第2話 終の雪 〈2〉
「……!」
息を呑み、少年は振り返る。
背後には、何も無い筈だった。
雪原と墓標が延々と続くだけの筈で――
だが今は、その光景に、空間を割り裂く黒いひびが生じていた。
そしてそれは瞬きごとに深く、大きくなっていく。
パキン、パキン――と何処か涼やかな、ガラスが砕けるのに似た音と共に、ひび割れた空間から。
やがて「どろり」と、血のような黒色が、漏れた。
血はやがて身を寄せ合い形作り、肉となり、爪となり、牙となる。
大きく砕かれ、裂け目となった虚空から這いだしてくるものは、怪物――と称する以外に他ない、四足獣の体を辛うじて成した、異形だった。
腐り溶けた肉を繋ぎ止める、白骨の格子。
四肢を、身体を戒める鉄杭と、鎖。
縫い合わせられた目蓋から絶え間なく流れ出るのは、黒い涙。
半ば蕩けた顎をぐぽりと開いて、それは、泣いた。
『あ゙、ァ――――――アァア、あ――アァ――……』
ビリビリと大気を震わせて、それは泣く。泣き叫ぶ。
高く、低く、歪に、無数の声を重ね合わせ――しかしたった一人で泣き喚く。
それが頭を振る度に、溶け落ちた腐肉が白い雪にまき散らされた。
これは――――世界の脅威。人類の敵。
命を、文明を、世界を喰い滅ぼし、殺し、無に帰す暴虐の災害。
『死』という概念その物にして、世界の終焉が形成したもの。
数多の意味合いを孕み襲い来る脅威。
それを人は、端的な一句で称する。
「――――――【獣】……!」
少年は咄嗟に身構え、両手をたたき合わせた。
瞬間、彼の身体より「するり」と生じる物があった。
空気に溶け消え、視認することそのものが難しいそれはか細い、「無色透明の糸」だった。
糸はキラキラと微かに輝きながら滑らかに、自律的に動き、重なり、結い、一つの形を紡ぎ織り――やがて少年の手に一振りの、色のない剣を握らせた。
ガラスで象ったかのように透き通ったそれを、少年は両の手で強く、握り締める。
「……」
喉が、胸が、痛む程に冷たい息を深く吸い――思う。
この地の何処かにいるとされる、超常の力を持つ女。
それを【魔女】と呼ぶのならば。
(俺が持つこの力は、何だろう――俺は一体、何だろうな……)
痛みを伴う思考を、振り払う。
記憶の無い自分には分かりようのないことだと、諦めを言い聞かせる。
深く、白い息を吐き、腰を緩く落とし。右頬に、立てた刃の腹を添えるようにして、構える。
対峙する異形は、呻くような声を、漏らした。
『あァ――……』
そうして、身を低く屈め――跳ぶ。
「!」
見た目にそぐわぬ俊敏な動き。
少年は僅かに遅れてその姿を眼で追う。
灰色の空に影刺すように黒い肢体が躍り――落ちてくる。
鋭い爪に体重を乗せた一閃。
それを少年は下段から剣を振り上げ、裁く。
キィンッと鋭く澄み切った音色と共に掬い上げられた雪が、火花が、パッと宙に躍った。
【獣】は身を空中で捩ると着地、間髪入れず深く身を縮めると轟音と共に雪を抉り、一直線に突進してくる。
それを少年は軽い横飛びで回避すると剣を中段の構えに切り替え、すれ違い様に異形の身体を抉るように切り払った。
『――――!』
咆哮。
どぱ、と黒い血が溢れ、雪と少年の身体を汚す。
少年が振り返ると同時、黒い影が視界の端に過った。
「!」
即座、剣で自分の胴を庇った――直後、真横からの衝撃が身体を空中に跳ね飛ばした。
「っ、……!」
指先から脳の随まで揺らす、激突音。
次の瞬間には柔らかい雪の上に少年の身体はあった。
「う、ぐぅ……」
痺れ、動かない身体を無理に従えて、上半身を起こす。
【獣】はうめき声を上げながらも此方へと近づいてくる。
「……」
だが少年は至って冷静に、その様を見上げた。
そしておもむろに、持ち上げた剣を己の首に添え……呼吸を薄く、吐く。
――――少年には、記憶が無い。
自分が何者なのかも、分からない。
ただ一つ、自分の身体について知っている事がある。
この身体を流れる血は、【獣】にとっての「毒」になる。
そしてこの身体は、どうにも死なないように出来ている。
手を、足を、腹を食いちぎられても、自分は死なない。
死ねないのだ。
涙流す腐肉の異形を見上げ、笑う。
「死なない分、俺の方が怪物かもなぁ……」
脳裏にはつい先程――なのかはもう、曖昧だが――別れた男の恐怖に歪んだ顔が、思い出された。
