第8話 世界は【魔女】を赦さない 〈1〉
果たして、どれくらいの月日が経っただろうか。
穏やかで、緩やかな時間が、閉鎖された世界を流れていった。
寒々しい雪景色は変化を知らない。
どれ程の時間を費やしても、白と黒と灰色の景色は時の流れそのものが凍り付いてしまったように、何も変わらなかった。
閉ざされた【魔女の庭】は毎日が穏やかで、幸福で。
世界が終わりつつあることなど、忘れさせるほどに。
世界が壊れている事など、微塵も感じさせないほどに。
*
「ローズマリーとペパーミント……これは……レモン……レモン……なんだっけ?」
眺めて、匂いを嗅いで、考えて、また眺めて。
結局名前が分からないまま、先程温室で摘んだばかりのハーブを水で丁寧に洗い、ティーポットの中へ放り込んだ。
陶器製の可愛らしい、椿の花が描かれたポットの中に、沸騰させたお湯を注いで蓋をする。
傍らの砂時計をひっくり返せば、準備は終了だ。
すっかり慣れた手つきで二人分のお茶の準備をすませてから、シュウは手に残ったハーブの香りを目を閉じて、嗅ぐ。
心が安らぐ草の香りの中に、スッと鼻が通るような刺激臭。ミントの香り。
それから柑橘系の果物の香り――これは椿からの情報だ。『柑橘』という言葉の意味は良く、分かっていない――がふわりと香る。
これまでに何度も味わった香りを堪能して、うん、と一つ頷き。
「良い匂いだからなんでも大丈夫かな。きっと美味しい、はず」
そんな事をやっていると、
「ふあ」
と、小さな欠伸が後ろから聞こえた。
振り返れば椿が眠たげに目を擦りながら、リビングに入ってきた所だった。
「椿さん、おはようございます」
「んー。おはよ。……今日は早いね、シュウ」
「椿さんが寝坊したんですよ」
「えぇ、そうなの?」
とは言っても、この場所には時計がないので、正確な時間は分からない。
ただ、自分より彼女が遅く起きることなんて滅多にないので、彼女が寝坊したのだろうとシュウは踏んだのだ。
むむ、と椿は腕を組んで唸り。
「でも……そうかも。昨日は夜更かししたから……」
「夜更かし、ですか?」
「ん。ちょっと用事があったの」
「用事……ですか……」
代わり映えのない日々を慎ましく繰り返すだけのこの場所で、一体どんな用事があるのか。
時折椿はそう言った『用事』のために姿をくらますことがあった。
その度にシュウはこうして疑問に思うが、直接尋ねる気にはならなかった。
何となく、聞いてもはぐらかされてしまいそうな気がしたのだ。
……と。
見計らったように、砂時計の砂が全て、零れ落ちた。
「今日は何のお茶にしたの?」
倚子に腰掛け、頬杖をつく椿。
シュウはティーカップの中のお湯を捨てながら、答える。
「ローズマリーとペパーミントと……なんでしたっけ、レモンなんとかです」
「レモンバームかな。グラスかな。あ、葉っぱは丸かった?」
「丸かった……ですね」
「じゃあ、レモンバームだ。細い方がレモングラスだよ」
「うーん、まだまだですねぇ」
「そうかな。充分覚えるの早いと思うけど……」
「まぁ、もう少ししたら全部覚えられるかもですが」
他愛のない会話に二人で笑い合い、シュウはポットの蓋を押さえて茶を注ぐ。
湯気と共に良い香りが部屋に立ちこめ、椿は深い息を吐いて、笑った。
「うん。今日も良い香り……」
――そうしてまたその日も、何も変化のない日常が、始まり、終わる。
椿と言葉を交し、彼女と共に温室を手入れし、彼女と共に小さな家を掃除して、同じ時間に眠りにつく。
時に、雪が墓標を埋めないように雪を払い。
時に、【獣】と戦いを繰り広げ。
……ただそれだけの日常だ。
その次の日も、またその次の日も。
シュウの胸の中から、世界を救いたいという感情は、消えていない。
だがその一方で彼はこう、思うのだ。
雪なんて降り続ければ良い。
ただ、ずっとそんな日が続けば良い。
ずっとこのまま。
ずっと、ここで。
……そんな願いをいつしか、シュウは抱くようになっていた。
*
そうした、ある日。
珍しくその日は、雲の向こう側に薄く、月が見えた。
床に腰を下ろし、自室の窓からそれを眺めていると……部屋のドアが控えめにノックされる。
「シュウ……まだ起きてる?」
「起きてますよ、椿さん」
