第13話 追懐:如何にして世界は壊れたか 〈3〉
「げ、ぼっ……」
自らの血に溺れ、夥しい量のそれを、吐き出す。
吐いても吐いても血は、止まらない。
まるでこの身体の中にそれらは無限に蓄えられているかのようだった。
そうして絶え間なく吐き出される血は、足元の排水溝へ吸い込まれていく。
裂かれた腹から溢れ出す血も、同じように。
(これを通して血を集め、各地に撒くのだと、シキは言っていたっけ……)
逃避する思考を、首に添えられた刃の冷たさが、剥ぎ取った。
「あ……っ、や……」
ガチガチと、歯が鳴る。
身体が、逃れようと反射的に暴れる。
それを、信徒達の腕が強引に押さえつけた。
髪を掴み、無理矢理天井を仰がされる。
眩しい白色の光が、網膜を焼いた。
つぷり、と刃先が喉に沈む。
段々と、深く、深く。
「あ、あぁ……あっ、が、」
悲鳴が、あふれ出す。
それはすぐに血に溺れ、声にならなくなる。
(はやく)
意識は薄れ、途切れていく。
ヒューヒューというか細い音だけが、最後に残った。
(早く、椿さんに……会いたい)
その思いを最後に意識は一度断ち切られ――……眠りから覚めるように緩やかに、浮上する。
ゆっくりと、戻り往く視界。
身体の感覚。
視界。
温度。
……聴覚。
「どうして」
――と。
この場にあるはずのない声が、聞こえた。
「……っ!?」
大きく目を見開き、反射的に顔を上げる。
血の海に沈みながら、見上げた光景。
それはいつもと致命的に異なった。
白装束の人間達が、道を譲るように両脇に下がり、頭を垂れている。
その最奥に佇むのは、いつものように日課を見守るシキと……彼女と手を繋いで立ち尽くす、彼女の姿。
俺が早く会いたいと望んでいた相手――でも、今じゃない。
「……どうして、椿さんが」
居るはずのない彼女が、此処に立っている。
そうして真っ青な顔で、此方を見下ろしている。
腕に抱いたウサギのぬいぐるみが、爪を立てられて歪に拉げていた。
「どうして……っ」
彼女もまた、同じ言葉を口にする。
「どうして、こんな……シュウが……!」
問いかけは、手を引いて隣に佇むシキへと向けられる。
「あの身体は薬だからね。血を流し、世界に注ぎ込まれるそれらが、世界の『救い』になる」
淡々と、シキは答えを口にする。
「救い……?」
「君が『慰め』として世界の〝識〟に感情を捧げるように。彼の血肉は世界の死衝動を鎮める薬になる。だから毎日こうやって彼は、その血肉を世界に捧げるんだ」
「違う……違う違うちがうッ!」
金切り声で叫んで、椿さんはシキの腕を振り払った。
そうして肩を大きく上下させながら、荒い呼吸を繰り返す。
腕の中のぬいぐるみに、引きちぎらんばかりに彼女は強く、強く、爪を立てた。
「私が聞いているのは、どうしてこんな……こんな、酷い事を……ッ!」
叫ぶ彼女の肩を、シキは抱く。
抱いて、そのまま視線を俺へと導くように、身体を強く、抱き留める。
嫌がり頭を振る彼女の首を、シキはキュッと柔く、掴んだ。
そのまま耳元で、シキは囁く。
「これは『儀式』だからね。世界を救うために必要な『日課』だ」
「なんで、シュウが……そんな……」
「違う。順序が違うんだよ、椿。……君が好きになった男の子が、そういう存在だった。それだけの話だよ」
「世界を、……救う、ために……?」
「そう。そのために作られたお人形。それが君たちだ」
「あんなに痛くて、苦しくて、酷くて……シュウは、泣いているのに……?」
「そう。そうだね」
シキが一つ静かに頷いて手を放し、立ち上がる。
「仕方ない」
「痛覚は感情を生み出す重要な要素なのだから。……薬自身が救いを自らの存在意義と自覚していなければ、どうやら意味が無いらしくね」
そうして、泣きながら佇む椿さんを見下ろして、彼女は言う。
そこに罪悪は一切無く。
ただ、問いに対する純粋な返答として。
シキはただ、静かな言葉を彼女に投げかける。
