第12話 課題

 父は帰ってきた。充実感もそれなりにあった。借金は完済されたわけではないが、私が進路を自由に決めても問題がない程に無くなってくれた。美香はやはり、彼女の言う通り、完全には元に戻ることはなかった。今でも、ショックを強く受けていた頃の傾向が見え隠れしているし、時間はもっと必要だった。私も仕事に追われる必要は無くなったが、急な変化に対応することは難しく、またも自分の幸福を考える日々に戻った。もう見えてはいる。だが、奈々が推奨してくれたテーマパークの従業員もなぜか手を伸ばせずに居たのだ。私も時間がいる。

 そして3カ月ほどの時間が経過した。父が帰って来てからというもの、何かとバタバタとしており、館へ赴くのも忘れていた。頭にはあったが、行けていなかった。私は私自身がするべきことに集中したかったので、これも何となくだ。そして3カ月も経てば変化は訪れ、それにも適応できる。美香の調子は良好で、一度精神科に診てもらったが、軽いストレス症状が出ているだけで、完治は可能だという話だった。学校にも普通に通えているし、問題は無さそうで安心した。一度、彼氏を連れてきたこともあったが、案外普通の人だった。しっかりと美香の内面を捉えてくれているのか、落ち着いた性格で、非行に走ることも無さそうだった。美香が荒み切り、もう私たちが関与できない場所に行ってしまうことも危惧していたが、それもなかったわけだ。

 家族間で上がる問題も無くなってくれた。私は私の進むべき道をゆっくりと決めれば良いとも言ってくれた。その中でフリーターを続けながら、久々に美香に声を掛けることにした。館のことだ。彼女も充実しているのか、行きたいと持ち掛けてくることはなかったからだ。

「久しぶりだね。行くよ。でももう、何か私は今日が最後の気がする。前に旅立ちがあるって言ってたよね?手紙がそうだったように、直感でそんな感じがする。」

 私が誘うと、美香は頷いてくれたが、こんなことを言い出した。私にはその感覚はなかった。でも、あの直感は本物だったし、これも本物なのだろう。私は美香が現在、心から笑えていることに感謝した。

 いい機会なので美香と二人で行くことにした。美香にとっては最後の、妙な儀式を済ませ、二人であの館へと向かった。かなりの時間が経過していたが、いつも通りの豪華絢爛で愉快な雰囲気の建物はそこにあり、私たちを待ってくれていた。

「やあ、ご無沙汰しております。今日は美香さんの記念日ですね。では中へ、今日は憂慮の記憶です。」

 惰眠は美香の発言通り、今日がここを巣立つ日だと言った。

「あの、美香は幸せになったってことで間違いないんですか?」

 私は少し心配になり、そう聞いた。姉としてもそれは凄く気になった。ずっと闇を抱え続けてきた美香が、私よりも早く、幸せになれたのだろうかと。未だに美香は苦しんでいないかと思案することも多いのだ。

「そういう事になりますね。最も、人の心情というのは変化します。ここを巣立ったからといって金輪際来れないわけではございませんよ。」

 惰眠はいつもより丁寧に答えてくれた。ひとまずは幸せになれたという事と、幸せが決定した瞬間にここを利用できなくなるわけじゃないという旨は安心できた。

 一度だけ通ったことのある廊下を行き、一度だけ入ったことのある場所へと案内された。その扉が開かれた瞬間、その景色に美香は感銘の声を上げた。

「…では、お楽しみください。」

 惰眠は軽くここの説明をし終えると去っていき、私たちは二人きりになった。

「適当に見よう。美香の思い出も見てみたいな。」

 私が先に行き、部屋を歩いた。ここは幸福な記憶を見せる場所だ。それは十人十色で、ずっと一緒に過ごしてきた私たちですら、全く違う思い出を見せてくれるのだ。

「なんかちょっと恥ずかしいよ。」

 そう言いながらも妹はアルバム帳を手に取り、私に見えるように開いてくれた。そこには私の時とは違う場面が幾つもあり、私の知りえない学校での生活なども垣間見ることができた。でも、所々が飛んでおり、彼女が苦悩を抱えていた時期の写真は一つもなかった。それに美香は気づいていない様子だったが、私の胸には顕著に届いた。