返事をすれば、いつもの装いのまま、椿が部屋に入ってくる。
盆にコップを二つ、そして小さい木製の小箱を一つ、のせて。
「今日は珍しく、月が見えますね」
「そうだね。シュウは何回目のお月様?」
「……多分、二回……ですかね?」
「ふふ、また疑問形だ」
「あんまり空を見上げることなんて、無かったですから」
「そっか」
小さく笑い、椿は盆の上のコップをシュウに差し出してから、盆をすぐ傍の、小さな机の上に置いた。
その机は、シュウがこの部屋を訪れた時には無かった物だ。
木を加工して、組み合わせただけの簡単なテーブル。
シュウが持つ『機能』のリハビリも兼ねて、二人で頭を悩ませて作った一つの家具だった。
シュウの〈式〉は本来色々な物を作る事が出来るのだろう――と、椿は彼の〈式〉を読み取り、推察していた。
そしてその推察はどうやら当たっているらしく、釘やのこぎり、ネジ……そういった、構造の単純な物に限るが、自らの〈式〉からそれらを生み出せるように、徐々になりつつあった。
傍ら――かつての、椿の言葉を思い出す。
――これはね。此処にやってくる迷子がアレコレと作ってくれた物なの。
――お陰で少しずつ、少しずつ……私の生活が豊かになっていったんだ……。
(あれは、こういうことだったんだろうなぁ)
今までにこの場所を訪れた『迷子』達に、思いを馳せる。
(俺じゃあ、あんな温室だとかそういうのは作れそうにないなぁ)
物を作るためには知識が必要だ。
自分の頭の中にある知識ではどうにも、ああいった複雑な構造を作る事は難しそうだった。
そう思いながら目線を下げれば、白い大地に突き立てられた黒い墓標がずらりと、地平線まで続いている。
果てしない時間の痕跡が、そこにはあった。
今、あそこで眠る者達は、どんな人だったのだろうか。
(いずれ……俺も、あそこに入るのかな……)
今なら、分かる。
彼らはきっと、椿の……【魔女】の手にかかって死んだのでは無いのだろう、と。
どうしようもない事情で彼らはこの地で死んだのだろう、と。
墓標に一つ一つ、几帳面に下げられた輪が、目に入る。
それはヒイラギの葉で作られた、冠だった。
彼女が一番好きだという木で作られたそれは、真摯な手向けの感情が読み取れた。
(仮に……俺が向こうの世界で死んだって、誰も弔ってはくれないけれど。……きっと此処でなら、椿さんは弔ってくれるんだろうな)
胸の中で呟き、少し笑う。
(いや、俺が死ぬって相当難しいとは思うけどさ……)
そんなとりとめも無いことを考えていると――耳に、綺麗な音色が届く。
振り返れば椿は寝台の上に腰掛けていた。
手つかずのお茶は机の上に置き去りに。
代わりに彼女は、小さな木製の小箱を両の手に乗せていた。
透き通った、金属的で硬質な音色はその小箱から奏でられているようだ。
椿は目を閉じたまま、その音に耳を傾けていた。
シュウもそれに倣い、目を閉じて音色に耳を澄ませる。
聞いたことのない、美しくも慎ましやかな旋律は、暫く二人の沈黙の間を揺蕩う。
そうして、やがてその調子を遅めて行くと、旋律の半ばで眠るように、緩やかに途絶えた。
椿はふっと目を開き、小箱の蓋を閉じて、それを大事そうに胸に抱えた。
シュウはすっかり飲み干したコップを机の上に、何となく噤んでいた口を開く。
「それ、何ですか?」
「これはね、オルゴールって言うの。ネジを巻くとね、中の機構が音を鳴らす……らしいんだけど、私も良くは知らないの……」
「それも迷子からの贈り物ですか?」
「うん。特別、お気に入りの物なんだ……」
愛おしげに小箱を撫でて、椿はそれを寝台にそっと、置く。
それから彼女は、シュウの隣に立って月を見上げた。
「シュウ、変わったよね」
「え?」
横顔を伺えば彼女は空に鎮座する月の朧気な光を、見つめていた。
「そうですか? いや……まぁ、そうです、ね……」
何だか無性に気恥ずかしくなって、頬を掻いた。
どうしても笑みが唇に浮かんでしまって、それが上手に隠せない。
結局、唇からは素直に笑い声が零れた。
「貴女とずっと此処にいるのも悪くないなって、そう思うようになっただけです」
「……うん」
「貴女がそれで、幸せそうなら、それが一番かなって……こんなこと言うと、気持ち悪いかも知れませんが」
