、俺の――」
「って言っても、「俺の幸せは椿さんの幸せなので」って言うの、知ってる。分かってる。……柊にも、今までの【シュウ】からも、何度も何度も聞いたもの」
沈黙した小さな木の箱を、彼女は抱きしめるように腕に抱えた。
「そういう所、好きだけど好きじゃないの……」
「すみません」
「……でも、それが柊だから。分かってる」
「……すみません」
繰り返した謝罪に、小さなため息。
オルゴールを机の上に置いて、じろりと横目で睨む椿。
「謝るくらいなら、ちょっとくらい行動で示して?」
「え……っと。行動、とは?」
「ん」
と、。椿は唇を尖らせ、両の腕を広げた。
「ええと」
「ん」
としか、彼女は口に出してくれなくなった。
渋々、というか恐る恐る、柊は立ち上がり、彼女の近くに歩み寄る。
じりじり、じりじり、と歩み寄り……距離がほど近くなったところで焦れったくなったのか、彼女の方から倚子を蹴って飛び込んで来た。
「うわっ、とと、と……っ!」
思わずひっくり返りそうになるのをなんとか踏みとどまり、体勢を立て直す。
その間も無言のまま、きつく首にしがみつく彼女の身体をしっかり抱き上げ、横倒しになった倚子を〈式〉の糸で引っ張り元の位置に戻し、腰を下ろす。
背をぽんぽんと叩いてやると、どこか上機嫌な調子で彼女は頬をすり寄せた。
そんな素直な甘え方に少し、懐かしい気持ちになる。
「……椿さん、ちょっと昔に戻ったみたいです」
成長も変化もしない彼女の身体は、遠い記憶と変わらず細くて頼りなくて、軽い。
そしてその温度は熱い位に暖かく、寄せてくる頬の柔らかさもまた、何も変わっていないように思えた。
椿がクスクスと微笑み、上目遣いに此方を見つめてくる。
「私は何も変わってないよ。……ちょっと、弱くなったくらい、かな」
「……そう、ですか?」
「そう。……きみのいない世界が、寒すぎて」
身体全体を腕の中に収めるように、彼女は身体を小さく丸め、柊の膝の上にちょこんと座る。
そうして再びオルゴールを手に取るとネジを巻き、その音色を耳にしながら、目を閉じた。
木箱の中の小さな演奏と、寝息のような、静かな深い呼吸の音が二人分。
余りにも細やかなその音は、隔絶された窓の向こうで泣き叫ぶ吹雪の音色に掻き消されてしまいそうで。
このまま、何かが終わってしまいそうで。
「世界に恋をするなんて……」
たまらず、柊はそんな言葉を口にした。
「途方もない話です、ね……」
口にしてから、話題が良くなかったかな、と後悔する。
だが返ってきたのは存外、穏やかな声だった。
「でも、あの人は好きになってしまった。ずっと苦しくて辛くて、死にたがっている終わりかけの世界の意識に、あの人は人間の身で恋をしてしまったの……届く事なんて、ないのに」
『そうだね。私も――……あの子に……』
「あいたい」と言葉にせずに言った彼女の顔を、思い出す。
「苦しい、でしょうね」
月並みな言葉でしか言い表せないが……きっと、そうなのだろう。
「でも、好きになるってそういうこと……どうしようもないの……私だって」
そう言って、椿はうつむけた顔を柊の胸元に押しつける。
どう足掻いても叶わないと知っていながら、渇望せずにいられないシキの顔は……そう。椿の姿にもよく似ていた。
そんな彼女に、自分は何が出来るだろうか、と考え。
……実際、今の自分に出来ることは余りにも少ないと、思う。
「何か、欲しい物はありませんか。また何か……役に立つような物でも、」
精々、彼女がこの先、独りの生活でも不自由しないように、何かを作り、遺してあげる程度。
だが、椿はきっぱりと首を横に振る。
「いらない。もう充分。柊が此処にいてくれるのなら、何も遺してくれなくて良い」
「ですが……」
「家も、温室も、家具も、ぬいぐるみも。柊が置いていった物、大事にしてるよ。だって柊が作った物だから……柊の〈式〉ならそれは、柊自身みたいな物……って誤魔化して……」
「……」
「私は柊がいいの。他には何もいらない」
そう言って彼女は言葉を拒むようにギュッとしがみ付いて、それ以上何も言わなくなった。
別れの予感が、二人で過ごす時間をも、冷たく染め上げていく。
誰にも、何も出来やしない。
世界の自死に対して、人間も、機構も、あまりにも無力な存在だった。
それでも、二人は極力『いつもどおり』を保ち続けた。
いつもどおりに二人で同じ時刻に起き、二人でお茶を飲んで、何気ない言葉を交し合い……二人で共に眠りにつく。
意識が眠りに落ちるまで、互いの存在を繋ぎ止めるように、身を寄せ合って、足を絡めて、手を繋いで眠りにつく。
たったそれだけの日常を、大事に大事に、何度もくり返した。
傍に居られれば良い。
温もりで互いの身体を温められたのなら、それだけで。
たったそれだけで良いのだと。
願いながら、それが永遠でない事を、二人は知っている。
どう足掻いても終わりはやってくる。
世界が、死にたがっているのだから。
故に世界は、死のうとするのだ。
そうして迎えたある日の朝。
ふつりと、唐突に――――吹雪が、止んだ。
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