「だから慰めるために君を宛がったんだよ、私は」
「……ッ!」
椿さんの顔が、見たことも無い表情に歪んだ。
身体が大きく震え、握り締めた拳からは、血が滴り。
見開いた眼からは大粒の涙が、ボロボロと零れ始める。
(椿さん、ダメだ……っ)
血だまりから這い上がり、それを止めたいと望んだ。
拘束を「式」で断ち、上手に動かせない手足を必死に動かして身体を起こす。
走り出す。
だけど――その十数歩の距離が、あまりにも遠い。
「こんな、こと……」
何よりも。
今、彼女の眼には、俺は見えていない。
「望んだのは……だれ……」
頭を垂れて佇む信徒達を見据える彼女には、他の何もかもが見えていない。
「人間は……お前達、は……こんな酷い事をしてまで生き残りたいの……救われたいの……、こんな、死にたがりの脆い世界で……?」
憎悪。
憤怒。
悲哀。
絶望。
ありとあらゆる負の感情が彼女の顔を歪め、彼女の心を、黒く染め上げていく。
「いつでも泣いてばっかりの……生きようともしない、この世界で……」
無垢であって欲しいと願った心が。
「自分達じゃ何も成せない、祈ることしかしない人間どもが……っ」
痛みも苦しみもずっと知らないでいて欲しいと望んだ存在が。
――そうあることで世界を慰める『機構』である、彼女が。
「縋って、押しつけて、壊して、……そうやって、シュウを犠牲にして、保たれるくらいなら……っ!」
そして世界の〝識〟に一気に流れ込んだ負の感情は――逆流する。
「こんな世界……壊れてしまえばいい……っ!」
その望みの通り、世界を壊しつくさんばかりの、『死衝動』を持って。
*
「そうして世界から、色彩が消えた」
「永遠の冬の訪れ。辛うじて踏み止まっていた世界が、終わりへ向けて転がり落ちた」
「それが、彼女が世界と人間を憎んだ、初めての日で……世界と、俺が壊れた日」
*
何処より生まれ出た黒い光が、世界を覆い尽くした。
一瞬のようで、長い時間。
俺は視界が不確かなまま、それでも漸く掴んだ『彼女』の身体を必死に抱き留め続けていた。
身体が斬り裂かれ、血が溢れ出しても、決して放さないように。
早くその憎悪が鎮まるように、願いながら、ただ必死に。
何度も何度も、椿さんの名前を呼ぶ。
その声が自分の耳にすら、届かない。
泣かないで。
笑っていて。
どうか、貴女だけは。
代わりは全部、俺が。
……光が、消える。
次に目を開くと……周囲の建物も、シキの『信徒』達も、何もかもが消し飛んでいた。
見渡す限り、一面の荒野。
空は鈍色。
そこから舞い落ちる白い粉。……雪。
荒く吐き出される俺の息もまた、白かった。
そして、赤くもあった。
「シュウ……?」
腕の中で、椿さんが虚ろに呟く。
彼女の身体に、傷は無い。
穏やかな温もりが、そこにはちゃんと、あった。
彼女の身体を濡らしている赤色は、全て自分の物だ。
それを確認して、笑う。
安堵したせいで身体から、力が抜けた。
地面に横たわり咳き込み、血を吐き出す俺を、椿さんは慌てて抱き起こす。
「シュウ……ッ!」
ボロボロと零れる彼女の涙が、頬に熱く滴り落ちる。
彼女の涙を止めたくて、手を伸ばそうとする。
だが身体はもう、意思に一切応えなかった。
治癒の兆候が、訪れない。
俺の身体があの光によって致命的なダメージを受けた事は、朧気に分かった。
「い、いや……私、……なにが、……なに、を……?」
――混乱に答えたのは、一人の人間が鳴らす、拍手の音だった。
周囲一帯を吹き飛ばした破壊の跡地にてただ一人、無事だった人……シキ。
彼女はいつもと変わりない矛盾を着こなした姿で佇み、この場に相応しくない笑みを浮かべていた。
見たことの無い、顔だった。
今まで何度も見知ったシキ=ヒトトセという人の姿が、まるで他人のように今、俺の目には映っている。
それは恍惚と言うべきか、或いは満足感と言うべきか……何かを成し遂げた、顔。
