第25話 ソラ
◇◇◇◇◇
視界いっぱいに広がる真っ青な空は、どこまでも広大で果てしない。
おもわず息を飲むほどの澄んだ青空に浮かぶ真っ白な雲を、ハルはなにをするわけでもなくぼんやりと眺めていた。
風に逆らうことなどせず、それらは一様に同じ方向に流れていく。
照りつける太陽をさえぎり、大地に影を落としながら、雲は流れゆくままにその身を任せていた。
時おり、少し速い流れに乗ったものが他を追い越していくが、それでも雲はただゆったりと時を刻んでいる。
「……はぁ~……、もういまさらなんだけど……」
ハルは空に向かって深々と息を吐いた。
なるべく考えないようにはしていたが、一人になるとどうしても昨夜のシュウの言葉が脳裏をよぎる。
どうしてこんなところにいるのか。
いままでなにをしていたのか。
その答えは単純だ。
キューブの適合者になった。だからここで戦っている。それ以外に理由はない。
死と隣り合わせの環境に身を置くことになる。それをシュウに告げなかったのは彼へのあてつけだった。
当時、エリカとの関係を急速に縮めていた彼に対して、不信感がなかったといえば嘘になる。彼自身はハルに気づかれていないと思っているだろう。だがそういうときの女の勘はよく当たるものだ。
現にいまもエリカとともにいるということが、裏を返せば確固たる証拠となりうる。
一方的に別れを突きつけて存在を消したあの日、なかば自暴自棄になっていたとはいえ覚悟を決めたのだ。いまさら再会したからといって、なにがどうなるわけでもない。
――もう、あのころとは違うんだから。
緑豊かな屋上庭園の芝生の上で、ハルはただただ空を見上げていた。
こんなふうに晴れた日は、日向ぼっこをするのにちょうどいい。
庭園に植えられた樹木が、陽射しを浴びて心地いい木陰を作り出していた。
木の葉を揺らすやわらかい風が、ふんわりとハルの頬をなでる。
「ハール♪ なにしてんの?」
背後からかけられた声に、ハルは小さく肩を揺らした。どうやら気配に気づけないほどに、考えごとに没頭していたらしい。
振り返ってみれば、キョウヤがのんびりとした歩調でこちらに向かって来ていた。
「ジュース、どっちがいい?」
目の前に差し出された二種類のパックジュース。
一瞬悩むそぶりを見せたハルは、イチゴオレにいきかけた手をカフェオレに伸ばした。
「キョウヤ、仕事は?」
小首をかしげるハルのすぐうしろに腰をおろしたキョウヤは、長い足で囲うようにしてハルの体を閉じこめる。
ハルの問いかけに、彼はまるでいたずらをしでかした子どものように、舌先を出して笑っていた。
「ん~、サボり?」
「……なんで疑問形?」
キョウヤの両腕に抱き寄せられるまま、ハルは彼に背を預けてもたれかかる。しっかりと腹部に回された腕を土台にして、ハルはパックジュースにストローをさした。
「てゆーかハル、ちゃんと昼メシ食った?」
「ホノカんとこでおやつ食べたー」
「おやつはごはんじゃありません。ったく、夜は一緒に食べよ?」
キョウヤからの誘いに相づちを打ちながら、ハルは口の中に広がるやさしい甘さに、ほっ、と一息つく。
「……部屋、いてもいいって言ったじゃん」
耳元で少々不満そうにそうこぼすキョウヤに、ハルは眉を下げて苦笑した。
「キョウヤいないのに、居座ってたら悪いかなって」
「べつにいいのに。ハルが部屋にいると思うとテンション上がるー」
そう言って頭上でくすくすと笑う彼につられて、ハルも小さく笑みをこぼす。
再び見上げた空はやっぱり青く、雲は相変わらずのんびりと空を漂っていた。
「そういやさ、新人くんたちとやりあったんだって?」
キョウヤの言葉に、ハルは煮えきらない表情を浮かべた。
「あー、やりあったってゆーか……」
口ごもるハルの言葉を、キョウヤは短い相づちで促す。
「……なんか、許せなかっただけ……」
かすれた声で、ぽつり、とこぼしたハルの言葉を聞き逃すまいと、キョウヤは静かに耳を傾ける。
「べつに、理解してほしいわけじゃないけど、でも、なんか……」
きっと彼らには理解できない。
どんなに怖くても、泣くほどつらくても逃げられない。
逃げることを許されない自分たちの運命など。
それきり黙ってうつむいてしまったハルを、キョウヤはあやすように包みこむ。
「後悔してる? スペランツァになったこと」
「してない」
みずからを犠牲に戦う覚悟は、とうの昔にできている。
だからこそ、「女だから」と当たり前のように、「守られて当然だ」と言わんばかりのエリカの態度にいらだちを覚えたのだ。
ハルを抱きしめたまま、キョウヤは彼女の代わりに上空を見上げる。
雲の流れが、いささか速くなったような気がした。
「ハルはさ~」
「んー?」
「空、好き?」
「うーん……、どっちかっていうと……」言いよどむハルは、言葉を選んでいるようだった。
「うらやましい、かな?」
キョウヤが小さく復唱した言葉にあきらめにも似た笑みをこぼすと、ハルはゆっくりと空を見上げる。
「空は、自由でいいなぁって……」
少し強い風が、二人の周囲を颯爽と吹き抜けていった。
その風が彼女を連れ去ってしまいそうな錯覚に襲われ、キョウヤは回した腕の力を強くする。
「キョウヤは、あったかいね」
「心があったかいからな」
「……それ逆じゃない?」
「え、うっそ!?」
「あははっ、知ーらない♪」
見上げつづけた空から視線をはずしたハルの顔には、無邪気な笑顔が広がっていた。
自然とキョウヤの顔にも笑みが浮かぶ。
――この時間が、ずっと続けばいいのに……。
願わくばもう少しだけ、穏やかな雰囲気に二人で身を委ねていたかった。
「そろそろ行かなきゃ」
ひとしきり笑ったあと、ハルはキョウヤに背を向けたまま静かに立ち上がった。ワンピースの裾が風に揺れる。
「ん、もーちょい」
甘えるようにして、キョウヤはハルの小さな手に指を絡める。
握り返された手が、わずかに震えていた。
「だめ。やつらが来るから」
無機質なサイレンが、けたたましく館内に鳴り響く。
「ほら、ね?」
振り向いた彼女は、ひどく哀しそうな表情で笑っていた。
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