第2章 The Reason for Tears

第21話 イクモツカサ

「――きゅうじゅーごっ、きゅうじゅー、ろくっ」


 誰もいない広いトレーニングルームの片隅で、ツカサは今日も朝から筋力トレーニングにいそしんでいた。

 つま先をバランスボールに乗せることであえて負荷をかけた腕立て伏せに、腕の筋肉が限界だとばかりに震える。

 滴り落ちた汗の粒が、薄ピンク色のマットの色を濃くしていった。


「――きゅうじゅーくっ、ひゃー、くっ!」


 ツカサは息を止めて両腕を伸ばしきると、崩れるようにしてうつ伏せに倒れこんだ。

 大の字に全身を投げ出せば、バランスボールが跳ねて遠くへと転がっていく。


「っ、はぁ、終わったぁ」


 ごろん、と仰向けに寝返りを打ったツカサは、息を吐くと同時に全身の緊張をゆるめた。血液が体の隅々までめぐるのを感じながら、閉じたまぶたをゆっくりとひらいていく。

 天井の白いシーリングファンが、ぐるぐると一定の速度で回転していた。


「はぁ、はぁ、まだ、こんなんじゃ……」


 大きく胸元を上下させながら、限界を訴える腕を天に向かって伸ばす。手のひらにさえぎられた明かりが、汗ばむ顔に影を落とした。


――まだ、やれる。あきらめるな。


 ツカサは深く息を吸いこみ呼吸を整えると、幼さの残る丸っこい手に力を込めた。


――みんなの期待に、応えたいから。だから……。


「ツカサー、いるー?」

「アキトさん?」


 不意に耳に届いた聞き慣れた声に、ツカサは上体を起こして出入口へと首を振る。半開きになったドアから、アキトが顔を覗かせていた。


「やっぱりここにいた。さすが、『ツカサに会いたければトレーニングルームに行け』、って言われるだけのことはあるよね」

「もー、なんですかそれー」

「ははっ、それだけ、ツカサがトレーニングに励んでるってことだね」


 常日頃からトレーニングルームに入り浸っている自覚はあるが、いつの間にかそんなふうに言われるようになっていたとは。

 急に恥ずかしさを覚えたツカサは、それを隠すように、顔の輪郭にそって流れる汗をぬぐった。


「ところでアキトさん、なにかご用ですか?」

「うん。実はもう、定期検査の時間なんだけどね?」「え?」


 アキトが言い終える前に、ツカサは反射的に壁の時計を見遣る。

 次の瞬間、彼女は「忘れてたぁ!」と叫ぶなり青ざめた顔で立ち上がった。


「十五分も過ぎてる!? すぐ! すぐ行きます!」


 出入口でにこにこと笑みを浮かべているアキトに慌ててそう言うと、ツカサは私物化している棚の一角にマットやダンベルを押しこみ、転がっているバランスボールを拾いに駆ける。「急がなくていいよー」と言うアキトの声も耳に入らぬ様子で、ツカサは床に放ったままのパーカーを拾い上げると、つまずきながらも小走りにアキトのもとへと向かった。


「お待たせしました!」

「おつかれさま。はい、これ」

「えっ、ありがとうございます!」


 アキトから差し出されたのは、よく冷えたスポーツドリンクだった。

 喉を鳴らして乾きを満たせば、冷たさがじんわりと全身に染み渡る。


「ぷはー、生き返るー」


 隣でアキトがくすくすと笑った。


「アキトさん、いまオジサンみたいって思ったでしょ」

「ばれちゃったか」

「前にホノカさんにもおんなじこと言われましたもん」


 ついこの間のできごとを思いだして、ツカサは小さく唇を突き出した。


「そんなに笑わなくてもいいじゃないですかー」


 顔をそむけて肩を揺らすアキトに、不服だとばかりに頬をふくらませてみせる。


「もう! 置いていっちゃいますからね!」

「ははっ、ごめんごめん」


 大股で歩きだしたツカサを追いかけて、アキトもすぐに追いついて彼女の隣を歩く。

 特段急ぐでもなく、二人は他愛もない話をしながら目的地へと向かった。


「そういえば、ホノカさんとハルさんは、検査終わったんですか?」


 エレベーターを乗り換えるために司令室前の廊下を歩きながら、ツカサはふとアキトにたずねた。


「二人とも昨日終わったよ。ハルの検査は今日の午後の予定だったんだけど、暇そうにしてたからってマリアが昨日のうちに済ませちゃってね」

「そうなんですかー」


 なんの気なしに相づちを打ちながら、ツカサはまだ冷たさを保っているペットボトルを首筋に当てる。


「つめたーい。気持ちいいー」

「それにしても、毎日よくがんばるよね。無茶してると、またマリアに怒られるよ?」


 アキトの言葉に、ツカサは前を見据えたまま軽くこぶしを突き出す。


「だって、ハルさんとホノカさんに、早く追いつきたいですから!」


 並んで歩くツカサをちらりと横目に見て、アキトはやれやれと小さく苦笑した。

 揺るぎない彼女のまなざしが、未来に向かって輝いているような気さえする。


「最初のころを思えば、ツカサは十分がんばってると思うけどね。近ごろのシンクロ率も飛躍的に伸びてるわけだし」

「そう、かもしれないですけど……」ツカサがわずかにうつむいた。


「……くやしかったんです」


 エレベーターに乗りこむなり、先ほどまでの元気とは対照的に、ツカサはぽつり、とそうつぶやいた。



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