死に往く冬と芽吹く春、終わる世界に恋文を。

灰羽アクト

第1話 終の雪 〈1〉


 絶えることなく降り積もる雪は、この世界を埋葬する揺り籠だ。

 さく、と今刻んだ足跡でさえも、雪はあっという間に飲み込んで、痕跡を世界から消し去ってしまうのだろう。


 一人の少年が【禁域】と呼ばれる森の中に姿を消したという事実さえも、きっと。


「ほ、本当に此処で良いのか、兄ちゃん……」


 燈籠が心許なく思える、深い闇夜。

 白い雪に飲み込まれた森へと至る小道、その分かれ目。

 止めた馬車の傍ら、痩身の男はそう、眼の前の少年へ白い息と共に問いかけた。

 向き合う少年は「はい」と穏やかに微笑み、軽く礼をする。


「こんな所まで送っていただいて……ありがとうございました」

「あ……いや……道中助けられたのはこっちだし、なぁ」


 青白い顔を更に白くさせて、男は歯切れの悪い調子で言った。

 視線を定められず、左右へと落ち着き無く彷徨わせる男。

 その両手は忙しなく指を組み替え、擦り合わせ、握り締められる。

 指先まで侵蝕する震えを誤魔化すように。


 カチカチと、震える歯が擦れ合う音は先程から絶えることがない。

 その所作に、顔に、紛れもなく刻まれた感情は恐怖だ。

 その様を少年はあくまで穏やかな笑顔のまま、見つめた。


 少年の装いは何処かの国の軍人か……そう言った物を彷彿とさせる、将校服にも似た装いだ。

 金色の刺繍が施された詰め襟と、防寒用の丈の長いマント。

 頑丈そうなブーツ、黒い手袋。


 全身の、黒。

 雪を被っていなければ暗闇の中に溶けてしまいそうな少年だった。

 唯一鮮やかなのは、首元に巻いた赤いマフラー。

 そして黒い前髪の下から覗く、夕焼け空の色をした瞳だけ。

 ――とは言っても、そんな鮮やかな空が灰色の雲の向こうに姿を消してから、もう何百年も経っているが。


 だがそれも少しばかり目を惹くだけの話で、特におかしな所は見当たらない。

 ごくごく平凡な見た目の少年である。

 旅人にしては心許ない軽装が、少々おかしな程度の。


 だが男の、痩せて落ちくぼんだ暗い目は地面に向けて伏せられたまま。真正面に立つ少年を視界に入れようともしない。



 男は少年の事を酷く、恐れていた。



(最初はこうじゃなかったんだけどな)


 笑顔の裏で、少年は思う。


(でも、仕方ない)