いつだって色のない表情を浮かべていた彼女の顔に初めて、血の通った感情が宿っていた。
「素晴らしい……いや素晴らしいな……! 今の一瞬でもうこの大陸一つが消し飛んだんじゃないか――ああ、上出来だ! 本当に上手くやってくれたね、椿姫。お陰でやっと『あの子』と君が深く繋がった……これでやっと、始められる……!」
「シキ……どうして、……どう、して……こんな……ことに……」
「いや、それともは……そう。『堕ちた女』とでも呼ぶべきか……」
「シキっ!」
「何を知ったところで、お前には何もできやしないよ、椿姫」
此方に歩み寄ったシキが手を伸ばし、椿さんの腕を強く引く。
悲鳴を上げる彼女の身体を、シキは強く、抱きすくめた。
「お望み通り、お前の〈式〉も使えるようにしてあげよう。戦う事もこれからは必要になるからね」
「たた、かう……?」
「今までは一方通行だったが、これからは違う。お前の抱く感情に『あの子』は応え、より多くの【死衝動の獣】を生み出すだろう。それをお前は屠らなければならない。そうやって、『あの子』を慰めなければならない。そして……お前が心より悲しみ怒り、望めば、今度こそ世界は終わるよ」
「世界、なんて……!」
「終われば良い、か――でもそれは、お前の大好きな存在との再会すらも諦めると言うことだよ?」
「!」
椿さんが、俺を見下ろす。
ゆるゆると、彼女は首を横に振った。
「いや……っ」
「そうだろう? だから頑張ってね、椿姫。……お前が頑張って世界を護るなら、冬の子は必ず、お前の元に帰ってくるよ。……何度死に別れても、絶対に、ね」
「や……っ」
シキが椿さんに掌を、向ける。
椿さんの身体が、淡く光を帯びた。
「つば、き、さんっ……!」
俺は猛烈に嫌な予感を覚え、まともに動かない身体を無理矢理に従えて、手を伸ばす。
「シュウ……いや、私……わたし……っ!」
椿さんがそれに気づき、俺の手を掴み取る寸前――彼女の姿はかき消えてしまう。
何も掴み取れなかった俺の手は、ぷつりと糸が切れたように、地に落ちた。
「じゃあね、私のかわいくて愚かな娘――」
そう、呟き。長い、ため息をシキは吐き出した。
「……ああ」
一人、地に伏せる俺を、彼女は次に見下ろした。
乾いた笑いが、寄越される。
「きみはもうすぐ死ぬよ。あれだけの力を真正面から受け止めたんだから、当然か」
何の感情もない、顔。
いつもと変わりない無味の顔色。
「安心するといい」
いつものように淡々と、彼女は言葉を連ねる。
「君はまた生まれてくるよ。君の『核』は特別製だからね……この程度じゃあ、完全には壊れやしない……まぁ、この損傷だ。多少、記憶や機能に不具合が生じるかも知れないけれどね」
「それに」と彼女は言葉を切り、一面の灰色と化した空を仰いだ。
「……この世界がいよいよ終わるその時には、必ず君は生まれ、やって来る。君はそういう存在として、私が作ったのだから」
「椿、さんは……」
「はは。この期に及んで心配するのはあっちの事か……」
皮肉気に頬を歪めて彼女は言う。
「彼女なら、この世界の何処かにいるよ。ちょっと僻地に閉じ込めただけさ。何せ彼女はこれから、世界のために奉仕する、【獣】の門番となるからね」
「門番……? 一人、で……?」
「そうだ。そして君はその一人ぼっちのお姫様の、唯一の味方だ」
膝をついてシキは、此方に手を伸ばす。
顎を掴み、彼女は無理矢理に視線を上げさせてくる。
涼やかな薄氷色の瞳と、目が合った。
「君は椿が、好きなのだろう、冬の子。ボロボロの君にたった一人だけ優しくしてくれたあの子を、好きになってしまったのだろう?」
「……」
「きっと椿も同じだろうね。現に彼女の恋慕は、世界を見事に破壊したのだから」
そうして彼女は、俺の顔から手を放した。
「さて。君たちの存在が、『あの子』を救い、慰めるか……それとも君たちの恋が、敗北するか……ここからはやや分の悪い賭けだ。精々頑張ってくれ、私は君たちに期待しているからね……」
