第9話 世界は【魔女】を赦さない 〈2〉
身勝手だ。
我ながら――と、椿は自嘲する。
寄り添い、手を握り、全てを受け止め……好きになってもらえるように振る舞いながら、今更「殺して」などと頼むのだ。
身勝手で、酷い女だ。
だけど、耐えられない。
この地に一人閉じ込められて……幾年ぶりにやってきた彼を突き放すなど。
ましてや人間の行いに酷く傷ついた彼を放置する事など、できやしない。
それに。
それに、椿自身もまた、望んでいるからだ。
人の温もりが、欲しい。
人の優しさが、欲しい。
共に過ごす時間が、欲しい。
笑って、欲しい。
好きだと言って、欲しい。
大事にされたい。
大事にしたい。
だけど――――――殺して欲しい。
「本当、酷い女……でも、私は【魔女】なんだもの……仕方ないよね」
呟いて、歩みを進める。
足音は、どんどん近くなる。
地平線を多う黒い影が、刻一刻と此方に迫り来る。
今までにも何度か見た、『お客さん』の姿。
あれは、シュウのような『迷子』ではない。
正真正銘、彼女を殺しに来た『来訪者』だ。
足を踏み入れればもう二度と戻れないこの地に、『そのためだけ』に訪れた者達。
武力を注ぎ込み、世界の在るべき姿を取り戻すために送り込まれた刺客。
「何処の国の人達かな……まだ、こんな大勢をかき集める力があるなんてね……」
馬を駆り、剣を翳し、槍を振り上げ。
何処かの国の騎士建ちは此方に向けて押し寄せる。
それを何処か呆けたように見つめていた椿は、やがてため息を一つ、吐いた。
「だめだね。あの数は、流石に全力で抵抗しないと死んじゃいそう……」
自分の家を、振り返る。
窓から此方を心配げに見下ろすシュウの姿が、目に入る。
眼が合う前に、視線を外した。
そうして深く深く、息を吸って、吐いた。
「シュウは自分のこと化け物だって言ってたっけ。そんなの……私からすれば、全然なんだよ……」
部屋を出る前に、自分を見つめる彼の顔を、思い出す。
毒気のすっかり失せた、穏やかで心優しい少年の顔。
【魔女】への殺意など、もうその心の内からは消えてしまったことだろう。
今や、傷を癒してくれた【魔女】に感謝と親愛すら、抱いている。
……そんな彼と過ごしていると、忘れて仕舞いたくなる。
自らの存在が、如何に世界に呪われるべき物であるかを。
自らが犯した過ちを。
自らの背負った、罪を。
だけど、眼の前の光景はそれを決して、赦してはくれない。
忘れるなと、糾弾を突きつけるように迫ってくる。
「……そう。私は【魔女】で……世界を壊した者……そして、【獣】の支配者……忘れてなんて、いない……」
言い聞かせるように呟きながら、自らの胸元を、強く、その肉を抉り取る程に強く、押さえる。
「そう。分かっている。私は、世界を呪った女……世界を壊した、【魔女】……っ」
圧し殺し、目を背け、そしてシュウの存在に癒やされていた『感情』が、痛みに答えるようにして沸々とわき上がる。
「だから……っ」
声が、震える。
「だから私を殺して……ここから解放して……でも、一緒に、生きて……いたいの……」
呼び覚まされる感情に、胸の内がどす黒く染め上げられる。
「いや……いやなの、もう……」
忘れていた慟哭が、目を背け続けた哀憐が、蘇り、感情の枷を解き放たれ――心の奥から、溢れ出す。
――脳裏に蘇る記憶は、大量の喪失の映像。
此処にやってきた『迷子』達の、最期の瞬間。
雪に広がる鮮血の色。
冷たくなる身体。
それでも笑って、感謝の言葉を告げる人たち。
謝るべきは自分なのに、死ぬべきは自分なのに。
優しい彼らは皆、椿に謝って、事切れる。
彼女を一人にすることを悔いて、何処か遠くに行ってしまう。
全ては自分が世界を壊した事が原因で。
全ては【魔女】である自分が此処で生きている事が、原因で。
――全ては、私が世界を呪ったせいで。
なのに『あの人』は私を赦して、消えてしまったんだ――。
「寂しいの、悲しいの、でも、でもきっと、また今度も、あの子も、死んでしまうから。私を置いて、私を一人にして、私を置き去りに……死んでしまうんだ……っ」