「成長って早いね。こんな小さな頃の写真見てたらウルウルしちゃうね。」

 勿論、私はそれを口にしなかった。美香が今を生きていられるだけで嬉しかった。しかし、あなたにとっての幸せは何?そんな質問ができなかった。今なら自信を持って答えてくれるだろうけど、言えなかった。でも知りたかった。私の幸福についてももう一度考える材料にもなる。そして、もう何も心配しなくてもいいのか。私はこの先がどうなるか分からなくなって、少し怖かった。安全だと言い切ってしまうのも。幸福が抜け落ちた時期が、その思いを強くさせたのだ。言ってしまえばなんてことないのに、どうして伝えるのがこんなにも難しいんだろう。

「姉ちゃんのも見せてよ?あたしだけじゃずるいもん。」

 最後までページをめくり切ると、パタッとそれを閉じ、美香に小突かれた。

「いいわよ。でも面白いものじゃないかも。」

 私はそれを引き受け、新たなアルバムを開いた。人の幸せについてこんなにも深く考えてしまうのは私だけなのだろうか。美香は何も思うことがないのかな。特に気にせず声を掛けてくれたのだろう。今は、置いておこう。

「あれ?前と違う。これ、学生時代の。あの時、幸せだったっけ。そんな風には思えないんだけど。」

 開いてページをめくってみると、とてもじゃないが考えを置いておくことができなくなってしまった。そこにあったのは私たちが一番苦労していた時期であった頃の写真で、最初のように心からの笑みを浮かべる私は居なかった。それが何故か当てつけのようにあるのだ。そんなことを思い返せば、考えは深くなる一方だというのに。

「あたしが学校行けてなかった時期だ。何か規則性が乱れてる感じがするなあ。姉ちゃん心当たりある?この頃の思い出で。」

 妹はそれを見てしまったが、今は引きずらず、受け止めているようだ。心の奥底にしまい込んで、目に入らぬようにしていなくて良かった。私はまたパニックになったらどうしようかと焦っていたから。

「いや、私もこの頃が幸せだったなんて微塵も思わなかったよ?大学だって中退したし。」

 こればかりは良い方に解釈できない。見れば見るほど憂鬱に思えてくる。確かに私たちは乗り越えた。それでも、鮮明に思い出したいと思う道理はない。

「もしかしてさ、幸福に必要だから。とか?わかないけど、姉ちゃん今、悩み事でもあるんじゃない?」

 美香はそれをまじまじと見つめ、妙なことを私に言い出した。図星をつかれた私は一瞬、絶句してしまった。それを聞いても、これに何の意味があるのかはどうしても理解できなかった。

「あるにはあるけど。もう見えてるっていうか。解決法が解ってるのに、それができないのって、悩みって言える?」

 私はなんだか素直に答えるのは嫌だったので、哲学的な問で返した。私は自分の幸福について知っている。なのにそれを実行するのが怖いのだ。それはとても愚かなことじゃないのか?

「悩みだね。それも。知っててもそれが成就するかは別問題じゃん。その解決法って、もしかしたら口で言うのよりも何倍も難しいかも。だってそれには努力も、才能も、根気も、運も、いっぱい必要でしょ?まあ偉そうに言ってるけど、私も諦めたことも多いよ。」

 妹は苦労をしてきた人間らしく、私の心を撫でてくれる言葉を言ってくれた。私はずっと美香を支えてきた気でいたけど、彼女もまた多くを乗り越え、歩んできたのだ。私以上の心意気を見せ、諭してくれた。