「……ありがと」
椿は目を閉じて静かに、言葉を聞き入れてくれる。
その横顔から、視線を外して、彼女と同じ場所を見る。
薄い雲の向こう側で輝く、まあるい月。
手が届きそうな程に大きなそれを目映げに見つめながら。
「でも俺は、世界なんて本当はどうでも良くて……貴女に出会いたくて……貴女を笑顔にしたくて、ずっと、旅をしていたのかも知れませんね」
「……そっか」
椿は、微笑んだ。
それから、シュウと同じように、床に腰を下ろす。
「シュウ」
極近いところで彼女は名を呼んだ。
「あのね、シュウ」
そうして、床に下ろしていたシュウの手を、取る。
そうして彼女はその手を、襟の下に……自らの胸元に這わせるように、潜らせた。
熱い温度と柔らかな感触を掌に感じて、シュウの身体が大きく跳ねる。
「えっ、あ、あの……」
「聞いて欲しいの」
困惑するシュウを、彼女は真っ直ぐに見上げる。
そして、悲しげに眉を下げて、言うのだ。
「私達は此処にある〈式〉を壊されたら、死ぬの」
「え……」
思いもよらない言葉だった。
困惑と混乱に硬直したシュウとは対照的に、椿は柔らかく、微笑む。
「人の心臓よりも、少しだけ上の場所。鎖骨の下。……此処をナイフで深く深く、刺されたら、死ぬの」
「ちょ、ちょっと椿さん……どうして」
「いいこにしてたら教えてあげるって言ったでしょ?」
「だって、俺は……っ」
「みんな、ね……」
ギュッと、シュウの手を握る椿の指に、力が入る。
「みんな、私を殺しにここに来るの。悪い【魔女】を殺して、世界を救うために。……でも。でもね。どの子も皆、途中でやめてしまうんだ……今のシュウみたいに」
椿は声を震わせながら、それでも笑っていた。
とても悲しそうに、笑っていた。
「どれだけ私が酷く振る舞っても無理だって、もう知ってる。そもそも私には、そう振る舞い続ける強さがない。……だからもう、諦めてた。今回は最初から……ごめんね……」
手を胸元から外して、彼女はシュウの掌に頬を寄せる。
目を閉じて、彼女は暫くそうして。
「それでも、私は言うよ。これが、最後の抵抗……シュウは、勘違いしてるから」
「勘、違い……」
……シュウは不意に、気がついた。
何処からか、地鳴りがする。
何処からか……遠くから、この地に響く音がある。
規則的で……それでいて荒々しい、足音。
【魔女】と、その人質と、そして【獣】しかいないこの場所に……誰かが、やってくる。
大勢の、人間が。
手から、椿の頬が離れる。温もりの残滓だけを、残して。
そして彼女は一つ、問う。
「シュウ。私は、誰だっけ?」
「え……」
「此処にいるのは、だぁれ?」
「椿、さんは……」
椿は伏せられた目を、細く開く。
何度も見てきた、美しい色合いの瞳。
だけどそれは今は、苛烈なまでに冷ややかな輝きに満ちていた。
唇を歪めて彼女は笑う。
「まさか、忘れちゃったの?」
それは、椿が今までに見せなかった、嘲りの笑み。
胸の内に抱える残酷さを覗かせた、何処か獰猛ですらある微笑。
シュウは今一度、思い出す。
彼女が一体、何者であったか。
「私は【魔女】。悪名高き【魔女】……世界を壊す力を持つもの」
彼女が何を成した者だったか。
「世界を壊し、この地に幽閉された……赦されざる咎人」
故に――世界は……人々は、【魔女】を赦さない。
故に、彼女は目を細めて笑い、立ち上がる。
「だから――だから、私を本当に殺しに来た人を、私はちゃんと殺し返すの」
ユラリと彼女の身体が、黒い影をまとう。
彼女の武力たる〈式〉――『爪』の気配が、彼女の肉体より、滲み出る。
どす黒いそれは、この地に存在するどんな黒よりも禍々しい。
「シュウ。此処でちゃんとみていて。私が悪い【魔女】だって、ちゃんと理解して」
影を纏いながら部屋を出ていく、その最後の瞬間まで。
彼女はきっと、笑っていた。
「きみが救いを望む価値なんて微塵もないって、ちゃんと分かって。そして私を、否定して」
「――――――――――私を、殺して」
「覚えてないだろうけど……きみには本来、そうする権利があるんだよ、シュウ」
そう。
最後まで彼女は、確かに、笑っていた。
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