第14話 そして少年は世界を救うと決めた


 目が、醒める。

 意識が現実へ……冬の世界へと、浮上する。

 熱い物が、頬に、目蓋に、ぽたりぽたりと落ちてくる。

 何度も何度も、しゃくり上げる声が、聞こえた。

 シュウはまだ重い目蓋を、無理矢理こじ開ける。


 すぐ近い所に、彼女の顔があった。

 倒れ伏したシュウの身体を抱きかかえ、椿は静かに泣いていた。


 その顔立ちは……記憶の中の彼女とは、似ても似つかない。

 彼女に積もり続けた数百年の時間は、彼女の顔立ちを大きく変えてしまった。

 根拠のない希望も、与えられ続けた愛情も、もう既に全てが凍り付いてしまった。



 そこにあるのは、諦観と疲弊。

 そしてそれでも、と求め続けるしかない、飢え。



「……」

 手を伸ばして、涙を指で拭う。

 身体が大きく跳ねて、彼女は目を見開いた。

 目と目が、合う。


 大きく、椿の眼が見開かれた。

 痛いほどの視線が、シュウの瞳に注がれる。


「椿さ――」

 名前を呼ぼうとした瞬間。


 手を強く、払いのけられた。

 あっという間に腕が解かれ、身体が床に捨てられる。

 ――ごん! と、頭から鈍い音。

「あいたっ!?」

 思わず間抜けな声が出たが椿はそれにすら目もくれない。

 彼女は一目散に部屋から飛び出して行った。


「えっ椿さん……椿さんっ!?」

 慌てて起き上がり、窓から外を見る。

 もの凄い勢いで逃げていく彼女の後ろ姿が見えた。


「ちょ、ちょっと待って……な、なんで……なんでっ!?」

 情けない声を上げながら、シュウも慌てて椿の後を追った。



 椿の足跡は、墓地へと続いていた。

 目を凝らしそれを辿りながらシュウは全速力で雪の上を駆ける。


 無数の墓標はそれに併走するように、何処までも続いていた。


 ……恐らくその総数もまた、六万八千七百五十。


 それらは全て、ここを訪れた【シュウ】のものだろう。

 此処にやってきて、彼女を護るために死んでいった【シュウ】。

 夥しい数の『死』と『くり返し』が、此処に印として刻まれていた。


 そしてその首全てににかけられたのは、ヒイラギの葉を使った、手作りのリース。

「あぁ――」



 唐突に一つ、思い出せる事があった。

 ヒイラギ。

 木に冬と書いて、柊。



 あまり使われない読み方だが。これはこうも読めるんだ――と。

 最初の『授業』であの人は、教えてくれた。



「そっか。これ、俺の名前の花だ……」



 それは、誰にも呼ばれず薄れてしまった名前。

 そして椿によって再び刻まれた、名前。

 何よりも彼女が、一番好きだと言っていた、花の名前。


 それが全ての墓標に、下げられている。

 六万八千七百五十個の、弔い。



 そこに根付く苦痛を、シュウは――柊は、思う。



 耐えがたく、だが耐え忍ぶことしか出来ない苦痛だ。

 椿は柊を求め、待ち続け、迎え続け……そして見送り続けるしかない。



 また、出逢うことを知っているから。

 また出逢った所で、死に別れることを知っていながら。



 それでも『再び』を願わずには居られないその思いは――恋と呼ぶにはあまりにも、苦痛を伴いすぎている。

 それは最早、呪いと呼ぶべき物なのだろう。


 彼女は――そして彼は、『恋』に呪われている。

 だが、彼らにはそれしか無い。



 それだけしか幸福を知らず、それだけしか欲することが出来ない。

 そしてそのために身を滅ぼし、心を削り、血を吐きながら縋り付く。

 それしか、出来ないのだ。



 椿がそうして【シュウ】の訪れを待ち続けたように。

 そうして何度も、【柊】が椿のために死んできたように。



 そして。

 そのために全てを犠牲にしてきたのがきっと、シキ=ヒトトセという女だ。



(あの人が何を考えているのかは……分からない。でも……きっと俺は、あの人を……シキをこの先も、恨まない。恨めない)


 今でも忘れられない。彼女がほんの僅かに見せた、感傷を。

 その、言葉を。

 そこから滲み出た、彼女の『想い』を。


「会いたい」

 と口にした、彼女を。


(俺は、赦してしまう)


 彼女もまた、恋に呪われている人間の一人だ。

 そして彼女を呪った相手は、きっと。


(きっと、この世界という存在)

 そうしてただ一人、心奪われた人のために全てを犠牲にする、シキ。


(俺は……あの人の選択を、理解して、しまう)