「私さ、妥協するのが怖い。ずっと理想を追ってたいの。それを追い続けてる限り、幸せになんて成れないって知ってるのに。なのに心では幸福に飢えてる。美香は諦めたって言ったよね?後悔はないの?」

 美香の目を見ていると、底からの思いを話してしまった。自分の中で出ていた答えが、ようやく言葉になって表へ出た。美香の言った通り、その理想を叶えるというのなら、口で言う何千倍もの有象無象が必要で、考えてみれば私には足りないものばかりなのだ。だけど、それも知っていた。自分には無理だって知ってるのに、強い念が振り払えない。

「姉ちゃんはずっと我慢してきたでしょ?飢餓状態だよ。その欲は簡単に止められないと思う。そうだなあ。後悔か。あるにはあるよ。でも、実際手にしたものを見つめてみると、収まりが良いと思えたよ。別にしっかりとした形じゃなくてもいい。だから何でもいいから前へ出てみたら?これの使い方教えて。」

 妹はゆっくりと立ち上がり、大きな望遠鏡の元へ歩いていった。いつからあんなに大人びたのか。私は置いていかれたようで、少し寂しかった。しかし、それには否定的な感情はなかった。私が妹を思う気持ちだけはずっと変わってない。

「ありがとう。前へか。ちょっと考えてみる。覗くだけ。」

 何かをしろと言われるよりも、自分ができるようにやれという言葉の方が落ち着けた。私は飢えている。そのことを否定はできない。だからそれをどうやって解決するかが重要だ。少しでもいいから形にしてみようかという気になれた。

 妹は感心した様子で望遠鏡を眺め続けていた。彼女の口角は上がり、声を出して静かに笑っていた。しかし、それを眺めていると今度は涙を流し出し、望遠鏡から離れて私の方へ寄ってきた。そして

「そっか。姉ちゃん。今までありがとう。ねえ、幸せになって。もう私は幸せになれたよ。」

 私を力いっぱい抱きしめてくれた。一体何を見ていたのだろう。私と同じように、忘れるべきじゃなかったことを思い出し、心が吹き上がったのだ。どうしてこんなにも強く心が揺れるのに、私は幸福だと言えないのか。それでも、私に足りないものを補ってくれるように、美香と言う存在は私の心を支えてくれていた。そこだけ切り取れるなら、私は確かに幸福だった。私も抱きしめ返し、優しく撫でた。何を見たのかは聞かないことにした。美香の態度からは言葉以上の思いが伝わったからだ。今はこの温もりだけで十分だ。

「おめでとう。これからも幸せでいてね。」

 もしかしたら、さっきの憂鬱なる写真は、私にとっての美香と言う存在を誇示するものだったのかもしれない。私の苦労の生まれた理由の半分が、美香のためだったからだ。学道をやめ、慣れない仕事がどんどん増えていく感覚は、恐ろしかった。それでも、そんな苦労よりも代えがたいものがあった。そこにあった思いだけは、確かに忘れるべきじゃなかった。そんな風に解釈することにした。私は結局、美香にとっての幸福を聞けず仕舞いになり、彼女の体をそっと離した。

「最後に良いもの見られたよ。来てよかった。」

 美香は涙を拭き、微笑んだ。ひと段落が付くと、タイミングを見計らったように扉が開いた。

「お帰りの時間ですよ。出口まで案内します。」

 惰眠は私たちの心情に触れることなく、手招いた。妹は通る事がもうないかもしれない廊下を歩いていった。私はあと何度通るかな。

「あ、忘れ物しちゃった。美香、先に帰ってて。」

 エントランスに来たときに私はそう言い出した。本当は忘れ物などない。財布の一つも持って来ていないのだから。本心は、ここについてもっと知りたかったというものだ。幸せを導いてくれるこの場所が、どんな存在なのかを知りたかったのだ。

「そう?分かった。先に帰るね。」

 妹はそう答え、私はせっかく最後だし見送りはすると言い、妹が帰っていくのを見守った。

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