あの腕に抱えた小瓶は、彼らの旅路を護る役目を果たせただろうか。
「今は誰も見ていないし……気楽なもんか――」
呟き、ぐっと力を手に込めた、瞬間。
「ねえ」
鈴の音のように澄んだ声が、した。
蕩けるような甘い声にぞくっと背筋が粟立ち、薄皮を斬り裂いた剣が思わず、首から離れる。
「私の庭を荒らした悪い子は――あなた?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
気がつけば、眼の前で【獣】の身体がつり上げられていたのだ。
「……!」
黒々とした影のような、巨大な爪が、地面から生え出ている。
それが【獣】の身体を貫き、高く、宙に掲げていた。
ボトボトと滴り落ちる血と腐肉、そして黒い涙。
【獣】は言葉なく泣き叫び、弱々しく身体を藻掻き、拘束から逃れようとする。
――だが返される答えは、無慈悲だ。
「ばいばい」
呼応して爪は左右バラバラに動き、引き裂かれた【獣】の身体は幾つもの肉の塊となって地面に落ちた。
宙より降り注ぐ黒い雨が束の間、雪を真っ黒に染め上げる。
だが腐肉は直ぐさま白い灰へ変質し、やがて雪と同じように風に流され、消えていった。
地面に腰を下ろしたままの少年はやがて、気がつく。
いつの間にか眼の前には、鮮やかな色彩をまとう少女が、立っていた。
空に踊る、二つに結わえた藤色の髪。
椿の髪飾り。
身に纏うは白と紅色の、美しい衣装――それは、華やかに裾を広げたドレスのようでいて、今は無き和国の衣装にも、よく似ていた。
滑らかな白磁の肌と、長い睫毛に縁取られた、大きな目。
彼女はそれを細めて、笑った。
「あは。久しぶり、お客さんなんて……」
甘い、甘い声がクスクスと笑む。
此方を見下ろす目の色は、美しい色をしていた。
それは、もう絵や写真でしか見ることの叶わない、朝焼けの空の色。
見た目は自分よりもずっと幼い、少女だった。齢十を幾ばくか超えた程度の。
だが少年はハッキリと、自身の身を貫く「危機感」を知覚していた。
……例えば。
例えば世界に語られる物語が、噂話が、真実を語っていたのなら。
『境』を超えたこの地に住まうものがいるとすれば。
それはきっと。
(【魔女】だ)
仮にそうで無かったとしても……先程【獣】を葬り去った超常の力は、警戒するに値する、驚異的な「暴力」だ。
……選択肢を誤れば、待つのは死だろう。
「………………っ」
呼吸を何度繰り返しても、胸の苦しさが取れない。
力を込めようとしても手足は全くそれらを受け付けてくれない。
そうやって地面に身体を縫い付けたまま、少年は此方へと歩み寄る少女――【魔女】の姿を、見上げるしかなかった。
彼女は、少年に極近い場所で、歩みを止めた。
それこそ……どう足掻いても彼女から逃れる事など叶わないような至近距離で。
「ねぇ、きみ」
と、彼女は言葉を投げかける。
「ここに来たなら、もう出ることなんて叶わないって――分かってて来たみたいだね?」
「……。如何して、分かるんですか?」
「そう言う顔、してるから。覚悟を決めた人の顔。帰る場所のない、迷子の顔」
「……」
返す言葉は無かった。
少し目線を下げて黙り込んだ少年を追いかけるように、魔女は雪に膝をついて、手を伸ばし両の頬に触れ。
此方の顔を覗き込んでくる。
艶めく薄桃の唇の両端は、つり上がっていた。
「ねえ」
「――私を殺しに来たの?」
その言葉に、心臓を刺されたのかと錯覚した。
あまりにも軽い調子で投げかけられた問いに、此方の喉が震えた。
地面に投げ出したままの剣を、ぐっと握り締め。
覗き込んでくる丸い目を強く、見返し。
「はい……」
震える喉から絞り出すように、答えた。
この返答で殺されてもおかしくはない。そう覚悟しての言葉だ。
だがあろうことか【魔女】はそれを聞いて、ニッコリと微笑んだ。
「ふふ、そうなんだぁ」
錯覚で無ければ――頬を薄く染める感情は、歓喜の色に見えた。
殺意と敵意を肯定した少年に、【魔女】は重ねて可笑しな事に、小さな手を差し出してくる。
そして、
「私はツバキ。古い言葉では、春の木と書いて、椿と読むの……」
そう、名乗ったのだ。
「……」
か弱い少女の手の形をしたそれを、少年は困惑の目で、見つめる。