彼女の言う言葉の何もかもが、俺には理解出来ない。
だけど――だけどそんな物はどうでも良かった。
「俺は……」
世界の救いとして生み出された俺自身が、最も救いたいものは、ただ一人だけだ。
だから口にするべき言葉も、たったひとつだけだ。
「俺は、彼女に、会いたい……っ」
その言葉に、シキは少しだけ、目を大きく開いた。
それから彼女は細やかに、微笑んだ。
「そうか……」
それは初めて見る、シキの微笑だった。
そしてそれは何処か、酷く悲しげな物だった。
「そうだね。私も――……」
そして――この瞬間、俺は全てを理解した。
理解して――――――――しまった。
シキ=ヒトトセ。
超常の力を持ち、奇跡の人と語られ、世界の救済のために戦ったとされる人。
常に冷淡で淡泊で、内面など読み取らせる隙など僅かにも存在しなかったその人が見せたほんの一瞬の、微笑み。ほんの少しの、言葉。
そこに見えた感情を、俺はもう、知っている。
「貴女、は……まさか、世界の、意識に……」
「それ以上は野暮って物だよ」
感情の見えない顔と声が俺の詮索を拒み、本音を包み隠す。
いつもの。温度のないシキ=ヒトトセが、帰ってくる。
「じゃあね、冬の子。長く良く頑張った。しばらくお休み」
「まっ……」
シキはそう言って、俺の目蓋にそっと、触れた。
何かの〈式〉を使われたのか、たったそれだけの事で俺の意識は薄れ、音も、色も、温度も、その全てが身体から抜け落ちていく。
最後にシキは呟いた。
それは何処か優しげな声を、していた。
「大丈夫だ。君はまた、ちゃんと、逢えるから――」
暗む目蓋に、春の色彩が過る。
それは目映い輝きをキラキラ、散らすように笑って、笑って、笑って……泣いて。
そうして、消えてしまう。
(椿、さん)
泣かないで。
笑っていて。
その笑顔を護る為なら。
そのためになら。
俺は。
*
「そうしてくり返しくり返し……何度も俺は此処にやってきて、彼女と出会い……そうして彼女のために、死んだ。世界の『終わり』と戦って……死んだんだ」
過去の映像は終わり、再び暗闇の世界に俺は戻ってくる。
気がつけば沢山の、沢山の屍が周りに転がっていた。
累々と並ぶそれらは全てが同じ形で、同じ顔をしている。
全てが等しく、俺の姿をしている。
――――――――延べ六万八千七百五十の、死体。
それらが皆一様に死んだまま、動かないままに語りかける。
「彼女に笑っていて欲しい」
「その笑顔の隣に居られたなら」
「それだけで良い」
「そう願って、何度も、何度も」
「何度も何度も此処を訪れた」
「悪い魔女を殺す為に訪れて」
「そうして彼女と出会い直した」
「例え記憶を取り戻せなくても」
「【
「でも」
「俺は」
「分かってしまった。気付いてしまった」
「俺にとって本当に大事なのは、彼女だけで」
「彼女の居る世界が大事で」
「彼女が笑って生きてくれるのなら」
「それが何よりも大切で」
「そのためになら、他の何もかもが惜しくはない」
「比べるにも値しない」
「だから」
細波のように、言葉を繋ぎ広がる死者の声。
それらが通り過ぎていった最後に、中央に立つ俺が……最初の【
「だから――、俺は使い潰そうと決めた。全てを、彼女の為に」
「なあ……分かるだろう? 俺」
「ああ」
誘いに、俺は笑い返す。
過去の全てを知り、全てを思い出し、自らの正体を知り、彼女の「罪」を知り――だけど今、胸にある感情の形は何も、変わっていない。
最初から、そう。なにも。
最初から俺は、そのために此処にやってきたんだから。
最初から、俺はこの世界を救うために、俺は旅をしてきたんだ。
――――――――彼女の生きている、この世界を救う為に。
「そうだな、俺」
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