悲嘆。
慟哭。
絶望。憤怒。寂寞。痛嘆。孤独。苦痛。饑餓。恐怖。悲しみ。寂しさ。飢え。寒さ。淋しさ。哀しさ――――ありとあらゆる感情が、蘇る。
胸を食い破って溢れ出しそうなそれらの苦痛を抱え込み、椿は背を折る。
「ああ――――――」
吐息が、零れる。
涙が、目からあふれ出す。
そして――化け物が、真なる化け物の心より、生まれる。
バキンッ――――――――――と。
空気がひび割れる音。
何もない虚空を引き裂く、黒いヒビ。
それを、内側から生まれでた爪は食い破り、腐り溶けた肉がそこから溢れ出る。
肉は骨と共に生まれ落ち、骨は肉を纏い、歪に溶け合って絡み合い。
そうして一つの異形を、作り出す。
【獣】――世界を喰い滅ぼす四つ足の異形が、生まれ落ちる。
そしてそれは幾度も、幾度も、幾度も……繰り返される。
彼女を殺しに来た人間を……『迷子』ではない、『来訪者』――脅威を討ち滅ぼすために、椿の感情より無数に、【獣】は生み出される。
地が震え、足音が、怒号へと変わった。
突き上げられた槍、剣、銃……ありとあらゆる『暴力』が彼女を――【魔女】を殺そうと、掲げられる。
月の光はそれを、輝かしく照らし出した。
「あはは……久しぶり、本当に……久しぶり……こんなに心が痛いのは…………っ」
涙を流しながら、椿は指先を真っ直ぐに、前へ向ける。
「凄く痛くて、悲しくて、苦しくて、辛くて、もう、胸がはち切れそう……っ」
腐肉の【獣】たちが、今にも溶け落ちそうな四肢を、胡乱げに動かす。
眼の前の人間をただ殺すために、彼らは本能で前方へと、歩みを進める。
それを見やりながら、椿は前へ伸ばした腕を、上へ振り上げた。
即座、『爪』が彼女の足元より生え出、月光を遮り、【魔女】の姿を影へと隠す。
「だから」
そうして彼女は、嗤った。
「痛くて苦しくて悲しいから……あいつらを殺そう。ぜんぶ、ころそう」
*
――取引、しよ?
――……取引、ですか。
思い出す。この地にやってきたばかりの時の事を。
――内容次第では考えます。
――えとね。きみがルールを破らなければ、私はきみを殺さないでいてあげる。だから此処にいて欲しいの。それだけ。
あの時彼女が提示した、「此処で生きるためのルール」を。
――それで? そのルール……というのは?
――難しくないよ。凄く簡単なこと。
そう言って彼女は微笑んだ。悪戯っぽく。
「私を怒らせないで」
「私を、悲しませないで」
その言葉の意味を、シュウは今やっと、此処で思い知った。
「【魔女】……【獣】の、主……」
世界の彼方此方にて語られる、それら言葉の、意味も。
窓枠から見下ろす光景……それに目を奪われ、食い入るようにシュウは見下ろす。
見たことの無い椿の姿が、そこにはあった。
見開いた瞳から絶えず流れ出る、涙。
食いしばった歯から漏れる、怒気。
自らの身体を強く抱き爪を立てる、腕。
そうして彼女が声を荒げれば、【獣】が虚空より生み出される。
「……あれが……【魔女】」
世界を壊したと語られる女の、その意味が、此処には在った。
彼女の負の感情が、【獣】を生み出す。
彼女が怒り、悲しめばそれが【獣】を生み出す引き金になるのだ。
銀の鎧を纏う人間達と、椿が生み出した【獣】たちが、ぶつかり合う。
轟音、怒号、絶叫。
血飛沫。
白く、静かだった雪原にそれらがぶちまけられ、静寂は跡形も無く打ち砕かれた。
悲鳴が上がり、人の肉が爆ぜ。
泣き声が上がり、腐肉が千切れ飛ぶ。
銃声が椿の爪を穿ち、椿の爪が、人の喉笛を抉り裂く。
白と黒と、灰色の世界にまき散らされた赤。
それは人間も【獣】も、そして椿自身からも、あたかも無尽蔵であるかのように溢れ出る。
「……っ!」
目下、椿の肩を銃弾が抉り取った。
先程彼女が教えてくれた、彼女の『急所』のごく近くだ。
思わず身を乗り出したが……彼女の悲鳴が、【獣】の泣き声に掻き消された。
とめどなく溢れる血を乱暴に手で押さえ込み、彼女は三日月状の爪を大きく、横薙ぎに振るった。
幾人もの人間の上半身が、乱雑に吹き飛ぶ。
残った肉体を、四つ足の腐肉が覆い尽くして、飲み込んだ。