そうして無言を保っていると【魔女】は――椿は問いをもう一つ、寄越してきた。
「ねぇ。きみの名前は?」
なぜ、そんな事を聞いてくるのだろうか。
これから自分を殺すと言う相手に。これから殺すべき相手に。
奇妙に思ったが同時に、無言を返し、彼女の機嫌を損ねるのは悪手ではないのかとも思った。
結果、
「シュウ……だったと思い、ます……」
渋々、答えを返す。
それを聞いてまたクスクスと笑う椿。
「変なの。どうして曖昧なの?」
「人に呼ばれたことが、ないので……」
「そう。そうなんだ……」
そうして彼女は立ち上がり、スカートの裾を払った。
それから、此方をじっと見下ろす。
美しい色彩を宿す瞳の中、感情は読み取れない。
それをシュウは指の先まで緊張に縛り付けられながら、見上げた。
彼女が指の先を少し動かすだけで、シュウの肉体は先程の【獣】と同じ結末を辿るのだろう。
その前に、動くべきか――殺すべきか。
剣を握り締める指から、不要な力を抜く。
いつでも戦えるように静かに、吐息を吐き出し。
「ねえ」
椿が甘い声を投げかけてくる。
彼女はニッとつり上げた唇を、細い指でそっとなぞり、首を軽く傾げ。
「きみ、私の家にくる?」
「え?」
その言葉を、その意味を、理解出来なかった。
「いえ……家?」
「うん、家。だって寒いでしょ。だからお茶くらい一緒に飲もうかなって。ね。うん、決まり。そうしよ?」
「……いや、……え?」
此方の困惑など素知らぬ風。
勝手に歩きだして、それから此方を振り返る椿。
「私、毒なんて入れないよ?」
「いや、そうじゃなくて」
「それにきみ、毒が入ってたとしても効かないでしょ」
「……っ」
言葉に詰まる。
見つめてくる彼女の目が、此方の動揺を察知して、細められた。
「どうして……?」
思わず、零れた言葉は、震えていた。
そうすると魔女は人差し指で此方の手元を指し示す。
「あのね。普通の人間は何もないところから武器を取り出せないの」
握ったままの剣を見る。
ため息を吐く少年。
「……。恐らく、そうなんでしょうね」
「ふふ、それも曖昧なんだ」
「分かりません。俺には記憶がありませんので」
「なら、私の家においでよ」
「一切話が繋がってないです」
「そうかな?」
「それに、俺に毒が効くかどうかはまだ分からないでしょう」
「さっき「どうして?」って自分で言ったのに?」
「それは……っ」
何を言っても、彼女は動じない。
どうしてか上機嫌に声を揺らし、クスクスと笑うだけだ。
(今すぐ殺される……訳じゃなさそうだ、けど……)
その顔を、伺う。
眼が合えば彼女は不思議そうな顔をするだけだった。
(かといって、俺が何を言っても多分、主張は通らない……それに、)
(世界を救いたいのなら……今、成すべき事は……)
決心が付く。
少年はわざともう一度ため息を吐き、渋々、と言った様子で立ち上がった。
「うん。決まりね。私、素直な子は好きだよ」
「俺は殺されたくないだけです」
「正直な子はもっと好き」
「そうですか」
言い終わると同時、地を蹴り、予備動作なく無造作に剣を椿の首へ突き出す。
突然の攻撃。にも関わらず、彼女の「爪」はそれをいとも容易く防いでしまう。
刃を防いだ「爪」の向こう側、彼女はクスクスと笑うだけだった。
「残念だったね。後少しだけ」
「嘘吐きですね、貴女」
何があと少しか。
吐き捨てても彼女は依然として笑顔を浮かべたままだ。
「だって【魔女】だもの」
眼の前で殺意を剥き出しに刃を向ける少年に――シュウに、椿は微笑みかける。
細く、白い指が剣身を撫でるように這う。
「私は歓迎するよ、シュウ――」
花咲くような笑み。
――もう、花など世界の何処を探しても見つからないのだけれど。
それでも、その言葉が似合う笑顔は、眼の前の魔女の顔なのだろうと、シュウは思った。
暖かく、色鮮やかで、可憐な笑顔――そして彼女は、こうも続ける。
「ようこそ、私の庭へ。私の、牢獄へ」
「君は――私を殺しに来た、六万八千七百五十一人目の人」
「君は、私を殺せると良いね?」
――斯くして、少年と少女は出会った。
白と黒と、灰色の世界で。
世界の救いを望む少年と。
世界を壊した【魔女】は、出会ったのだ。
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