 いつも、旅路の途中の出会いは、こういう形での別れになってしまう。

 だがそれを悲しく思う心は、すでに薄れていた。少年は小さく息を吐き、極めて慎重にゆっくりと、一歩を踏み出した。


「あの、……これを」


 懐から取り出した瓶を、差し出す。その手に男がやや遅れて、気付いた。

 赤黒い液体が満ちた瓶が、数個。


「これ、は」

「受けとってください。残りの道の助けになるでしょうから」


 恐る恐る手を差し出して受けとる男。チラリと、帽子の下から目が此方を伺った。


「……な、中身は何なんだ?」

 その目はやはり、強い怯えに染まり、震えている。

「……ええと」


 そんな調子で怯える男に、果たして言うべきか、口を噤むべきか。

 少年は少しだけ悩んだ。


 悩んだが結局、言うことにした。

 極力恐れさせないよう、笑顔で。穏やかな声を、作って。



「俺の血です」



 ヒッと短い悲鳴。危うく瓶を取り落としかける男。


「俺の血は、【獣】を殺す毒になるので……って、説明しなくても見ていましたよね? こう、何度も手足吹っ飛ばしちゃいましたしね、俺……」

「……」


 腕を大仰に振りながら冗談めかして言ってみたが残念ながら、彼の抱く恐怖に対しての緩和剤にはならなかったようだ。

 分かり安く顔を歪めた男の顔に、少年は少しだけ眉を下げた。


 だが、それも僅かな時間のことだ。

 人の助けになれるのなら、それが一番良い。

 そう思い、少年は再び笑顔を作り直した。


「じゃあ、そろそろ俺は行きますので。おじさんも道中、気を付けて」


 馬車の窓から、隠れるようにして此方を見ていた子供に気がついた。

 眼が合ったので「ばいばい」と手を振った。


 だが子供は即座に顔を引っ込めてしまう。

 無邪気にじゃれついてきた最初の頃が少しばかり、懐かしい。

 そう思いはしたがやはりすぐに、深い諦めが勝った。


 ――仕方ない。


 そう思い直し、少年は軽く一礼をしてから、白く薄暗い闇を抱える森へ向かい、歩き出す。


 そうして数歩、歩いた所で。


「ま、まってくれ」

 と、後ろから掠れた声がした。


 振り返る。抱えた瓶をカタカタと震わせながら、男は彼に問いかける。


「に、兄ちゃん……あんた一体何者なんだ……なんで、死ななかったんだ……?」

「……。分かりません」


 そう、首を振った。

 今までに何度か聞いた、問いかけ。

 だが少年には、こう答えることしか出来ない。



「俺も、俺の事は分からないんです、何も――」





 そうして彼は、一人になる。

 少年は後方に果てなく広がる森を振り返り、深い呼吸を一つ。

 静かな、だが意を決したような面持ちになると、小道を辿り、深い深い森へと足を踏み入れた。


 森は、酷く荒れていた。


 倒れた木々や落石は行く手を容赦なく阻み。

 何か、強い力で抉られた地面はあちらこちらに、この場に蔓延る脅威の存在を誇示する。


 そして、それらを飲み込んだ深い、深い雪の白。

 

