第43話 ケイヤク
◇◇◇◇◇
三日後の早朝。地下の最下層に保管されたキューブの前に、ハルとシュウは静かに並んでいた。
ぶ厚い強化ガラスの壁の向こうでは、ユキノリをはじめ、ごく限られた関係者たちが、固唾を飲んで二人を見守っている。
「ホノカが緊張してどうするの」
「だって……」
抱き寄せた肩をさするアキトを、ホノカはすがるような思いで見上げる。祈るように握りあわせた両手が、わずかに震えていた。
「自分のときは平気だったのにね」
「しょうがないじゃない。こういうのって、人のときは緊張するもんなのよ」
「自分が経験したからこそ?」
「そ!」
そう言って、ホノカは気持ちを落ち着けるようにゆっくりと深呼吸する。
「ハルを信じよう。大丈夫。キューブはハルを傷つけない」
そう言って微笑むアキトに、ホノカはコクコクと小さく首を上下させた。
「ほら、始まるよ」
アキトがハルのうしろ姿へと視線を戻すと同時に、ホノカはちらりと出入口の方向を盗み見る。
部屋の隅の暗がりで、キョウヤが腕を組んだまま壁にもたれていた。うつむき加減の彼の表情が曇って見えるのは、室内が薄暗いせいだけではないのだろう。
――バカ……。
ホノカはそう胸の内でぼやく。
『ハル、準備はいいかい?』
独特な緊張感が立ちこめる中、スピーカー越しに聞こえたユキノリの声。
ハルは振り返って短く返事をすると、ガラスの向こうに居並ぶ顔ぶれを流し見る。
否、彼女の視線は吸いこまれるように部屋の隅へと向けられる。
――キョウヤ……。
暗がりの中にひっそりとたたずむ彼との視線は交わらない。
――こうするしか、ほかに方法がないから……。
「ハル……?」
わずかにうつむいたハルを呼ぶ声がする。それは言わずもがな、左隣に立つシュウのもので。
彼は緊張で顔をこわばらせながらも、ハルに向かって手のひらを差し出していた。
ハルはおずおずと自分の左手を重ねると、そのまま体の向きを変えてキューブに視線を移す。キョウヤがわずかに顔を上げ、切なげに見つめていることに気づけぬまま。
「……始めます」
ハルの右手がゆっくりと、淡い輝きを放つ宝石へと伸ばされる。
手のひらから伝わるなめらかな質感と、ひんやりとした冷たさ。それがじんわりとぬくもりに変わるのと同時に、ハルは静かに目を閉じた。
キューブの鼓動を感じながら、意識を寄せて波長を合わせる。
その様子を黙って見ていたシュウは、ハルとつないだ手を固く握りしめた。
キューブとのシンクロに集中しているハルからの応えはない。
ただ一方的な思いだけが、二人をつないでいた。
キューブにふれたハルの手のひらを通して、なにか不思議な感覚が流れこんでくる。ハルからしてみれば当たり前の、しかしシュウにとっては初めての感覚は彼を困惑させるには十分だった。
『シンクロ率、正常範囲内。問題ありません』
マリアの言葉に、ハルはまぶたを上げる。
キューブを凝視するシュウの横顔を一瞥すると、ハルは自然と頭に浮かんだ言霊を紡ぐ。
我 いま ここに宣言す
かの者 我が魂の 片割れとなりし
我を守護する者なり
血が交わりしとき 契約は交わされん
我らが魂 死するまで ともにあらん
とたんに、宝石はひときわ輝きを増した。安らぎにも似たぬくもりが光となって、ハルとシュウを包みこむ。
おのずと向かい合ったハルのひたいには、血の色をした聖痕が浮かび上がっていた。八つの角をもつマルタ十字を中心に、小さなダイヤが頭部に輪を描くように一直線に刻まれる。
ハルはゆっくりとまぶたを閉じた。
――ここに、キスすればいいんだよな?
シュウはゴクリ、と乾いた空気を飲んだ。
スペランツァの聖痕へ口づけることで、シュウは晴れてハルのスペラーレとなる。契約の前に教わった手順を思いだしながら、シュウはその刻印に唇を寄せた。
「っ……!」
それまで黙ってなりゆきを見守っていたキョウヤは、目の前の光景からおもわず顔をそむけた。
これ以上は、とてもじゃないが見ていられなかった。
ハルのそばにいることを願ったのは、あの場に立つ彼だけではない。
だが選ばれたのは自分ではなかった。
光に包まれる二人の姿に耐えきれず、キョウヤは静かにその場をあとにした。暗い廊下へと消えていく、哀しみともいらだちともつかぬそのうしろ姿を見ていたのは、ホノカとアキトの二人だけだった。
その直後、順調だと思われていたガラス張りの室内の様子が一変する。
まぶしいほどの輝きを放っていたキューブが突如として色を失い、次の瞬間には重たく禍々しい色を放ちはじめたのである。あまりにも突然のできごとに、ユキノリたちも対応が遅れる。
なにかがぶつかったような音がしたかと思えば、シュウの体がぶ厚い壁に打ちつけられていた。痛みに顔をゆがめるシュウは、ひどく動揺した様子で視線を泳がせる。
つないでいたはずの手は、何事もなかったかのように空っぽになってしまっていた。
「まさか、拒絶……!?」
「そんなっ……!」
ユキノリのつぶやきに息を飲んだのはマリアだけではない。まさか契約が失敗するとは、誰も思ってもいなかったのだ。
だが現に、キューブはシュウを拒絶した。
彼がハルのスペラーレになることを認めなかったのである。
キューブはまるで、ハルを守るかのように彼女のまわりを浮遊していた。荒々しく揺れる光は、周囲を威嚇するように刺々しい光を放っている。
「っハ、ル……?」
壁にもたれたままのシュウが、信じられないと言わんばかりの表情でハルとキューブを凝視していた。
ハルは強化ガラスの向こうを見遣り、哀しげに目を伏せる。そっとキューブを包んだ手が、かすかに震えていた。
「契約は中止する。シュウは医務室で精密検査を受けなさい。それからわかっているとは思うけど、今回のことは他言無用だよ」
司令官の有無を言わせぬ物言いに、居合わせた者たちはみな黙ってうなづくしかなかった。
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