「椿、さん……」
如何に【獣】の魔女と言えど……如何に『死に辛い存在』だとしても……それでも、負傷は増え続ける。
彼女の白いドレスはあっという間に、一面の赤に染め上げられた。
重たげに揺れる袖が引きずられ、白雪に赤い線を引く。
「……っ」
窓枠を握り締めて、シュウは唇を噛んだ。
――シュウ。此処でちゃんとみていて。私が悪い魔女だって、ちゃんと理解して。
彼女はそう言った。
――きみが救いを望む価値なんて微塵もないって、ちゃんと分かって……私を、否定して。
彼女は、確かにそう言った。
――――――――――私を、殺して。
そうするために自分は此処にやってきた。
そのために自分は此処で、生きている。
「俺は……」
だけど。
動けない。
彼女の死を望むのなら今こそが好機。
自分は今、彼女を殺すべく立ち上がるべきなのだ。
だけど足は全く、動かない。
「おれ、は……」
もう、彼女への殺意など、何処かに消えてしまった。
空白の胸の中にただ一つあった標……世界を救いたいという願いは、未だ健在だ。
だけどもう、沢山の感情の中に埋もれて、上手に見えなくなってしまった。
頭を抱え、壁に額を付ける。
目を閉じれば、彼女の声が聞こえる。
その悲鳴が、聞こえる。
痛々しく叫ぶ、血まみれの、声が。
「俺は……っ!」
*
右の腕が、重い振り袖ごと千切れ飛んだ。
「あっ……」
咄嗟に動かした爪が、真正面に迫っていた兵士の身体を真っ二つに断ち切る。
一瞬、耳で捕える周囲が静かになった――けど、それはすぐに私自身の悲鳴に掻き消される。
「づっ、あぐっ、ふ、ぐうぅ、う――――ッ!!」
久しぶりに味わった欠損の激痛に歯を食いしばり、意識を失わないように必死に目を見開く。
それでも膝が力を失い頽れ、ドクドクとあふれ出す血が雪を真っ赤に染め上げ、その熱で溶かしていく。
「あ、は……氷菓子、みたい……っ」
軽口を叩いて、無造作に爪を振り払う。
背後で数人の肉体が断ち切られる音がした。
涙と一緒に、笑いが零れた。
「あぁ……疲れた……」
高ぶり続けた感情が枯れ果て、産み落とされる【獣】たちの数が、減っていく。
まだまだ人間は大勢いて、私を殺そうと取り囲んでいる。
その上これを好機とみたか、【獣】を捨て置いて人間達が私の元へと、押し寄せてくる。
「……これは……ちょっとまずい……かな……」
酷い痛みに、目がかすむ。
膝が震えて上手く立てない。
でも、戦わないと、死んでしまう。
それは……それは……願っていることだけど……そうじゃない。違う。
「違う……私は、わたし、は…………お前達に……人間なんかに……ッ!!」
すり切れた心に火を付け、吠えながら、ふらつきながら、立ち上がり――不意にその身体を、誰かが抱き留めた。
「えっ」
そして眼の前で……透明な糸が、無数の人間の首を、絡め取った。
月光を受けて一瞬、とても美しく煌めいたそれは……次の瞬間、真っ赤な飛沫と共に、宙に解き放たれた。
ゴロゴロと音を立てて沢山の首が、転がり落ちる。
空中に散らばった糸が透明な粒子と共に解け……見覚えのある言語へと、束の間姿を変える。
だけどそれもまた、ほんの一瞬の事で……次にその〈式〉は、幾本もの透明な槍へと、姿を変えた。
私の顔の横から突き出た腕が……黒い外套を身に纏う、見慣れた腕が、静かに指を動かす。
空中に綺麗に並んだ剣は、音も無く振り下ろされ。
残る【獣】たちを全て、瞬きのうちに、葬り去った。
そして……静寂が、【魔女の庭】に戻る。
「……シュウ?」
と、呟いた声が、上手く声にならない。
彼は酷く、苦しそうな顔をして、前を見ていた。
削れそうな程に食いしばった歯。
震える唇。
本当は目を背けたい筈なのに、無理に見開いて震える目元。
だけど私の目線に気付いたのか、彼は此方に視線を向けると、笑った。
「……これで俺も、共犯者ですね」
とても痛そうに、笑った。
それが私の、暗む視界に映った、最後の光景だった。
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