 それらを目に留めながらも、少年は歩みを止めない。

 黙々と、進み続ける。


 やがて様々な看板が、目につくようになった。


「【獣】の大量発生区域につき……」

「厳重警戒」

「XX村はあちら……」

「立ち入り禁止」


 どれもこれもが物騒で、そして真摯な警告だ。

 それを無視して少年は黙々と先に進む。

 繰り返されるのは足音と、白い吐息の音だけ。


 木々の間を行き交う風の音でさえ、まるで口笛のようにハッキリと耳に届いた。


「静かだなぁ」


 途中、誰にも聞こえないと分かっていながら一度だけ、呟いてみた。

 ひゅう、と冷ややかな虚しさだけが胸を満たすだけだった。

 それきり少年は口を閉ざす。


 口を噤んでしまえば、世界はあっさりと無音に満たされる。

 そうすると賑やかなのは、看板だけになった。



「【獣】による被害多発……」

「今月の被害件数は……」

「【魔女】は人を食い」

「世界を殺す」

「足を踏み入れるな」

「災厄の女」

「【獣の魔女】」

「【獣】の支配者」

「引き返せ」






 脅迫めいて立ち並ぶ無数の警告文の果て、恐らく「最終警告」となるだろう看板がポツンと一つ、少年を出迎えた。


「此処より先は【魔女の庭】。立ち入った者はもう二度と、出られないと知れ」


 看板の奥には、恐ろしいまでに背の高い杭と、過剰なまでの有刺鉄線が張り巡らされていた。


 まるでお伽噺の、荊に覆われたお城のように。

 雪に埋もれていないそれらは、恐らく定期的な増築が成されているのだろう。

 そうまでして保たれるべき場所なのだ、此処は。


「魔女、か……」


 立ち止まり、腕を組んだ少年は、その文章をジッと見つめる。


 少年には、目的があった。

 そのために遠路はるばる、この【禁域】に向けて、長い旅を続けてきた。

 そしてこの先が、その最終地点――――決戦の場、となるはずだ。


 曰く、伝聞によれば。


――北の大陸、ヴェアノルドの果て。

 【禁域】インシュカ森の最奥には、【魔女の庭】に繋がる『あわい』がある。


――【魔女】とは、【獣】の主である。

 【魔女】はその身より【獣】を産み出し、世界に解き放ち、人々を喰らい、世界を壊していく存在。

 忌むべき超常の力を持ち、この世界を滅ぼす災厄の女。


 ……と。


「【魔女】、かぁ」


 もう一度、少年は繰り返す。

 正気であれば、俄に信じがたい噂話だろう。


 だが、実際乱雑に打ち込まれた杭と、有刺鉄線による隔離は何よりも雄弁に、この地の危険性を語る。

 荒々しい字での警告をジッと見つめ、少年は。


「本当に逢えるのなら……望むところだ」


 やはり迷うこと無く、足を踏み出した。

 そうして――有刺鉄線を超えた先には。



 唐突に、「壁」が聳え立っていた。



 半透明の黒色をしたそれは、明らかに超常の力を持って生み出された物だと分かる。

 恐る恐る表面に触れてみたが、何も起こらない。

 だが、手に力を入れて押し込めば、「とぷん」とした感覚と共に手が、向こう側へと抜けた。


「……これが、『あわい』……」

 思わず零した声は、掠れていた。


 この世界と、【魔女の庭】を隔てる、壁。

 伝承に語られるそれは、確かに、ここに、存在したのだ。


「…………」


 身体に震えが走る。

 それまで漠然と抱いていた【魔女】という存在への意識が、今この瞬間、現実味を一気に増した。


「此処より先は【魔女の庭】……立ち入った者はもう二度と、出られないと知れ……か……」


 看板の警告を思い返し、口に出す。

 真っ直ぐに前を向いたまま、少年は力強く、呟く。



 恐れはすれど、迷いはない。

 このために自分は長く、旅をしてきた。



 なぜならば。



「【魔女】を殺せば……世界は救われる――」



 故に少年は、呪われた領域を探し求め、こうして足を踏み入れたのだ。



 彼が此処に足を踏み入れた痕跡は、雪が全て飲み込んで行く。

 そうしてやがて、彼の存在はこの世界から忘れ去られるのだろう。

 少年は、それでも構わないと思っている。



「世界を救えるのなら…………それでいい」




 彼の心の中にあるのは、ただそれだけだった。





 この世界に生まれたとき――と言って良いのかは分からない。


 「自分」という自覚が生まれた時をそう言い表して良いのならば、少年にとって「生まれた時」は三年ほど前、と言う事になる。


 記憶も、両親も、親しい友もない。

 ただ一人、たった一人、彼はこの世界に、「気がついたら存在した」。

 そしてその時より彼は、胸の中に一つの使命めいた物だけを胸に抱き、生きていた。



 即ち世界の救済――人を救いたいという、願いだ。



 故に、この世界を終わりへと導くとされる【魔女】の話を聞いた時、彼の中で決意がすぐに固まったのだ。



 この手で【魔女】を殺し、世界を救う――と。



 恐れはない。

 迷いもない。

 ただ、彼の胸の中には、その願いを成し遂げたいという渇望だけが、あった。


 それが「普通」ではないという自覚は、ある。

 だがどうしようもない事だ。

 記憶も、親しい者も無い自分には、それ以外に頼れる物など、何もなかったのだ。



(けど……それも今日、ここまでだ)



 そう思い、足を踏み入れた『境』の向こう――最終決戦の地。

 果たして少年を出迎えたのは。




 ――――――――――無数の墓標だった。




「……う」

 趣味の悪さに思わず、顔を歪めてしまう。

 果てしなく続く真白い大地と、鈍色の空。

 作り主の几帳面さを表すように等間隔に並べられた黒い十字……あまりにもそれは陰気で、不気味で。

 寒々しい世界をより冷ややかな物に仕立てあげていた。


 振り返る。

 そこにはもう、何も無かった。


 正面側の光景と変化のない、無数の墓標がずらりと立ち並ぶのみ。

 元の世界への出口は、本当に存在しないらしい。


「……」


 僅かに胸に過った「寒さ」は、寂寥感と呼ぶべき物なのだろうか。

 少年にはその正しい形と言葉が分からなかった。

 だが取り戻せやしない物に縛られる訳にも行かない。

 もう一度正面を向き、呟きを一つ。


「もう進むしか……ない……」


 さく、さく、とまだ柔い雪を踏みしめ、墓標が延々と立ち並ぶ道を、往く。



 静かな世界だった。

 人の気配は愚か、自然の営みも見つけられない白い平原はただただ無機質的で……先程まで目にしていた死に絶えた森の方がまだ賑やかだった、と思える程の。


 ……正直な話。


 【魔女の庭】と呼ばれるくらいなのだから、普通の世界とは打って変わって鮮やかな景色でもあるのではないか。と、少年は僅かに期待していた。


 だがその予想は見事に外れた。

 むしろより一層冷えきって凍えきった「死地」の退廃だけが、ここにはあった。


 延々と続くだいち

 延々と続くぼひょう

 延々と続くそら


 そして延々と降り注ぐ、雪。


 その静寂は、死を想起させる程に冷たかった。


(本当に、【魔女】が此処にいるんだろうか……?)


 人の気配など微塵も感じられない雪原を見回しながら、思う。

 しかし、墓標を打ち立てた主がいるのだとすれば、それは此処に住まう【魔女】なのだろう。


(……そもそも、【魔女】って……何だろうか)


 超常の力を以て世界を滅ぼす悪女。

 今の世界を作り上げた、罪深き女。

 世界を喰らう【獣】の支配者。

 庭に迷い込んだ人間を喰らう女。


 等と、そんな噂話……或いは「物語」は聞いている。

 そしてそれは、この世界の誰もが知っている、教訓めいたお伽噺らしい。


 言う事を聞かない悪い子は【魔女の庭】に攫われてしまうよ――と言った具合に。


 だがあくまでそれは、「お伽噺」だ。

 屋根裏の小人や、靴の中に潜む妖精と大差は無い存在。

 漠然と皆がそのような共通認識を抱いているだけで、その真偽は分からない。

 いつからかそう言う風に、誰が語り出したのか……誰にも分からない事だ。



 その女が本当にこの世界を壊したのかも。



「ん?」


 不意に少年は、足を止めた。

 耳に届いた僅かな音。

 それは何かが砕けるような、微かな音で。


「今のは……」

 そして、覚えのある音だった。

 知らず身構え、周囲をグルリと見回した瞬間。




 ――――――彼の背後が、

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