 なぜならば自分もまた……選ぶだろうからだ。

 椿を救える道筋があるのなら、何を犠牲にしてでも、それを選び取るだろうから。



「椿、さん……っ!」



 永遠に続くかと思われた墓標が途切れ、その先に椿は立っていた。

 白い衣装を纏う背姿は雪に溶け消えてしまいそうでたまらず、柊はその腕を強く掴み、引き寄せる。


 今度は、拒絶されなかった。

 身体を腕の中に収めたまま、椿はぽつりと呟く。



「もう……殺してもらえないね、私のこと」

「……はい」

「あは……まただめになっちゃった。……ううん。これは私の自業自得、か……」


 腕に、椿の腕が絡められる。

最後に会えたのは、三十八年前……」

 その手は、震えていた。


「会いたかったよ。でも会いたくなかったの」

「……はい」

「思い出してくれて、嬉しいの。でも凄く、辛いの」

「……はい」

「悲しいお別れが、凄く、凄く、悲しくなるの。知ってるの……」

「……はい。……はい」


 暫く二人は、そのままジッと、身じろぎもせず、互いの温もりを確かめ合うように、立ち尽くしていた。


 柊はふと、空を仰ぐ。

 もう、そこに満月はない。


 鈍色の空は僅かに赤く色付き、今が夕暮れ時の時刻であることを知る。

 息を吐き出す。白い靄となって吐き出されるそれを、柊はジッと見つめ。


 意を決して、口を開いた。


「あとどれくらい、時間は残っていますか?」

 椿の身体が、堅く強ばった。

 彼女は次第に俯いて、柊の腕にしがみ付くように、手に力を込めた。


「あれだけ私が【獣】を生み出したのに、『世界識あのこ』から伝わる【獣】の気配が全然消えてないの……多分、もう、一ヶ月も持たないよ……」

「……そうですか」


 別れの時……それは世界識自身が抱く【死衝動】が限界を迎える瞬間を指す。

 【死衝動の獣】の王たる異形……【死滅願望】がこの地に顕現する時。


 【獣】とは比にならぬほど強大なそれと、今までに二人は無数に対峙してきた。

 そしてその度に、柊は自らの肉体を全て捧げる事で、それを鎮めてきたのだ。


 【柊】としての記憶を取り戻そうが、取り戻すまいが、関係無く。

 彼は世界を――椿の生きる世界を救うために、自らの死を選択し続けてきた。


 そうしてそれを、何百年のうちに六万八千七百五十回、繰り返してきた。


「ねえ、柊」

 名を呼ばれ、我に返る。

「何ですか、椿さん」


 椿は此方に身を預けたまま、振り返らずに言った。

「また、私を一人にするの?」

 細く、小さな身体を抱きしめる手に、力がこもる。

「俺は……」


 今まで何度も何度も経験してきた別離の光景が、蘇る。

 その度に痛々しく泣き叫び、縋り付く彼女の姿が、鮮烈な色を帯びて思い浮かぶ。


 柊自身、あんな経験を彼女に与えたい訳では、無い。

 だが、その果てに彼女が生きて居られるのなら……それは何よりも優先されるべき事だ。


 酷い事を言っているのだと、理解はしている。

 だが自分は彼女の命の為に、その存在の為に、捧げられる物は何だって捧げるのだろう。



 今までもそうだったように。

 これからも、そうあり続ける。



 それが『呪い』めいた感情より産み出された物だとしても、構わない。



「俺は貴女に死んで欲しくありません。絶対に」

「……そうだね、柊はいつも、そう言ってくれる。全部、私のせいなのに」

「違います。全てはシキが俺達を……」

「ふふ。分かってるよ、大丈夫」


 クスクスと笑った椿が、腕からスルリと抜け出す。

 今度は、逃げ出さない。

 真正面に立った彼女は、笑ったまま……悲しそうに笑ったまま、両の腕を緩やかに広げた。


「まず、コレを言わなくちゃね……これで、そう……八十九回目」





「お帰り、柊」

「はい。ただいま、椿さん――」






 その日の夜は、昨夜の狂乱が嘘のように、静かだった。

 静かで、穏やかで……何よりも、記憶を取り戻した柊と椿が過ごす、久方ぶりの夜。

 その夜は椿の寝台に二人で身体を収め、眠りについた。

 彼女の淋しさを埋めるぬいぐるみは、今は必要無い。

 全て丁寧に、窓枠に腰掛けさせてある。



 そうして。

 すっかり深く寝入った椿を、上体を起こした柊はじっと、見つめていた。



 安心しきった寝顔はまだ、昔の彼女の面影に近いように思えた。

 頬を手の甲でそっと撫でれば彼女はムニャムニャと何かを口にしながら、くすぐったそうに笑う。

 次に何度か、柔らかく指を抜けていく髪を梳かし……そうして彼女が起きないことを確認してから、寝台をそっと抜け出した。


 音を立てないように慎重に、カーテンを開く。

 真っ黒な夜闇がその向こうには広がっていた。


 光の一欠片も見つけられない夜景色。

 だが、その中に、薄く……本当に薄く、目を凝らし、意識を鋭く集中させてやっと見つけられる、薄い光が、ある。


 それは遙か彼方まで延々と、を象り、この閉ざされた地の隅々に広がるよう、記されている。



 今のような休眠状態では、作った本人でさえも視認しづらい。

 恐らく、柊以外の誰にも、この〈式〉を見つけることは出来ないだろう。



 無色の〈式〉。

 それはシキ=ヒトトセより与えられた、無貌にして無限の〈式〉。

 ありとあらゆる物の『創造』こそが、柊に与えられた〈式〉の形である。


 その制限ルールは一つだけ。

 


(そして、これも……)


 〈式〉はあともう少しで地表を埋め尽くす。

 今までの【柊】が描き繋いできた物が、ひとつの〈こたえ〉を完成させる。


「全ては彼女を救うため。全ては彼女のいる、世界を救うため……」



 笑っていて。

 泣かないで。



「そのためになら、他の何もかもが惜しくはない」

「比べるにも値しない」




「なあ。――そうだろう、俺」



 ヒヤリと冷たい窓ガラスに額を付けて、問う。

 そこに映る自身の姿は、どこか誇らしげに、笑っていた。


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