第42話 スレチガイ

「え……?」


 シュウの発した言葉に思考がついていかなかった。

 信じられないとでも言うように、ハルは一瞬、呼吸すら忘れて瞳を大きくする。


 どうして彼がスペラーレのことを知っているのか。

 なぜ突然そんなことを言いだしたのか。


 目覚めたばかりの頭では、彼の言葉の意味を飲みこむのに少々時間がかかった。

 短いはずの沈黙がやけに長く感じて、ハルの指先に添えられたままのシュウの両手が、小さく震えていた。


「っで、でも……!」

「全部知ってるから。ハルのことも、スペラーレのことも。全部、教えてもらったから」

「っ、じゃあ、なんで……」


 すべてを知ったというならば、彼はわかっているはずだ。

 スペラーレとなり、スペランツァと運命をともにするということがなのか。


「それでもオレは、お前のこと守りたい。こんなオレでも、ハルの支えになれるなら……」


 シュウは片時もハルから目線をそらすことなく言葉を続ける。

 指先に添えられるだけだった両手は、いまはしっかりとハルの手を握っていた。


「オレたち、もう一度やり直せないかな?」

「っ……!」

「離れていれば忘れられると思ったけど、やっぱり無理だった。ハルがいない世界なんて、オレには考えられない。もしもハルがオレを選んでくれるなら、オレと一緒にくれるなら」


 いったん言葉を切った彼は、瞬きとともに深く息を吸いこみハルを見つめなおす。


「オレは、ハルを守るよ」


 微笑んだシュウの視線に耐えきれなくなり、ハルはわずかに視線を落とした。

 ふわりと抱きしめられる感覚に、喉の奥が締めつけられる。白い頬に、ひとすじの涙が静かに軌跡をえがいた。


「っ! ……ごめん、なさい……」


 声になりきれなかった言の葉は、誰にも届かない。




「どういうことだよ……!」


 ハルの意識が回復したとの一報を受けて、キョウヤは仕事を放り出して一目散に彼女のもとへと走った。

 だが目の前に立ちふさがったのは、日に何度も訪れていたはずの白いドアで。

 そこに貼られたたった一枚の紙切れの、『面会謝絶』の大きな文字が、キョウヤをその場から動けなくさせてしまった。


「なん、で……」


 ハルは意識を取り戻したのではなかったのか。

 キョウヤは嫌な想像を振り払うように舌打ちすると、焦る気持ちを抑えてドアハンドルに手をかけた。


「こら、面会謝絶の紙が見えないの?」


 カギのかけられたドアはひらかない。

 同時に、隣の部屋から出てきたマリアが彼の行動を咎める。


「ハルに、なんかあったのか!? なんで面会謝絶なんだよ、なぁ!」


 キョウヤはおもわずマリアに詰め寄ると、早口にまくし立てた。

 ハルの安否が気がかりで、見えぬ状況がさらに不安を増長させる。


「心配しなくても大丈夫。あの子なら意識を取り戻したわ」

「だったらなんで……!」


 どうして面会謝絶なのかという言葉を飲みこんで、キョウヤは病室のドアを見遣った。

 このドア一枚を隔てた先にハルがいる。

 朝までは許されていた入室が、なぜこのタイミングで禁止されたのか。

 理由がわからないまま、キョウヤは返答を促すようにマリアに視線を移す。


「契約まで、ハルはしばらく、うちで預かります」


 そう言ってマリアは腕を組んだ。

 ハルは無事だ。けれどもキョウヤの部屋には帰せないと、マリアの視線が物語っていた。


「契約、って……、なんの……」


 マリアから発せられた単語の意味が、理解できなかった。

 否、理解したくない気持ちのほうが勝っていたのかもしれない。

 わずかにうろたえた表情を見せるキョウヤに、マリアは一瞬視線を落とす。そうして、ゆっくりと息を吐き出した。


「あなたには、先に伝えておいたほうがいいわね」


 まっすぐに向けられた視線に、キョウヤは無意識のうちに一歩後ずさる。


 知りたい。だけど知りたくない。

 矛盾する感情に、思考がついていかなかった。

 キョウヤはただ、マリアの言葉の続きを待つことしかできない。


「シュウが、ハルのスペラーレに立候補したわ」


 どう返せばいいのかわからなかった。

 飲み込んだ息を吐き出せぬまま、キョウヤはこぶしを握りしめる。切ったばかりの爪が手のひらに食いこむ。


「わたしはてっきり、ハルはあなたを選ぶと思ってたんだけど……。いまさら言っても仕方ないわね」


 そう言って眉を落としたマリアは、おもむろにドアのロックを解除する。

 静かにひらいたドアの先へ、強引に押し入る気にはなれなかった。


「そういうことだから、あなたも部屋に戻りなさい」


 そう言って病室へと入っていくマリアを、キョウヤは無言で見送る。

 ハルの姿は、仕切りカーテンに阻まれて見えなかった。

 ただ、窓から差しこむ夕日が、彼女とおぼしきシルエットを浮かび上がらせているだけ。


 ゆっくりと閉まっていくドアに視界をさえぎられる。

 完全に閉まると同時に響いた施錠の音が、拒絶の音に聞こえて仕方がなかった。


「くそっ……!」


 現実から逃避するように、キョウヤはハルの病室に背を向ける。

 どこにもぶつけようのない痛みをかかえたまま、彼は足早にその場をあとにするしかなかった。



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